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第四幕「分裂の葬列」

 葬儀は、死者を弔う場であると同時に、生者を映す鏡だ。

 白布、黒喪服、焼香、数珠、読経の拍——儀礼は本来、感情の暴走を所定の手順に回収するための装置である。涙は列をつくり、声は低く統一され、時間は僧の木魚で均される。秩序は悲嘆を整列させ、混乱を可視化しない。


 だが篠宮家では、その秩序が機能していなかった。

 美緒の死は「転落事故」という語に収まりきらず、祖母の遺記が告げた第一の兆しに回収されてしまった。祟りという単語が参列者の口々で増殖し、静寂の表面張力は崩れ、葬列の足並みはばらける。弔いの場は、いつのまにか観察と監視の場へ反転した。


 私は香煙の流線を見る。天井のゆるい対流に、視線の向きが重なる。

 誰が遺影を見、誰が脇を見、誰が人の反応だけを見ているか。座席配置は序列を映し、身体の向き(プロクセミクス)が陣営を示す。祟りを口にする者の瞬きは少なく、合理を唱える者の指先は微かに震え、沈黙に逃げ込む者は視線を床の一点に固定する。ここでは、泣く順番ですら陣取り合戦の一部なのだ。


 葬儀が露わにするのは、死者への想いよりも生者同士の距離である。

 目と目は交わらず、しかし横目だけがよく働く。小声のやり取りは祈りの言葉より速く拡散し、噂は僧の読経よりよく記憶に残る。人は恐怖の前にあって、無意識に“覗き”と“覗かれる”を演じる。私はその往復の矢印を拾い集め、誰が誰を測り、誰に測られているかを配置の問題として読む。


 美緒の死は、像が人を殺したのではなく、見え方が人を動かした結果だ。

 その理解は、葬儀の場でも変わらない。視線が設計されれば、感情は所定の方向へ走る。祟りを信じたい者には祟りが、偶然で片づけたい者には偶然が、利用したい者には口実が見える。鏡は事実を映さない。鏡は立ち位置を映す。


——この葬列は一本の列ではない。

 故人を見送る列、生者が互いを見張る列、そして何者かの意図が静かに先導する列。

 篠宮家の“分裂の葬列”は、すでに次の兆しへ向けて歩き出していた。

 黒い傘が並ぶ境内。雨粒が合掌の手を叩き、線香の煙は湿気に絡みついて地に沈む。

 白いテントのひさしから落ちる雫が、一定の拍で敷石を叩き、木魚の音と不協和に重なる。喪服の布地は濡れて光沢を増し、胸元の数珠は指の温度を奪って黒さを深める。雨脚が強まるたび、参列者の肩が一様にわずかにすくみ——それが、恐怖が群れで動くときの最小単位に見えた。


 白木の棺の前、篠宮美緒の遺影が置かれていた。微笑みの写真が、参列者の視線を受け止めている。

 写真は薄い反射で空を映し、雨雲の鈍い球体が瞳のハイライトになっていた。化粧の薄さ、耳の形、笑ったときだけ現れる口角の皺——本人性を支える差別化点は十分だが、その微笑は彼女が最期に見た恐怖と、あまりにもかけ離れていた。遺影とは、生者が納得するための**最終的な“見せ方”**に過ぎない。死の直前にあったはずの眼窩の影も、頸の張りも、ここにはどこにも残らない。


 司会の声が雨に滲み、僧の読経は一定の速度で場の呼吸を整えようとする。だが、整列はうまくいっていない。

 前列、当主・啓は深く頭を垂れ、礼の角度は正しいのに、戻す速度だけが遅い。隣の綾子は、合掌の指先を遺影ではなく人の横顔に向けている。実花は目を瞬かず、頬を掻く癖を止められない。悠斗は唇だけが規則的に動き、祖母の遺記の断片が音の無い口語になって洩れる。

 最前列の僧の手前、香炉の煙は風向に抗わず真上へは立たない。対流の弱い場は声を広げず、ささやきだけを拡散させる。私の耳には、祟りという語が、読経よりも多く往復していた。


 私は遺影の前で立ち止まり、わざと一拍だけ呼吸を浅くする。浅い呼吸は視界を狭め、視界の狭窄は視線の矢を強くする。今、この場には覗く者と覗かれる者が幾重にも入れ子になっている。

