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第五幕「赤き顔」

 恐怖に色があるとすれば、それは赤だ。

 血の赤、警告の赤、緊急の赤。視界の片隅に一点でも赤が差し込めば、網膜はわずかに昂ぶり、思考は近道を選ぶ。危険だ、と先に身体が決めてしまう。暗がりではなおさらだ。薄明視の領域メゾピックでは色の恒常性が崩れ、赤は色ではなく信号として知覚される。人は赤に遭遇すると、まず立ち止まり、そして振り向く。振り向いた瞬間、背にいるはずの“何か”に意味が与えられる。


 古来、疱瘡神や猩々といった「赤面の神格」が忌まれたのも、人が赤光に抗えぬ心理を持つからだ。**色は論を越える。**祈祷の詞より速く、理屈より先に、皮膚電気反応と呼吸が変わる。赤が脈打ち、わずかなフリッカ(ちらつき)が混ざれば、動いていないものが動いて見える。それだけで、守りの像は覗く顔に反転する。


 篠宮家の遺記に記された第二の兆し——「赤き顔」。

 その舞台は診療所だった。癒しを与えるはずの空間は、夜に赤光を浴びた途端、恐怖を展示する装置へと変貌する。消毒薬の匂いに薄い金属臭が混じれば、鼻腔は勝手に“血”の語を探し、非常灯の赤は窓ガラスに二重の瞳を作る。通気の吐息が一度でも後頸を撫でれば、覗かれる感覚は完成だ。


 私は知っている——恐怖は曖昧に見えて、必ず物理の座標に落ちる。照度差、波長分布、反射率、視線誘導、音の定位。要素を並べ、順番を与えれば、追われる錯覚は設計できる。設計された恐怖は、やがて行動を決める。足は後退し、手は支えを求め、扉は——もし支点を失っていれば——人を外へと導く。


 第二の兆しは、色ではない。段取りだ。

 赤は合図、息は号令、影は背中を押す手。

 そしてその場で、次なる犠牲者が出ることになる。

 祟りと呼ばれてもよい。呼び名に価値はない。価値があるのは、誰がその色を点け、誰に振り向かせたかという一点だけだ。


 診療所に入る朝、私は分光計と照度計を鞄に入れ、青のクリップオンをポケットに滑らせた。

 赤を無効化する準備。祟りに対して私が持てる唯一の護符だ。

 夜半、雨は小康状態を見せていた。路面はまだ呼吸するように黒く、街道の白線が濡れた皮膚の下で骨のように浮いている。

 私たちは篠宮家の数名とともに、街道沿いの古い診療所に足を踏み入れた。外壁の白い塗装は鱗のように剥げ、コンクリートの下地が雨を吸って鈍い鈍色にびいろを返す。軒樋から途切れがちな雫が落ち、その音が意地の悪いメトロノームの拍で敷石を叩く。入口脇の非常灯は赤い脈動を繰り返し、建物それ自体が眼球を持っているかのように見えた。赤はガラス庇に薄い膜を塗り、反射像を二重にして、覗き返す視線を演出する。


 私は一歩、庇の下に入る。空気は消毒薬と古紙の匂いに、微かな金属イオンの冷えが混じっていた。ドアハンドルのステンレスは不自然に新しく、手汗の塩分でくすむはずの部分だけが異様に光っている。鍵穴の縁にはかすかな削り痕。——鍵の履歴は、建物の記憶だ。

 環が鍵束を取り出し、錠前に差し込む。回転が滑らかすぎる。オーバーホールの直後か、あるいは別の鍵が最近まで出入りを繰り返していたか。私は胸ポケットのJJYに同期させた時刻を確認し、開扉の瞬間を手帳に記録する。チェーン・オブ・カストディは、最初の軋みから始まる。


 扉が開くと、赤い常夜灯が内側からこちらを覗くように顔を出した。光は明らかに片側へ偏揺している。古い蛍光管の青白さではなく、波長域が620–650nmに寄った、視覚の恒常性を壊す赤。フリッカの周期を耳で数える——二拍で明滅、東側の系統が磁気安定器、反対側は電子式。混在が起きれば、止まっている影も動いて見える。

「照度差、廊下軸方向で300→430ルクス。片側だけ赤域優勢。」

 朝永が無造作に数値を落とす。測定者は祈らない。彼は数える。


 廊下に一歩踏み出す。床のワックスは薄く、それでいてある一帯だけ光沢の筋が深い。乾きかけの膜が赤光を掬い、血溜まりの錯視を作る。私は靴底を半歩だけ滑らせ、摩擦の抵抗値を足裏で測る。——乾いた床と、塗り直された帯。境い目は薄い刃のように視覚野を撫で、踏み越える時にだけ身体がわずかに遅れる。恐怖はこの半秒の遅延を好む。

