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第三幕「翁像」

 学校という空間は、恐怖と相性が良い。

 昼は雑音が恐怖の輪郭を消してくれるが、夜の廊下は音を失い、光の方向と陰の深さだけが支配する。石像ひとつ、照明ひとつで、守りの象徴は覗く視線へと転じる。重要なのは像そのものではない。照度・入射角・配置——その三点がそろえば、人は「見られた」と確信する。


 篠宮家の遺記が語る第一の兆し、学び舎の「翁像」。

 これがただの噂か、設計された恐怖かを確かめるには、像の材質と光源特性を切り分ける必要がある。石膏は拡散反射を起こし、眼窩の陰影は照度勾配の僅差で可塑的に変形する。蛍光灯はリン光残存と電源周波数による微小なちらつきを持ち、初期型LEDが混ざればスペクトル分布の差で稜線のコントラストが跳ねる。観察者が振り向く瞬間、頭部の回転速度と視線のスイッチが重なると、鼻梁と眼窩の境が閾値θを超えて反転し、「目が追ってくる」という錯視が成立する。像は動かない。動くのは光と、あなたの位置だ。


 私は現場で二度、検証するつもりだ。日中に基準の照度分布と反射を取り、薄暮に錯視のピークを測る。JJYで同期した時刻を軸に、ルクスメータと分光計で光を数値に落とし、距離計・方位・台座レベルで配置を固定する。未成年は被験者にしない。再現は教員または等身ダミーで行い、接触の痕跡を残さないため、スイッチ類の操作は学校側に限る。チェーン・オブ・カストディはここから始まる。


 恐怖は曖昧に見えて、必ず具体に落ちる。繰り返される言葉、同期する震え、選ばれた場所——そこには意図がある。

遺記の一行は怪談ではない。条件の列挙だ。

 ならば、答えは現場に出る。光を連れて、角度を測り、配置を解くために。私は学校へ向かった。

 校舎は丘の中腹に建っていた。

 勾配は三〜四%、アスファルトは冬期の補修跡が縞のように横切り、排水用の縁石切り欠きは片側だけ深い。水はいつも同じ方向へ逃げる。逃げ場の決まった場所は、足音と影の集積点でもある。

 老朽化した木造棟と、新しい鉄筋の校舎が不格好に接ぎ木されている。渡り廊下のアルミ手摺は艶のムラが目立ち、塗替えの境目に手汗の塩斑が淡く残っていた。夜の蛍光灯はところどころ明滅し、コンクリートの床に白い筋を落とす。周波数の違うインバータが混在しているのだろう。ちらつきの位相差は、影の縁を柔らかく、時に不気味にする。


 門前で実花が待っていた。制服のまま、蒼白な顔を父・啓の背に半分隠す。

「……あの像です。ずっと、私を見ていたんです。」

 声の高さは震えるが、語尾だけが固い。恐怖を反復して言語化した時の固さだ。私はうなずき、彼女にそれ以上言葉を重ねない。再現前のイメージ固定は、錯視の誘導を強める。


 美緒が鍵束を手に、教員としての権限で校内に案内する。鍵は真鍮に番号刻印、一つだけ新品のニッケルメッキが光る。

「昔は“守りの翁”って呼ばれていました。だけど近頃は……生徒が近寄らなくなって。」

 “近頃”を私は拾う。

「——“近頃”は、いつから?」

「去年の秋ごろです。廊下の照明を一部交換した少しあと。」

 私はメモに線を引く。

 照明交換と噂の立ち上がりが同時期。


 昇降口を入ると、合板の匂いにワックスが混じる。掲示板には清掃当番表、モップ掛け:火・木・土(放課後)とある。今夜は火曜日。時間帯は——私はJJY同期の腕時計を一瞥し、19:04を記録。清掃後一〜二時間が経過、ワックスの乾燥ムラが残りやすいタイミングだ。