——遺影は一点、視線は無数。

 そして、無数の視線は一つの物語に収束しようとする。祟りという名の、安易で強い物語に。


 長女・実花は制服のまま硬直し、遺影を見つめ続けていた。

 肩は上がり、鎖骨のくぼみが浅くなるほど吸気が浅い。手はスカートの生地をつまみ、爪の先が白く抜ける。湿った前髪が額に貼りつき、汗か雨か区別のつかない一滴が眉尻で止まる。瞬きは間隔が伸び、角膜がわずかに乾く気配。恐怖が視野をトンネル化し、遺影以外の輪郭を押し流していく。足元は揺れていないようで、靴底の縁だけがミリ単位で前後に微動する——静止立位の揺れが、限界に近い。


 蒼白な顔からは血の気が失せ、ただ唇だけが震えている。

 上唇の端が1秒に一度、目に見えぬほどの周期で痙攣し、噛み締めた奥歯が微かに軋む。喉仏は落ちず、唾液の嚥下も起きない。嚥下ができない恐怖は、声より先に人を黙らせる。目は遺影に釘付けだが、焦点は時折数センチ手前で空転し、レンズのピント合わせを忘れたカメラのように宙を掻く。彼女の体からは、香の匂いではない、冷えた皮膚と不安の金属臭が一瞬だけ立った。


 弟の悠斗は、小声で祖母の遺記を暗唱した。

「……覗かれる……祟りなり……振り向くな……」

 声は抑揚が削ぎ落とされ、語尾は常に水平。母音が曇り、子音だけが骨に触る。句点で呼吸を取らないため、文の切れ目と肺の切れ目が意図的にずれていく。人の耳は、意味よりも律動に先に囚われる。彼の単調な律動は、木魚の拍とも雨粒の落下とも違う第三のテンポを会場に作った。


 私はそのテンポに気づく。二・二秒の周期で、言葉が繰り返される。

——覗かれる(吸)/祟りなり(吐)/振り向くな(空白)。

 その空白が、最も不気味だ。意味を運ぶのではなく、身体の中に意味を待たせる。待たされた身体は、勝手に続きを埋める。恐怖の穴埋めだ。


 無機質な声に、会場全体がぞわりと波立った。

 前列の肩が一斉に1センチ沈み、後列の誰かが咳を飲み込む音が連鎖する。年配の男が数珠を繰る速さを半拍早め、女の指先がハンカチの端を結んでは解く。線香の煙は風に従わず、真横に這って隣の頬を舐める。見えない低周波が場に入り、花輪のリボンが音もなく揺れる。その揺れは、遺影のガラス面に小さな波紋として映り、実花の瞳孔に外部の動きとして刺さる。彼女はさらに硬直し、膝の裏が抜けそうな気配でかろうじて踏みとどまる。


 悠斗の発声は、喉ではなく胸郭の下から押し出される。機械的であるがゆえに、人の声の温度がない。温度のない声は、祈りとも嘆きとも結びつかず、指示として聴覚に入る。

「……覗かれる……祟りなり……振り向くな……」

語の並びは、恐怖の手順書に等しい。覗かれる(認知)→祟り(解釈)→振り向くな(行動制限)。この順は、翁像の夜に発動したものと同型だ。私は胸の内でその一致をなぞり、言葉が装置の作動音であることを再確認する。


 誰かが小さく経を噛んだ。別の誰かが数珠を落とし、玉が一個だけ床石を叩いて止まる。一個だけという事実が、場を過剰に緊張させる。端の席の男が視線を動かし、横目で三人分の表情を測る。測られた側の女は前髪を耳にかけ、耳介が赤くなる。赤は羞恥の色であり、同時に恐怖の血の色でもある。二つの意味が、同じ皮膚に同居した。


 私は実花の横に半歩だけ寄り、視線の高さを一段下げてやる。

「ゆっくり息を。」

 言葉は届かないが、速度は伝わる。彼女の呼吸がわずかに深くなると、トンネルの縁が半ミリだけ広がる。広がった縁に、僧の読経が初めて音として戻り、悠斗の単調な拍と干渉縞を作る。干渉は不整脈のように不快だが、その不快が暗示の縄をいっとき緩める。