 頭上では空調のリレーがコツンと鳴り、通気ダクトの奥から短い吐息が這ってくる。首筋の産毛が逆立つ。背に息は、ひと吹きで充分だ。音の定位が曖昧になる赤光下では、前後の区別が崩れ、いないはずの誰かが背後に立つ。


 実花が父の背で立ち止まり、小さく喉を掠らせる。「……あの赤い灯りが、昨日も私を見てました」

 彼女の視線は灯りではなく、灯りの反射でできる二重像を正確に追っていた。恐怖は時に、正しい観察を生む。

 啓は無言で頷き、口の中に言葉をしまい込む。綾子の眼は灯りを通り過ぎ、天井の配線トレイに滑った。見る者の癖は、疑いの向きだ。


 私は壁際の掲示板に目をやる。救急案内のポスターだけが新しい赤で刷られている。他は日焼けして褪色しているのに、そこだけ赤が落ちない。印刷の版が違うか、上から透明な保護膜がかかっている。赤を残すための手が、ここにもある。

 受付カウンターの奥、ガラス窓の向こうにはLED表示の小さなデジタル時計。分の切り替わりの瞬間だけ赤の数字が濃くなり、窓ガラスに瞬きのような反射を走らせる。視野の端で起きる「瞬き」は、覗き返されたという錯覚を引き起こす。


 「匂うな」朝永が低く言う。「消毒と、鉄。」

 私は肯いた。「金属臭は記憶と直結する。赤の視覚と組むと、『血』に最短で連結する。」

 環が小さく肩をすくめる。「夜、窓の奥で……顔が、浮かぶんです。患者さんも、近所の方も、同じことを」

 同じ「見え方」が繰り返されるなら、それは幽霊ではない。設計だ。私は分光計を鞄から出し、赤成分の比率を引く。説明可能な恐怖だけが、犯人の手口になる。


 入口脇の非常扉に、私は最後に目をやる。ビス頭の一本だけが他と違う鈍さで光り、蝶番の塗膜には十字に重なる新しい線が刻まれている。

 ここから人は出る。だが今夜、人は落ちるだろう。

 私は視線を廊下の奥へ戻し、静かに呼吸を整える。赤は、合図に過ぎない。合図を点ける手が、必ずいる。



 廊下の奥へ進むほど、赤は濃く、床と壁の肌理きめに染みるように広がっていた。

 光は直線では来ない。斜めから、複層で、壁のビニルクロスの凹凸に微細な陰影を刻み、止まっているはずの影をゆっくり脈動させる。足元のワックスは帯状に塗り直され、その帯だけが赤をよく拾った。反射率の段差が視覚の水平をわずかに歪め、水平線の消失が「ふらつき」として身体に下りてくる。赤は色ではなく、傾きになっていた。


 私は目の端でフリッカを数える。明滅は約100Hzの高調に、東側の安定器の50Hz由来の二次が不規則に混ざっている。数値は耳で拾える——耳は光の揺れにも反応する。その位相差が、壁に貼られた健康啓発ポスターの人影を半拍遅れで揺らす。影が追ってくるのではない。目が追ってくる影に名前を与えるのだ。


 通気ダクトの格子が、低く吐息を漏らした。

 「ふうっ——」

 短く、湿りのない空気が後頸の産毛だけを撫でて過ぎる。 私は正面を見たまま、両外耳の到達差を意識する。音源は正面ではない。天井裏の偏位から来る。先行効果のせいで、人の脳は最初に届いた方向に音を固定してしまう——背後と錯覚するよう、ダクトの枝分かれが組まれている。格子のネジ頭二本が他と違う光り方をしていた。最近、開けられた。私はそれだけを手帳に落とす。


 赤光の中で、影は人の歩幅のテンポを覚える。私たちの進行に合わせ、壁際の陰が半歩遅れで移動し、背後からつけてくる感覚を育てる。

「……赤き顔を見たる者、病まずとも慄く……」

 悠斗が唐突に暗唱を始めた。抑揚を削ぎ、二秒周期で言葉が落ちる。言葉の空白が空気を固め、呼吸の継ぎ目を奪う。実花の肩が一拍遅れて跳ね、制服の肩章が赤の中で黒く浮く。


