第六幕「連環の座」
犠牲は二度、まったく別の舞台で、同じ律動を刻んだ。
昼の学び舎で、白い翁像が美緒を呑み込み。
夜の診療所で、赤い光が俊和を血の幻影に沈めた。
——像と光。材質も原理も異なるのに、結果だけが同じ方向を向いている。こういう一致は、偶然の衣を着た手順だ。
祟りと呼ぶか、仕掛けと呼ぶか。
篠宮家の人々は、二つの死を「偶然」では片付けられない地点に来ている。
線香の匂いは座敷の天井に張りつき、雨脚は細り、廊下の電球は薄く脈打つ。
静けさ——に見えるものは、実際には小さな音と匂いで満ちている。家の材が湿気を吸って膨らみ、障子の桟が微かに鳴るたび、誰かの視線が跳ねる。
恐怖は感情ではない。向きを持つ力だ。人の視線を一つの方角へ揃え、やがて「疑念」として尖り、最も立ちやすい的に突き刺さる。
祟りの語は便利だ。理由を総称に押し込み、個別の差異を埋めてくれる。
だが、恐怖の再現性は言葉を超える。
「覗かれる」——像でも赤光でも、まず見られたという物語から始まり、次に振り向かせる条件が揃えられ、最後に落ちる導線が用意されている。
同じ言葉が、別々の場所で、同じ順番で作動しているのなら、それは祟りではなく設計だ。
私はそう見ている。だが、家の中で信じられるのは最初に痛みを分かつ言葉のほうだ。人は測定値より先に、慰めを選ぶ。
そして、矛先は必ず外から来たものへ向く。
見慣れない靴、乾いた声、冷たい手順。
測る者、確かめる者、境界線を引く者——探る者は、恐怖の磁石にとって最適な極である。
「祟りはあなたがたが連れてきた」。そう囁く声は、一人ではない。
疑念はすでに座の下で枝分かれし、外部と内部の境目を黒く塗りつぶし始めている。
私は知っている。二度の一致は、三度目の予告だ。
遺記が告げる第三の兆しは、社と参道——背に息。
この家の気配は、そこへ向かう導線を自ら張っている。
恐怖は加速する。加速は、誰かの意図を露わにする。
——そして今、この家が最初に見つけてしまう的は、祟りでも仕掛けでもなく、私たちだ。
診療所から戻った夜。
玄関土間に水が筋を引き、濡れた傘が骨の数と色で持ち主の列を作っていた。ビニール張りの安物は数が多く、骨の継ぎ目に赤土が噛む。黒い長傘は三本だけ。先金が磨かれているのは啓と弘志、それから朝永のものだ。水滴の落下間隔は一・五秒前後。庇の返り雨がまだ屋根を叩いている。雫は三和土の砂利に楕円を描き、湿度は七〇%台後半まで上がっていた。湿気は音を吸い、声は必要以上に低くなる。——家が人の声を飲む夜だ。
土間の端に立てかけられたモップの柄に、ワックスの薄い曇り。毛先はまだ湿り、帯状に白く固まっている。柄には古いテープの残骸と、最近貼り替えたばかりの赤いラベル片が二枚。私は視線だけでそれを拾い、位置関係を頭にしまう。玄関戸の桟には、開閉の度に付いた新しい擦過が三筋。出入りが増えた家は、必ず音と傷で自己申告する。
座敷にはすでに人々が集まっていた。畳は新しくはないが、縁の擦り切れ方に序列がにじむ。床の間の供花は白百合。花粉は落とされていたが、茎の切断面に鋏の荒れが残る。線香の匂いは消えきらず、天井板の溝に甘い煙の層をつくって襖紙の繊維を重くした。壁時計の秒針の跳躍音がいつもより大きいのは、耳ではなく心拍との干渉だ。葬儀の影はまだこの家に貼りついている。低い照明は顔の下半分だけを浮かせ、目だけが先に動く。