 廊下の端には自動販売機、受け皿に白い砂粒——現場へ向かう導線で靴底が拾ったものが、のちに床の転位を示す標識になる。


 朝永は足元にライトを走らせ、靴跡の新しさを測りながら鼻を鳴らした。

「足跡は多いな。昼間に誰か触ってても、消すのは簡単だ。」

 彼は踵の磨耗方向と土踏まずの泥の残りで、今日付の通行と昨日付の通行を素早く仕分けていく。踵の斜め削れは中学生男子、小石の圧痕間隔は歩幅の短い低学年。最新の足は光沢の上に曇りの楕円を落とす。私はその分布を俯瞰で覚える。


 私は心の中でメモする。

——この場は、錯視を仕掛ける舞台装置に変えられている。

 光は一列、だが一本だけ色温度の違う灯りが混ざる(ポリカカバーの内側に薄い粉塵、散乱光の質が違う)。配線ダクトの蓋に一度だけ開けた爪痕、固定ビスの角に新しいドライバーのバイトマーク。理科準備室の扉脇、三路スイッチのプレートだけが新しい。

 壁の反射率は、塗替えで隣接パネルよりわずかに高い。床材は長尺シート、継ぎ目に光の筋。像の立つ位置(まだ見えないが)までの導線が、見えない矢印で既に引かれている感触。


「記録を開始する。」

 私は小声で言い、ルクスメータのゼロ点を合わせる。朝永がすぐ横で方位と廊下幅、天井高さを測り、私の手帳に数値を落としていく。

「監視カメラは?」

「第二理科前に一台。廊下の端は死角だ。」と美緒。

 死角の提示は、誘導の設計者を連想させる。見せたい時にだけ見せ、見せたくない瞬間は影へ沈める。


 非常口のピクトが淡く光る。古い蓄光板だ。私はピクトの矢印向きを確認する——反射のベクトルは視線誘導になる。こうした細部が「振り向き」を生む“押し手”になる。

 私は朝永に目配せし、触れない原則を確認する。

「像、照明、扉、スイッチ。鑑識が入るまで——こちらの手は一切、置かない。」

「了解。」彼は短く返し、廊下の端に養生テープで思わず踏む線を作る。立入線は心理的ブレーキだ。事故も混乱も、線一本で減らせる。


 窓外の風が一段強くなる。窓サッシの気密が甘いのだろう、隙間から微かな風鳴り。一定周期の風音は、足音の幻聴を呼ぶ。音もまた、錯視の同盟者だ。

 私は足を止め、深呼吸を一つ置く。

——視られるという主観は、視せられているという客観に変換できる。

 その変換器——スイッチの所在は、ここにある。



 廊下の奥、理科準備室の前にそれは立っていた。

 白い石膏像の翁。石膏特有の乾いた白が、ところどころ指腹の油で薄く艶を帯び、鼻梁の稜線には微細な欠けが走る。眼窩は深く、瞳孔に当たる窪みはわずかに楕円——正面ではなく、斜めからの入射で黒が増す形だ。

 像の足元にはフェルトの薄い座が四隅に貼られ、台座は床から743mm。壁との後退距離は310mm。蛍光灯の列は像の真上ではなく肩のやや前方、陰影は鼻梁→口元の順で強く落ちる。光を受ける角度で表情は容易に変質し、笑みにも睨みにも、時に口角が吊り上がったような嘲りにも見える。


 実花は三歩手前で立ち止まり、制服の袖を握りしめた。

「……今も、こっちを見ています。」

 声は細いが、喉仏の上下がはっきり見えるほど早い呼吸。肩は小刻みに波打ち、指の関節が白むほど布をつかんでいる。視線は像に釘付けで、瞬きの間隔が不自然に伸びる。恐怖は二段階で彼女を襲っている——最初の“気配”、次に“視線が合う”確信。その切り替えの瞬間を私は待つ。