 私は実花の横に半歩だけ寄り、視線の高さを落とす。視線は高さが変わるだけで、恐怖の侵入口を失う。

「前を見て。壁の目を数えない。」

 彼女は小さく頷き、喉に乾いた嚥下音を作った。音が作れるなら、まだ持ちこたえられる。


 俊和が、ふらりと前に出た。

 顔は蒼白、眼窩の下に影の帯が二本。消毒薬の匂いとは別に、白衣の袖口から疲労の匂いが滲む。

「……これが……祟りか……。俺は、もう……」

 言葉の切れ方は、呼気の減衰に引きずられていた。理性の言い回しではない。身体から漏れる言葉の角度だ。


 赤光が、彼の横顔の頬骨の稜線を強調する。眼窩には濃い影、白目は赤の散乱で濁って見える。

 その時、別の系統の赤がぱちりと噛み合った。廊下の角に仕込まれた補助光だ。角度が変わり、影が俊和の背へ寄ってくる。

「見ている……」

 彼の声は、観察ではなく判断の音色へ転じる。人は影に追われると、まず自分の足元を疑う。足元の赤い反射帯が、そこへ血の意味を与える。Pareidoliaパレイドリア——無意味な形に意味を与える癖。それが、設計されている。


 ダクトがふたたび息を吐く。今度は二拍子。

 ふぅ……ふうっ。

 前者は送風、後者はフラッターエコーの反射だ。天井板の一枚だけがビス止めのトルクを失い、微かに振動している。誰かが触れた痕跡だ。私は天井の線を目だけでなぞり、音の順路を地図に写す。