私は出入り口に背を置かず、対角の柱を背に取る。座の全体を見渡せ、逃げ道にもなる位置だ。座布団のへたりで常の座がわかる。啓は床の間に近い上座へ。だが腰は浅く、体幹が前に倒れる。喪服の裾が畳の目を几帳面に揃えようとする癖を露わにする。綾子は一歩引いた位置で全員を斜めに監視し、目の焦点が人から人へ一定周期で跳んだ。弘志は数珠を指に絡め、節の浮いた手で畳を叩く癖。叩く間隔は三—三—二の短いリズム。美砂子は喉の奥で祈りを小さく回し、声帯の微震が揺れる。実花は父の袖を握り、力の入れどころを失った指が止まらない微振動を続けている。悠斗は膝上に両手、親指だけが二秒周期で触れ合う——遺記の暗唱と同じ周期だ。玲奈は目線を床→壁→天井と三段に移し、音ではなく空気の流れを見ている。きよは口元を開け、湿った呼気で「また覗かれてる」を成形する準備をしていた。口輪筋の動きだけで、もう言葉の形になっている。
葬儀明けの家は本来、沈黙が支配する。だがこの座敷にあるのは沈黙ではない。囁きの前駆だ。誰も喋らない瞬間にこそ視線が交錯し、言わない言葉が増幅される。線香の煙は天井に溜まり、照明に薄い光輪を作る。人の目はその輪を追い、「上から見られている」錯覚を育てる。障子の桟が湿気で膨らみ、わずかな風できしむ前の準備音を出す。私は鼻孔に残る消毒薬と鉄の気配を確認する——診療所の残り香だ。恐怖は匂いに宿り、匂いは記憶へ直結する。記憶が合図になった夜は、理屈より先に身体が反応する。
——葬儀の影は消えていない。
むしろ、ここで濃くなっている。
当主・啓が口を開いた。
喉仏が一度だけ大きく上下し、声は低いのに語尾の母音だけが細く延びた。横隔膜が固いと、声は必ずこうなる。
「……もう二人だ。美緒に続いて俊和まで。これを祟りと呼ばずに何と呼ぶべきか。」
言葉は整っているのに、呼気の量が合わない。家長の文法を置きながら、肺は当主の容量を失っていた。畳に置いた拳は開いたまま。握るべき場面で握れていない——威厳はそういう細部から削がれる。
綾子は座の中央で家族を見回し、目を細める。
眼瞼は一定周期で開閉し、視線の停滞がない。監視者の眼だ。
「祟りかもしれません。けれど……忘れてはいけません。像の前でも診療所でも、必ず“調査者”がいた。
——そのことを、どう説明なさいますか?」
視線は私と朝永へ正面から直線で差し込む。斜に伏せず、衝突を選ぶ目。問いは仮定の形を取りながら、結論を誘導している。「祟り」より先に「異物の介入」を選ばせる話法だ。場の空気は言葉ではなく向きで動く。
弘志が膝を進め、座の縁に指の節を当て、声を張る。
「だから言ったのだ! 神事を軽んじた報いだ。祟りを呼び込んだのは、異分子を屋敷に招いたからだ!」
数珠が節の棘で鳴る。音は小さいのに、部屋の湿度がそれを増幅する。怒りは恐怖の表現であり、対象を外に置きたいという衝動の言語化だ。
美砂子も同調し、数珠を握って叫ぶ。
「神域に触れさせるなど、もってのほか。今すぐ祈祷を行うべきです!」
「今すぐ」という語は、思考を止めるための時間遮断。焦燥は儀式の友で、検証の敵になる。
だが玲奈が冷静に切り返した。
声量は抑え、母音を短く切る。訓練された冷静さだ。
「叔父上、叔母上。恐怖は伝染します。祟りと呼ばれる現象の裏に“仕掛け”があるなら、それを確かめるしかないのです。
見ないことは、恐怖を強めるだけです。」
正論は、迷信の最中ではしばしば挑発になる。場の温度が一段上がり、呼吸音が増す。畳の目に落ちる影がわずかに濃くなる。火花は見えないが、息の擦過は見える。
実花は青ざめた顔で父にしがみつく。
肩筋に微細振戦。逃げ場のない力が皮膚の下で跳ねる。
「次は私……翁も赤い顔も、ずっと私を見てる……」
言いながら、彼女は天井の角を一瞬だけ見た。人は恐怖の源を「上」に置く。