 朝永が一歩前へ出て、照度計を掲げた。

「照度差、廊下中央で380 lx、像の左頬で430 lx、眼窩の底で120 lx。光源は片側だけ蛍光管を新調してある。色温度が違う——片側はやや高い。」

 彼は顎で天井を示す。カバー内部に付いた細かな粉塵が、光を柔らかく散らしている。

「……まあ、錯視だな。瞳孔の残像が追ってくるだけだ。」

 言いながら、照度計の表示を私のメモに落とす。彼の声は平坦だが、数値は十分に鋭い。


 私は首を振る。

「錯視だけなら、ここまで一族が怯えるはずがない。」

 像の鼻梁に沿う影が閾値を越えるタイミング、廊下端の蓄光式ピクトが作る緑の微光、清掃直後の床のわずかな濡れ。それらが重なる位置がある——人が“反射的に振り向く”座標だ。私は靴先で線をなぞり、そこだけ空気が冷える錯覚を確かめる。


 美緒が前に出た。鍵束の金属音が、静かな廊下に硬く落ちる。

「私が歩いてみます。生徒たちと同じように。」

 教員としての口調を保とうとするが、語尾が半音上ずる。 脇を絞めた腕には鳥肌が立ち、指先は鍵を握る力が強すぎて血の気が引いている。

「昔は……ここを通ると、見守られてる気がしたんです。今は見張られてる。」

 言いながら、視線を像から外せない。

 私は制止しかけて、やめる。恐怖の再現は当事者の速度で起こる。ただし条件は固定する必要がある。私は朝永に目配せし、スイッチの操作は学校側のみ、我々は非接触の原則を口に出さず徹底する。


 実花が美緒の袖口に目をやり、唇を噛む。

「先生、だめ……」

 その声自体が、恐怖の言語的増幅になる。私は静かに首を振り、実花の肩を後ろへ下げる。視線の高さと距離を変えるだけで、像の“追従”は弱くなる。彼女の呼吸が少しずつ整い、しかし肩甲骨の内側だけが固まる——恐怖の芯はまだ抜けない。


「ここから十歩。生徒の足なら七十センチ刻みだ。」

 美緒は自分に言い聞かせるように数える。三歩、四歩。靴底が床の薄皮を押して走る鈍い音。五歩目で、像の右眼窩の影がふっと濃くなる。

 私は低く告げる。

「今、影が動いたように見える。実際には、あなたが角度を越えただけだ。」

 美緒の喉が動き、細く息が漏れる。

「……でも、見てる。」

 声は震え、涙がにじむ。恐怖は視覚より早く体温と皮膚に触れる。彼女の手の甲に細かな汗の粒が立ち、指輪が冷たく沈む。


 朝永が短く言う。

「止まれ。照度、再測。」

 彼は像の右頬のエッジコントラストを見て、わずかに眉根を寄せる。

「……確かに、目が動いて見える。」

 測定者の言葉は、恐怖の第三の支えになる。主観→暗示→数値が揃えば、錯視は確信に変わる。私はそこで一歩、内側へ寄る。距離の制御は、恐怖の制御だ。


 美緒の唇が小さく震える。

「ここで……いつも、生徒が振り向くんです。」

 彼女の声は、守りだった像の記憶と今の像の敵意の間で割れる。両の肩がわずかに上がり、頚の後ろの筋が強ばる。

「私も、確かめます。」

 彼女は一拍置いて、振り向くための重心移動を、無意識に作り始めた。

 私は息を飲み、像ではなく光の位置を見上げる。

——この先、恐怖は視線ではなく、足で作動する。



 廊下のスイッチが切り替えられ、蛍光灯が一斉に震えた。

 磁気の微かな唸りが天井に走り、インバータの立ち上がりが半拍ずれて重なる。光は一本だけ色温度が高く、他は古い管の黄味を残している。位相の違いが床の艶を流し、像の顔に斜めから刃を入れた。眼窩が濃く沈み、鼻梁の稜線がふっと反転する。