——覗かれる……祟りなり……振り向くな……。

 声は続く。だが私は、言葉より先に視線の流れを見る。

 遺影へ、実花へ、悠斗へ、そしてまた遺影へ。円環ができている。

 篠宮家は今、亡き者ではなく互いの顔を見ている。

 恐怖は死者を使って、生者の中だけで増殖している。


 当主・啓は参列者の前で深々と頭を下げた。

 礼は深いが、戻す角度が遅すぎる。意志ではなく重力に任せた身の起こし方だ。

「……娘が翁像に見られたと訴え、その夜に……。これは偶然ではない。祖母の遺記が現実となりつつあるのです。」

 語の選び方が重い。偶然ではない、現実となりつつある。論を運ぶ言葉ではなく、自らを許す言葉だ。結び目の甘い黒ネクタイが喉仏に触れ、声帯が震えるたびに微かな擦過音を生む。威厳は声といっしょに零れていた。


 すぐに弘志が立ち上がった。氏子総代のときの声を張る。

「これは祟りだ。祖母の言葉は神託だったのだ。篠宮の血を軽んじた報いを、神が示されたのだ!」

 胸の数珠が噛み合いを一歯飛ばす勢いで揺れる。額は紅潮し、耳介の上半が不自然に赤い。高ぶりは血流に、血流は言葉に乗る。周囲の喪服が一斉に半歩だけ退き、声の圧から逃げる。祭壇の蝋燭が風もないのに縦に伸びるのが見えた—— 扉の隙間から入る圧の差だ。怪異ではない。だが、怪異に見える条件は揃っている。


 妻の美砂子も続く。袖口から薄い塩包みが覗いた。

「呪いを解くには、神事を尽くすしかない!」

 言いながら、白布の端を親指で撫でる癖。手触りで自分を落ち着かせる仕草は、説得よりも確信の表明に見えた。美砂子の視線は遺影ではなく香炉に落ちている。香の煙は反り、彼女の鼻先で高さを変える——匂いの強さが彼女だけを励ましている。


 これに対し、環は震える手で数珠を握りしめながらも言い切った。

「祟りではありません。事故です。床のワックスも扉の蝶番も、見ればわかる。誰かの手が加わった結果……」

 声の末尾は荒れるが、名詞が揃っている。床、蝶番、手。 説明の目が現場を見ている人間の目だ。

 俊和は彼女を支えながらもうなずくだけだった。そのうなずきが、むしろ疑念を呼ぶ。眼窩は暗く、白衣の消毒の匂いが喪服の下から漂う。眼鏡を拭く布にヨウ素の染み。沈黙は弁解にも挑発にも見える。人は意味の空白に、最も都合の悪い言葉を流し込む。


 心理学を学ぶ玲奈が声を上げた。

「これは集団暗示です。恐怖は伝染し、同じ幻覚を見せる。……皆さんが信じれば信じるほど、祟りは現実に“なる”のです。」

 語尾は冷静、発話テンポは僧の拍に同調している。よく訓練された理性の声音だ。だが、理性の声は恐怖の群れを止めない。前列の女の肩がピクリと動き、年配の男が舌打ちを飲み込み、数珠の玉が二つだけ速く滑る。反論は祈りの形で返り、祈りは合意に変わる。玲奈の言葉そのものが、**「理屈は敵だ」**という合意を強めてしまう。