悠斗は暗唱を始める。
「……覗かれる……祟りなり……振り向くな……」
二秒周期、アクセントは平板。言葉は意味から離れて拍に変わり、座敷をさらに冷たく締めつける。儀礼化した音は、恐怖を物に変換する。物になった恐怖は、止まらない。
朝永は腕を組み、低く吐き捨てた。
「数を測れば偶然じゃない。蝶番の痕、床のワックス、照度の偏り。全部“人間”の手が作った数字だ。」
彼はいつも測れるものしか言わない。だからこそ効く。祈りに対して、数は反証として鋭い。だが数は慰めにならない。家族の顔がそれを示している。
私は続ける。言葉は短く、順を追って。
「祟りは、信じる数が増えることで強まる。
だが恐怖は構造を持つ。具体に落ちる。だからこそ、検証が必要です。」
私は目配せで三点を示す。鍵/清掃/照明。言わなくても、分かる者には分かる。視線がわずかに散り、数人は天井の配線トレイに、数人は土間のモップに、そして玄関の鍵束へ触れた。綾子の指先が鍵のタグを無意識に弾く。タグは色分けされていた。赤/青/白——診療所、学校、神社。私は色と数を記憶に置く。
綾子が、座敷の中央から一歩前に出た。
「探偵さん……あなたは“祟りではなく仕掛け”と仰る。でも、なぜ二度とも“犠牲”が出るまで止められなかったのです?」
その声は柔和に見えて、実際には責めを含んでいた。微笑を湛えながらも、目の奥には監視の刃が光る。
環が続いた。
「姉さん……でも、仕掛けなら、誰かが必ず手を動かしている。……そうですよね?」
彼女は両の手を膝に重ねて震えを隠そうとしたが、指先が珠数に触れる音が小刻みに鳴った。
「私……俊和の妻として、信じたいのです。祟りではなく、人がしたことだと。」
美砂子は環の言葉を遮った。
「人の仕業だなんて……それこそ恐ろしい。血の繋がりを持つ者が、家族を殺めるというのですか?」
唇を濡らし、声を尖らせる。
「だから私は祟りを信じます。その方が、まだ救いがある!」
津守は彼女らを見渡し、低く応じた。
「救いとは、責任を外に置くことです。……祟りに委ねれば、誰も手を汚さずに済む。しかし、それで次の死を止められるでしょうか。」
玲奈が膝を正し、ノートの角を指で揃えながら言葉を重ねた。
「叔母上。恐怖は伝染します。伝染する恐怖は、人を行動させ、時に死へ導きます。……仕掛けが祟りに見えるのは、人間の脳の構造そのものなんです。」
彼女は眼鏡の奥から津守を見据えた。
「探偵さん……あなたは“仕組まれた恐怖”を見抜けるのですか?」
津守は短く頷き、目の前の四人に言葉を残した。
「私が見抜けなければ、次も祟りに見せかけた仕掛けが牙をむく。……篠宮家に生き残る道は、祟りを暴くしかないのです。」
その場に沈黙が落ちた。
線香の煙がゆるやかに流れ、四人の表情をなぞる。
綾子の目はなお鋭く、環は震え、美砂子は口を結び、玲奈はただ冷静に記録を取っていた。
——その沈黙自体が、祟りよりも重くのしかかっていた。
綾子の視線が探偵と測定者を射抜いた瞬間、座の空気は張り詰め、沈黙の弦がきしんだ。
そこへ、声変わりの途中で揺れる少年の声が割り込む。
明人だった。母の環の袖を掴みながら、震える声を押し出す。
「……母さんは祟りなんか信じてない。事故だって……そう言ってた! 母さんを……責めないでください!」
言葉はまっすぐだが、声が裏返り、膝も小刻みに震えている。その曖昧さは、かえって場を疑心に染める。
弘志が冷笑を含んで吐き捨てた。
「お前に何がわかる。血筋を軽んじる母の子もまた、祟りを呼ぶのだ。」
環は顔を伏せ、数珠を握る手をさらに強く結んだ。