 その一瞬、翁は——確かに「視線を動かした」ように見えた。


 実花が肺の奥から吸い上げた声で叫ぶ。

「ほら! 目が合った!」

 声は高く、耳の奥がきいんと鳴る。実花の視野は絞られ、周辺視が暗く落ちている。恐怖はトンネルを作る。指先は制服の袖を掴んだまま血の気を失い、脈の鼓動が布越しに伝わる。私は彼女の肩を二センチ下げ、呼吸の速度を落とす——視線の高さと呼吸を整えるだけで、錯視の刃先は鈍る。


 美緒は振り返りざまに硬直した。

「……本当に、見ている……」

 唇の色が引き、舌先が乾くのがわかる。額の汗はまだ出ない。恐怖の初段は汗ではなく血の引きで来る。頸の後ろの筋が糸のように張り、肩甲骨の内側が硬い。

 私は横目で像を見ず、光を見上げる。天井の一灯が瞬き、突入電流抑制リレーのわずかな遅延が半音の間を作る。眼窩の底に、黒が生き物めいた深さで湧く。


 その瞬間、廊下の照明がチカリと切り替わった。

 一灯だけコンデンサが吐き気味で、応答が0.2秒遅れる。 この遅れが、像の黒目が「追ってくる」錯覚に拍を与える。 観察者の頭の回転(振り向き)と光の遅れが同時に立ち上がれば、上丘の反射が「目と目の合う」感覚を偽造する。