 綾子は目を光らせ、一人ひとりを見回した。

「誰かが、あの像を……仕組んだのです。監視し、覗いていたのです。」

 視線は顔ではなく肩の線を追う。負い目のある者は僅かに丸くなる。

 綾子の右手は無意識に薬指のリングをなぞっている。リングはきつすぎず緩すぎず、自分のペースで回るサイズだ。支配欲の手触り。

 彼女の言葉が家族に向いた瞬間、啓までが喉の奥で音を止めた。

 綾子の眼は**「外の敵」ではなく、「内の犯人」**を探す眼だ。篠宮家の誰もが、その事実を理解して沈黙する。


 場の空気が一段落ちる。その時、天井の蛍光灯が一度だけ暗む。古い安定器の電圧の息切れだ。

 だが暗みは恐怖に良く効く。数人の視線が天井へ跳ね、同じ瞬きが列を走る。

 私は心の中で数える。——一、二。たっぷり二秒の沈黙。

 二秒は、噂が形になるのに充分な長さだ。


 私は左右の列をゆっくり見渡す。

 弘志の周囲に、頷く顎が数個集まり始めた。

 環の周りでは、目を合わせない人間が増える。

 玲奈には白けた笑いが薄く貼りつく。

 綾子の視界は、遺影—実花—悠斗—準備室へ通じる廊下へと順に滑る。導線を読む眼だ。

 それぞれの視線は、主張の強さではなく向きで腹の底を明かす。


 私はそこで一度だけ息を止め、嗅覚を研ぐ。

 線香、蝋、雨。そこに見慣れた金属の匂いが混じる。——新しい鍵の匂いだ。

 発生源を追うほどには露骨ではない。だが、鍵の更新は葬儀の話題ではないはずだ。

「監視し、覗いていた」という綾子の言葉が、道具の存在と重なる。私は手帳の余白に鍵/清掃/照明とだけ書く。名指しはしない。名指しは、まだ早い。


 沈黙の水面を、誰かの囁きが切る。

「やっぱり篠宮は……」

 語尾は雨に呑まれ、残るのは**“やっぱり”の確信だけだ。

 やっぱり、は推理をやめる合図**である。


 私はほんのわずか前に出て、朝永の視界を横切る。

 彼は頷き、目だけで答えた。測定者の眼だ。

 ここにあるのは祟りではない。条件の集積、言葉の増幅、視線の分配。

 そして、それらを意図的に揃えた手。


 葬儀場の片隅で、冷えた風が白布の端を持ち上げる。

 誰かが自分の名を呼ばれたように振り向き、誰かがそれを覗き、また誰かが覗かれる。

 不気味さは超自然の形を取らず、人の配置の形を取って、静かに強まっていく。


 周囲の村人たちもささやき始める。

「やっぱり篠宮は呪われてる」

「娘の死は祟りだ」

 声は正面に向かわない。横顔に当てる角度で投げられ、受け手の耳殻の縁だけを震わせる。白テントの天井は低く、布の内側で音が回折して、囁きは読経より長く残響する。私は反射的に耳を澄ます——言葉は短いのに、意味は長い。やっぱり、という二拍が、推理をやめて合意へ退く合図になる。


 葬儀の場そのものが、恐怖を拡声する舞台と化していた。

 線香の煙は真上に立たず水平に這い、花輪のリボンは風もないのに片側だけ微動する。湿った砂利は足裏の圧で低い軋みを発し、その不規則な拍が、耳の奥で心拍と混線する。誰かがハンカチを握り直すたび、布の擦れる音が小さく弾け、小爆発のように周囲の肩をすくませる。非言語の合唱が、場の温度を一度ずつ下げていく。


——その中で、ただ二人だけが異なる調子で言葉を交わしていた。


 朝永は線香の煙を手で払い、低い声で言う。

「数字で測れば事故だ。階段角度は三十度、蹴上げ一六センチ。床の静止摩擦は〇・四、ワックス帯は一一度で滑り出す。蝶番には最近のドライバー痕——全部、人の仕業だ。祟りなんかじゃない。」

 語りは短い名詞の列で組まれ、数値の形をして落ちていく。彼の声だけが、噂の海面に垂直に沈む。


 私は応じる。

「祟りは“信じる数”が増えることで形を持つ。信じられる構造を仕掛けた者がいる。

 光、足、扉——見え方と踏み方と支えの消し方。順番を作れる人間だ。」

 私の言葉は、数値の上に動詞を置く。動詞は意図を運び、意図は裏で段取りを作る。


 その刹那、実花が裂けるように叫んだ。

「次は私だ! 翁が、ずっと……私を見てる!」

 声は高く、喉頭蓋が跳ね、周囲の視線が一斉に一点収束する。彼女の瞳孔が瞬時に拡大し、遺影のハイライトが黒の中で二つに割れる。肩は上がり、鎖骨の凹みが消える。足は前に出ないのに、膝裏だけが後ろへ逃げる。恐怖が身体の前後を分解し、彼女はその場で転位する。


 啓が駆け寄り、抱き締める。

「家を守るんだ!」

 叫びは真っ直ぐだが、支点を失っている。腕の力は強いのに、言葉の骨がない。抱擁は、彼女の震えを共鳴させるだけで、減衰に転じない。綾子の視線が一瞬だけ、父子の背を斜めに測り、すぐ遺影へ戻る。測る眼は、慰めを増やさない。


 悠斗の機械的な暗唱が、葬列の静寂を再び切り裂いた。

「……覗かれる……祟りなり……振り向くな……」

 今度はテンポがわずかに速い。二・二秒が二秒へ縮み、空白が半拍短くなる。短い空白は待つ身体を焦らせ、言葉は命令に近づく。近くの老人が数珠を誤って二度早回しし、遠くの女が祈りの文句を一語とばす。同期の乱れは、集団の不安を倍音のように増幅する。