 「祟りじゃない」朝永が低く言う。「照度差三百二十→四百十、赤域比率68%。やり過ぎだ。」

 彼は数える。私は向きを読む。

 廊下の掲示物の赤、非常灯の赤、避難経路図の矢印の赤——三つの赤が一点に収束するよう配置されている。誘導の赤だ。

 私は俊和の足が自然にその一点へ傾くのを見た。恐怖に導かれた足は、一番赤い場所を選ぶ。


 実花が、息の音だけで言う。「……来る」

 彼女は正しい。見るのではない、来ると感じるのがこの仕掛けの目的だ。

 私は心の中で段取りを重ねる。

——視覚:片側赤+フリッカ混成。

——聴覚:ダクトの息、位相ずらし。

——触覚:後頸の冷気、風量ショット。

 三つが揃えば、人は後ろを見る。振り向くなが、振り向けに変わる。


 俊和は、振り向いた。

 背中の広背筋の収縮が、白衣の背で波を打つ。

 その反動で重心は一歩分後ろに流れ、踏み直しが必要になる。

 その場所に、反射帯は置かれていた。赤く、滑りやすく、血に似せて。


 私は朝永と目を合わせる。彼は無言で頷き、非常扉の蝶番へ視線を滑らせる。

 扉は逃げ場に見えて、出口ではない。

 ここでは、赤が呼び、息が押し、扉が落とす。

祟りは、段取りの別名だ。私は胸の内で繰り返し、次の一歩に備えた。


 その刹那、廊下の蛍光灯がひとつだけ切り替わった。

「ぱちり」と乾いた音が空気を裂き、赤光の流れが一瞬だけ折れた。

 壁に浮かんだのは、翁像に似た人影の輪郭。

 単なる影のはずなのに、頬骨の隆起と深い眼窩までが刻まれ、像がその場に移動してきたように見える。


 赤光は角度を変え、まっすぐに俊和の背を照らし出す。

 彼の白衣は赤に染まり、自らが血に塗れた標本になったかのように見えた。


「……見ている……」

 その言葉は、呻きではなく裁断の宣告に近かった。

 俊和の眼球は微細に震え、瞳孔は光に負けて開き切らず、捕食者を見つけた獲物の目へと変わる。


 彼の身体は硬直し、次の瞬間には足元を後退させていた。

 しかし床は異様に艶を増した鏡面のようで、わずかな踏み込みでも靴底を吸い込み、粘性のある液体を踏んだ錯覚を呼び起こす。

 赤光の反射は床を血溜まりに変え、濡れた革靴の軋み音が、あたかも血潮を踏み抜く音に聞こえる。


 俊和の喉から短い声が漏れた。

「……血だ……」

 錯覚が事実へ変換されるその瞬間、彼は本気で自分が血の上に立っていると信じ込んだ。


 空調が再び低く唸った。

 だが今度は、長く引き延ばした吐息音として背後に落ちてきた。

「ふぅ……ふうっ」

 その間隔は呼吸のリズムと同調し、あたかも誰かがすぐ後ろで、彼の首筋を狙って息を吹きかけているかのようだった。

 実際にはダクトの開口部からの逆流に過ぎない。だが人は背後の呼気に抗えない。


 俊和の肩がびくりと跳ね、ついに彼は振り向いた。

 瞳は虚ろで、追跡者を視認する前提で動いている。

 次の一歩は反射のように前へではなく後ろへと跳んだ。

 その動きは、もはや観察者ではなく被追跡者の挙動だった。


「逃げろ……!」と誰かが叫ぶより早く、俊和の身体は自ら逃走を始めていた。

 肩を大きく揺らし、足を引きずるような走りは、まさしく何かに追われている者のそれだった。

 廊下の赤光は彼の影を二重に裂き、二人分の足音を偽造する。

 俊和はその音に追われるように、存在しない追跡者の足音から必死に逃れようとした。


 赤光、呼気、影、音——すべてが設計された狩りの舞台だった。

 その舞台の中央で、俊和は獲物として走らされているにすぎなかった。


——祟りではない。だが祟りよりも残酷な「仕掛け」だった。


 非常口へ駆け寄った俊和は、取っ手を掴んで全身の荷重を一点に集めた。

 その刹那、蝶番が意図的に残された遊びを露わにする。

——チリがない。

 扉は枠との噛み合わせを失い、外側へ予想よりも早く、そして大きく開いた。

 上・中・下の三枚のうち中段のリーフだけ塗膜に十字の新傷、ビス頭には**#2の十字が浅く噛んだ痕。塗装の「割れ冠」は新しく、締め付けトルクが揃っていない。一度緩めたあと、形だけ戻した手の跡だ。ストッパーは外され、フロアヒンジの減衰が死んでいる。