続いて、下座に斜めに腰をかけていた直弥が、場を切り裂くように鼻で笑った。
「祟り、祟りって……。村中の掲示板でも同じことを言ってる連中がいるけど、あれだって誰かが面白半分に書いたんだろ。
……まさか俺のせいにする気じゃないよな?」
彼の言葉は冷ややかに響いたが、逆に綾子の視線が鋭く突き刺さる。
「直弥さん。あなたが帰郷した直後から“呪い”の噂が加速したのは事実です。
偶然、と言い切れるのでしょうか。」
直弥は肩を竦めたが、その仕草は無関心よりも自己防衛に近かった。
その時、座敷の隅。灯明の届かぬ場所から、湿った息を含んだ声が漏れた。
古老・きよだった。口は半開きのまま、言葉を刻むように。
「……また覗かれてるよ。……外からじゃない。血の中から……。」
その呟きは風のように小さい。だが聞いた者の心臓を直に叩く。
一瞬、誰もがきよを見た。次の瞬間には、誰も目を合わせられなかった。
座敷の空気はさらに沈み、線香の煙が一層濃く漂った。
明人の曖昧な声、直弥の冷笑、きよの呟き。
それらが交錯し、篠宮家の裂け目をいっそう深く刻み込んでいった。
その時、啓が立ち上がった。
膝がかすかに鳴り、喪服の裾が畳の目を掠る。
「……次は、神前を調べていただきたい。祖母の遺記に記された“参道の兆し”……。
祟りであれ仕掛けであれ、真実を確かめねば、この家は崩れる。」
声は弱いが、言葉の選び方は戻っていた。家長の文法に帰るとき、人は結論を置く。
弘志が激しく首を振り、美砂子も声を荒げる。
「神域を汚す発想が——」「これ以上は——」
二人の語尾が重なった瞬間、縁側の障子がわずかに揺れ、雨上がりの風が薄く滑り込んだ。線香の煙が一枚、水平に流れて切れる。
音ではなく、空気の形が場を切断する。議論は、その物理に従って収束した。誰もが言葉を飲み込み、呼吸だけが部屋に残る。
次の舞台が定まったことだけが、座敷に置かれた。
綾子は短く一度だけ頷き、視線を天井から家族の顔へ戻す。
玲奈はノートの角を正確に揃え、啓の言葉に必要以上の反応を見せない——賛成は、浮かせると摩擦になる。
実花は父の袖を強く握り直し、悠斗の暗唱は拍を半拍だけ伸ばした。
きよは口の形だけで「覗かれてる」を作り、音にしない。音にすると現実になるからだ。
土間の水筋はもう細り、雫の間隔は二秒まで延びた。代わりに、時計の秒針が家の中心になり、一秒ごとに篠宮家の心拍を打つ。
篠宮家の座敷は、沈黙の檻であった。
祟りと呼ぶ者。仕掛けと断じる者。理屈で抗う者。
そして——言葉よりも深く、恐怖に囚われる子供たち。
私は、そこにただ「裂け目」を見た。
恐怖は人を一つに縛るのではない。
むしろ互いを疑わせ、分断させる。
その分断の隙間にこそ、仕掛けを施す余地が生まれるのだ。
ここまでに散らばった声を、ただの錯乱と片付けてはならない。
明人の庇い、直弥の冷笑、きよの呟き。
そのどれもが、仕組まれた「舞台」の一部に違いない。
恐怖は曖昧に見えて、必ず具体に落ちる。
そして具体に落ちるとき、犯人は必ず痕跡を残す。
床の滑り、蝶番の痕、光の角度。
あるいは——言葉の端、呼吸の乱れ、視線の流れ。
次なる兆しは「神前」。
祖母の遺記は、夜半の参道を警告している。
振り向けば絶える、と。
ならば私は振り向かねばならない。
なぜなら探偵は、恐怖の背中を直視する職業だからだ。
——さて、あなたはもう気づいているだろうか。
覗いているのは像や赤光だけではない。
篠宮家の誰もが、互いを覗き合っている。
その視線の交錯こそ、祟りの正体を形作っているのだ。