 私は周囲の視線の向きを拾い上げる。

——遺影→実花→悠斗→綾子→遺影。

 円環が完成している。誰も祭壇の背後を見ない。誰も、テントの外の赤い提灯の滲み(雨で膨張した紙の濃度ムラ)に気づかない。外ではなく、内だけで恐怖が回っている。回転する恐怖は、出口を持たない力になる。


——葬儀は、美緒を見送る場ではなくなっていた。

 僧の声は祈りを運ばず、囁きは確信を運び、視線は互いの顔に吸い寄せられる。

 それは篠宮家が互いを“覗き合い”、疑念と恐怖を自己増殖させる場へと変貌していた。


 私は遺影のガラス面に映る自分の黒を一瞬だけ見て、目を逸らす。

——覗く者は、しばしば覗かれている。

 この家を覗く視線の輪から、犯人は手を汚さずに力を得ている。

 祟りは、ここでは構造の別名に過ぎない。


 葬儀の一連が終わったあと、雨脚が弱まるのを待って、私と朝永は篠宮家の縁側に招かれた。

 灯明の匂いと線香の煙がまだ衣服に絡みつき、家全体に湿った沈黙が落ちている。

 濡れた瓦が夜のわずかな明かりを鈍く返し、軒先の雨だれは一定の間隔で縁台を叩く。

 虫の声はしない。かわりに、仏間の白布の下で空気だけが膨らんだり萎んだりしている気がした。見えない胸郭が家全体を呼吸させているような、不快な錯覚——恐怖は、音の少なさを好む。


 当主・啓は喪服の襟を正しながら言った。

「……次は、診療所を見ていただけませんか。

 妹の環と俊和の家業です。祖母の遺記にあった“赤き顔”……あの診療所に重ねて考えてしまうのです。」

 彼の声は絞り出すようで、言葉のあいだに湿った空白が挟まる。沈黙が長いほど、祟りは形を持つ。


 綾子がすかさず言葉を挟む。

「私もそう思います。あの建物には不自然な赤光が灯っています。夜に通りかかると、まるで……血の色で覗かれているようで。」

 “血の色”という比喩は、身体記憶に直結する。彼女は無意識に薬指のリングを回し、金属のわずかな冷えに安堵の輪郭を得る。安堵は短い。視線はすぐ、家人たちの顔へと散る。


 弘志は首を振り、声を荒げた。

「診療所などに行く必要はない! これは祟りなのだ。神前に祈祷を捧げるほかない!」

 美砂子も「神事こそ救い」と同調し、声を強めた。

 そのたび、縁側の丸太がきしみで返事をする。古い家は、感情にとてもよく反応する。軋み音は合いの手になり、迷信のほうに拍を合わせる。


 しかし玲奈が静かに口を開いた。

「私は診療所を確かめるべきだと思います。

 “赤き顔”が単なる照明の錯視であっても、人は恐怖を信じ込む。……だからこそ現場を検証すべきです。」

 彼女の声は小さいが、語の順が整っている。論理は静かに、しかし確実に場の温度を変える——ただし全員を暖める方向には動かない。理屈は、冷えた側の人数を数えやすくする。


 その場の空気が鋭く二分されるのを、私は肌で感じた。

——葬儀は終わっても、篠宮家の分裂はさらに深まっていく。

 分かれ目は言葉に出ない。座る姿勢と目の高さで割れる。祟り側は上目へ、検証側は水平へ。

 縁側の柱の影が二つに裂け、室内に伸びた赤い非常灯の反射が畳にうっすらと血汐めいた帯を作る。私は目を細める。——Purkinje現象。薄明かりの下では、赤は黒に沈みにくい。