 支えを失った扉は、俊和の体を逃がしはせず**、吸い出した。


 白衣の背が赤い光にすっぽり包まれ、彼は階段の闇へ傾斜した。

 靴が敷居の段差5ミリに引っ掛かり、膝が抜ける。

 身体は斜めの回転に入り、手すりを掴む機会は一拍遅れた。

 赤光はその回転をスローモーションに見せ、現実の速度と視覚の時間がずれる。

 廊下のフリッカが二重影を作り、落下の軌跡に追う影を貼り付ける。追うのは誰でもない——影が彼を追っている。


——どん。

 鈍い衝撃音が躯幹に当たり、階段の踏面が乾いた低音で響く。木質の芯が一瞬だけ悲鳴を飲み込む。

 続いて

——かちり。

 金属がどこかで外れたような音が遅れて到来する。手すり基部の止めネジが、無抵抗にわずか後退したのを耳が拾う。

踏鼻のゴムが一片、踊り場の影に転がるのが見えた。新しい切面が赤光を鈍く返す。


 赤光は床を鮮やかな反射斑で敷き詰め、廊下全体を血汐の鏡に変える。

 実際には光の偏りに過ぎないのに、視界は意味を選ぶ。

同行者の眼には「血に溺れた死」の光景が、像として焼き付いた。

 非常灯のレンズがわずかに呼吸するように明滅し、反射の赤が壁の掲示物の目に集まる。その目は、見返してくる。


 実花は肺の底から裂けるように叫ぶ。

「いやだ——!」

 声は赤の中で二度反響し、壁のポスターが一拍遅れて揺れる。揺れは消えず、揺れが揺れを呼ぶ。

 啓はその場に膝を落とし、喪の言葉ではなく無音を吐き出す。喉が閉まり、口だけが祈る形になる。

「祟りだ……やはり祟りなんだ!」

 言葉は自分を赦す呪文になり、空気の密度だけが増していく。

 悠斗は機械のように繰り返す。

「……赤き顔……祟りなり……振り向くな……」

 二秒周期、空白は一定、抑揚は削がれ、命令文に近づく。文字列は声を離れて儀礼に変わる。


「全員、下がれ。触るな——」

 朝永の声が垂直に落ちる。現場封鎖の号令だ。

 彼は素早く入口/踊り場/非常扉の三点に人を立て、チェーン・オブ・カストディの最初の輪を作る。

 私はニトリル手袋を装着し、踏線→扉→手すりの順に視線を掃く。

 照度計が短く鳴り、数値が落ちる。

「照度軸:廊下320→扉前410→階段内150。

 赤域比率68%、フリッカ混在。床は帯状に再ワックス。蝶番の工具痕、ストッパー欠損——偶然じゃない。」

 測定者は祈らない。彼は数える。


 私は無言で頷き、視線を水平から順に落とす。

•扉:下リーフのビス2本だけ山が新しい。#2 JISではなくISOの噛み。工具が混在している。素人の手ではないが、現場職とも限らない。

•床:反射帯の端に羽毛状の流れ。塗布方向が通路の流れと逆。逃走時、足が止まる角度だ。ワックスの溶剤臭が赤光に金属臭を連れてくる。

•手すり:降り側一段目の粉塵が払われ、手脂の曇りが不自然。直前に拭かれている。

•空気:消毒薬に混じる金属イオン。加えて微かな塩ビ皮膜の匂い。新しい配線の存在を示す。

•音:ダクトが二拍で呼気を模し、天井板の一枚が先行反射を作る。位相が作為的だ。


 私は踊り場の暗がりに青フィルタを一瞬かざし、赤の優位を切る。

 ガラスの内側でLEDデジタル時計が分の切り替わりに濃い点滅を見せ、窓に瞬きの反射を作った。

——覗き返されたと感じる一瞬を、意図的に。

 赤が退くと、床の艶の境界がより鮮明に浮かぶ。帯は廊下の中央ではなく、非常扉の正対に置かれていた。導線はそこへ集められる。


 朝永は口短に続ける。

「足裏の滑り跡を写真で押さえる。角度16°で斜光、1/60 F8 ISO400。——津守、扉のビス頭、先に。」

 私はうなずき、基準フレーム(スケール・磁北・時刻)を入れて撮る。

 RAW+JPEG同時記録、SHA-256のハッシュは帰庁後に計算。

 証拠は今しか触れない。だから今は触らない。


 啓が震える声で言う。「……診療所で、こんな……」

 綾子の視線は、家族ではなく天井の配線トレイに向く。彼女は上を見る癖がある。装置に目が行く人間だ。

 玲奈は唇を噛み、「……これは人の心理を狙い撃ちにする設計です」と低く言う。言葉は静かでも、目は正しい所を見ている。

 弘志と美砂子は「神事だ」「祟りだ」と重ね、祈りの音で空間を満たそうとする。祈りは音だ。音は赤に負ける。


 私は赤光に染まる廊下をゆっくり一周しながら、意図の向きを拾っていく。

 誘導の赤。

 命令の息。

 出口に見せかけた落下。

 祟りという名の下に、手順が完璧に揃えられている。

 逃走の反射は設計できる。振り向くは起動条件。踏み直しは仕留める間合い。


——覗いていたのは像ではない。

 覗かせていたのは、誰かの意図そのものだった。


 私は手帳の余白に三つだけ書く。

 鍵/清掃/照明。

 三つを跨げる権限を持つ者は、限られている。

 鍵は出入りの履歴を作り、清掃は床を制御し、照明は視線を命令する。

 赤はただの合図だ。合図を点けられる手が、ここにいる。


 最後に、私は非常扉の枠外、人の目線から半分ずれた高さに残る小さな擦過を見つける。

 誰かがここで身を寄せ、様子を窺った痕だ。

——覗き手は、現場で一度は立ち止まる。

 その立ち止まりこそ、祟りの正体だ。


 診療所は、人を癒すはずの場でありながら、恐怖を増幅させる舞台へと作り替えられていた。

 赤光は血の幻を示し、ダクトの吐息は「背に息」を再現し、外れる扉は出口を死へと変えた。

 俊和の死は偶然ではない。

 そこにあったのは——「祟り」という名を借りた、冷徹で計算された設計だ。


 私は常に考える。

 恐怖とは「曖昧な力」ではない。

 恐怖とは「設計される装置」であり、誰かがそれを組み立てる限り、必ず痕跡を残す。

 床の反射帯、ビス頭の擦過、空調の位相、照度の偏り。

 それらは儀式ではなく、工作の痕だ。


 だが、篠宮家の者たちはなお「祟り」と呼び、互いを疑い、恐怖を肥大させていく。

 赤光は消えても、彼らの内には“赤き顔”が刻み込まれた。


 ここまでで、仕掛けの方向性はすでに見えているはずだ。

——なぜ「振り向いた者」だけが死に至るのか。

——なぜ錯視と音と空気が、篠宮家の遺記に忠実に重なるのか。


 恐怖はただの影ではない。

 誰かの意思が投じた光であり、意思が生んだ影だ。


——さて、あなたはもう気づいているだろうか。

 篠宮家を「覗いている者」が、すでに一族の誰かの隣に立っていることに。


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