 朝永は腕を組み、壁の時計を一瞥した。

「明日だな。診療所に入る。

 もし“赤き顔”が仕掛けなら、その痕跡は残っているはずだ。」

 彼は数えるように短く続ける。

「非常灯(赤フィルタ/カバー改変)、待合のLED(演色性/ちらつき)、暗順応の破壊。

 照度分布、分光、監視カメラの死角。あと、緊急幕。」

 測定者の列挙は祈りよりも静かだが、着手の音がする。


 私も頷いた。

「祟りを信じるにせよ否定するにせよ、確かめなければならない。

 恐怖は目に見える形で設計されている。

 ……それを暴くのが我々の役目だ。」

 言いながら、私は明日の手順を頭の中で整列させる。

•入室前:鍵管理簿の確認(貸出履歴/複製の可能性)。

•照明:ルクスメータ+分光計、赤成分の比率、ちらつき(フリッカ周波)の測定。

•導線:待合→診察室→処置室の視線誘導、赤の配置と視界の狭窄点。

•壁面:掲示物の赤インク(耐光性の差)、注意喚起文のフォント(命令文調)。

•嗅覚:消毒液(ヨウ素/クロルヘキシジン)、金属イオン。

•清掃:当番表/ワックスの銘柄/希釈率、床の反射率ムラ。

•安全:非常口ドアの蝶番、ストッパー、転倒誘発の仕掛けの再発防止。

 チェーン・オブ・カストディはここでも最初に置く。動かさない、戻さない、触らない——見るだけが許される。


 縁側を横切る風が、障子紙の小さな破れ目を鳴らす。

 その音は、遠いところで誰かが爪で引っ掻いているように聞こえる。

 綾子が肩をすくめ、啓は袖を握り直した。人は音に体を合わせる。

 不気味さは怪異でなくともよい。配置と光と音が三つ揃えば、充分だ。


 沈黙ののち、弘志がなおも食い下がる。

「明日、まずは神前に祈れ。検証はその後だ。」

 美砂子がうなずく。祈りを優先すれば、原因は不問になる。責任もまた、薄まる。

 玲奈は視線だけで私に問う——「間に合いますか」。私は一度だけ首を横に振る。恐怖の設計は動的だ。放置すれば、次の装置が組まれる。


 朝永は壁の時計から目を外し、短く言う。

「夜間は避ける。暗順応が働く時間帯は、相手の土俵だ。」

 私は付け足す。

「日の出直後に入る。赤の優位が下がる。

 ——それと、青フィルタを持っていく。」

 実花がこちらを見る。青は冷たいが、視覚の均衡を取り戻す色だ。


 啓は深く息を吐き、縁側の板目を見つめた。

「……お願いします。」

 その声音には、当主の威厳ではなく、父親の擦り切れが露出していた。

 私は頷き、言葉を置く。

「鍵は——あなたの手で。開ける瞬間だけ、我々は立ち会う。」

 鍵を持つ者が、物語の最初の主語になる。


 篠宮家の誰もが言葉を飲み込み、ただ雨音だけが縁側に響いていた。

 その音はまるで、次の舞台へと背を押す合図のようだった。

 私はふと、座卓の端に置かれた新品のキーカバーに気づく。柔らかな赤。誰の鍵だ——と喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。

 問うべき時は、現場で来る。問いはいつも、光の下で強い。


 雨脚はさらに弱まり、庭の石灯籠に赤い非常灯の反射が、濡れた血のように滲んだ。

 祟りという語が、夜の縁に口紅のような痕を残す。

——赤き顔は、もうこちらを見ている。

 だが見返す順番は、私たちのほうにある。


 美緒を送るはずの葬列は、むしろ篠宮家そのものを切り裂いた。

 涙も祈りも祟りの名に塗り替えられ、言葉は慰めではなく疑念の矢として飛び交った。

 私はその場に立ち会いながら、もはや一族が“互いを覗き合う装置”に変貌していることを痛感した。


 だが探偵の眼には、すでに次の舞台の骨格が見えている。

 祖母の遺記が示した「第二の兆し」——赤き顔。

 それは象徴ではなく、錯視と心理を結びつける実体的な仕掛けでなければならない。

 恐怖は曖昧に見えて、必ず物理の座標に落ちる。光の波長、 反射角度、視覚の残像、匂いの刺激……。

 そのどれかが、篠宮家の人間を「祟り」へと導くために使われている。


 翁像のときと同じく、ここまでの記録だけで「赤き顔」の正体を推理することは可能だ。

 なぜ診療所に「赤」が灯り、なぜそれが一族に呪いと受け取られるのか。

 恐怖を設計する者が誰であれ、設計の素材はすでに舞台に置かれている。


 次幕、私と朝永は診療所に入る。

 赤い光に包まれたその場所で、恐怖はまたひとつ具体に変わるだろう。

 そして——そこに立つのは「祟り」ではなく、人の手であることを、私は確信している。


 だが問題は、その“人”が誰なのか、ということだ。

 篠宮家を覗いている視線は、像でも光でもない。

 それを操り、恐怖を家族に植え付けている者が必ず存在する。


——あなたなら、もう見抜けているだろうか。

 葬列の分裂を最も喜ぶ“覗き手”が誰なのかを。


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