 私は低く言う。「今だ。」

 朝永は頷き、照度計の表示を読み上げる。

「右頬430 lx、眼窩110 lx、コントラスト比約1:3.9。」

 数値は、恐怖に第二の根拠を与える。


 美緒は反射的に一歩、後退した。踵が床を押す——音が鈍い。

 床は異様に滑りやすい。清掃ワックスがまだ生きている。

 今夜は火曜日、放課後清掃から二時間弱。廊下中央に濃い帯が一本走り、そこだけ摩擦係数が落ちている。

 私は一瞥で判断する。乾いた長尺シートの静止摩擦は0.6前後、ワックスが残れば0.3、水分が混じれば0.2を割る。振り向き反射が働いた足に、この数値は致命的だ。


「危ない!」

 啓の叫びは空間の形を変えきれない。声は届き、体は間に合わない。


 美緒は非常口の扉に手をかけ、全体重を預けた。

 蝶番のピンは半ば抜かれている。化粧ビスは新品だが、座金の当たりが浅い。扉は外開きに偏り、ストッパーのネジは一本だけ短い。

 彼女の手がバーに吸いつく。金属の冷たさが皮膚電気反応を叩き、握りは一瞬強くなる。

——支えは来ない。

 扉は空気の重さを残すだけで、外側へ抜けた。


 視界が跳ねる。世界が45°だけ傾く。

 足はまだ床にあるつもりで、床が後ろへ逃げる。

 階段が口を開けている。

 美緒の喉から声が出ない。声帯は開いているのに、空気が落ちるだけだ。

 指輪が一度だけ光り、左肩が手すりを掠める。救いにならない擦過音。


——落ちた。

 重い衝撃音。

 乾いた、骨の折れる音。

 音は二度。頭蓋、そして頸。


 朝永が最短動線で駆ける。私は動かない。この距離は動かないほうが近い。

 彼は頚部の角度を見て、触れない決断を即座にする。

「触るな。」

 その声は、まだ生きている人間にだけ向く。


 私は耳で廊下を測り、目で痕跡だけを拾う。

 扉の蝶番ピンは片側だけ指で抜ける硬さ。近接のビス頭に新しいバイトマーク。

 床のワックスの帯は扉の前で不自然に広い。モップの軌跡が往復している。

 照明の三路スイッチはプレートだけ新しく、ビスの回し跡が今朝の清掃では付かない位置にある。

 偶然という語は、ここには合致しない。


 啓の叫びが遅れて届く。実花の膝が落ち、息が音になる前に体が震える。

 私は彼女の視界を像から外すため一歩、身を入れる。見る位置を変えることは、恐怖の退路だ。


 美緒の頸は不自然に曲がり、呼気は戻らない。

 朝永が時計を見た。JJYの秒針が一つ、刻む。

 私はゆっくりと顔を上げ、白い翁の動かない目を見据える。

——視ていたのは像ではない。視させていた者がいる。



 私はすぐに目を走らせた。見る順を間違えると、現場は二度と元には戻らない。

 まずは“いまこの瞬間の配置”を固定する。JJY同期の腕時計で19:23:41、口に出して記録係(=私)のレコーダに刻む。

 扉:非常口扉の上側蝶番ピンに新しいバイトマーク。化粧ビスは光っているが座金の当たりは浅い。下側は古い汚れが残り、上下で整備時期が不一致。ヒンジのラグ穴周辺に微細な金属粉が付着。

 床:扉正面の長尺シートは艶の帯が不自然に広い。モップのストロークが往復しており、周囲の“コの字”動線と符合しない。乾燥境界のエッジに微小気泡。ワックスはまだ生きている。

 照明:三路スイッチのプレートだけが新品。ビス頭に最近のドライバー痕。照明ダクト内の化粧蓋に一度だけ開けた爪痕。配線に仮設ジョイントが一本、被覆に指脂の曇り。

 階段:一段目の蹴込みに新しい擦過線。手すりの二番目支柱に皮脂の曇り(高さ136cm)。頭部衝突の痕は二段目端縁に。

 像:台座四隅のフェルトに繊維のめくれ無し。——像は動かされていないが、“見え方”は操作された可能性が高い。


「偶然ではない。」

 私は低く呟き、全景→中景→近接の順で撮る。三脚を立て、方位、距離、レンズ焦点距離、露出、照度、時刻を声に出してキャプション化する。言葉は後で嘘をつくが、数値は黙って残る。


 朝永も顔を曇らせ、手袋越しに無線で短く飛ばす。

「封鎖。廊下一帯、テープ二重。階段は立入り禁止。鑑識要請、救急と検視調整。電源系は現状維持、スイッチ非接触。」

 彼は私の耳元で必要最小限だけ言葉を足す。

「事故じゃない。誰かが“恐怖を増幅する仕掛け”を作っていた。」


 私は接触面の優先順位を即決する。

 1.扉蝶番・ラッチ:粉末採取(ナイロン刷毛)、テープリフトで金属粉と繊維。

 2.スイッチプレート:シアノアクリレート燻蒸前提で、いまは写真のみ。

 3.配線ジョイント:非接触撮影、周辺の被覆に皮脂拭き残しの確認。

 4.床ワックス帯:傾斜板簡易試験(静止摩擦係数)と綿棒で有機溶剤拭き取り、アンモニア臭の有無。

 5.手すり支柱:高さ記録と擦過方向。


「時刻、19:27。照度、廊下中央370 lx、扉前410 lx。眼窩底110 lx。」

 私は読み上げ、レコーダに入れる。**光の状態は“犯行の一部”**だ。復元できなければ、再現は疑いになる。


 啓は膝をつき、声にならぬ叫びを上げた。実花は泣き崩れ、視野が像へ引かれるのを私は体で遮る。悠斗が無機質な声で祖母の遺記を暗唱した。

「……覗かれる……祟りなり……振り向くな……」

——言葉は刃だ。ここでは**“振り向く”という単語そのものが行動誘発になりうる。私は彼の視線を床の一点**に落とさせる。語を抜けば、刃は鈍る。


 私はワックス帯の端に紙片傾斜板を置き、角度をゆっくり上げる。滑り出し角は約11°。乾いたエリアは19°。数字が美緒の踵の流れを説明する。

 次に蝶番ピン。上側だけ指圧でわずかに沈む。抜き差しの頻度が新しい金属光沢で分かる。化粧ビスは新品だが、ビス穴は古い粉を抱えたまま——見せかけだ。扉は外側へ容易に開くよう“支え”を失っている。支点をずらすだけで、重力は味方になる。


 照明ダクトの仮設ジョイント。被覆に縦の曇り、指腹の跡。ジョイントの角度が他と異なり、力を掛けた癖が残る。素手か、薄手の手袋。

 スイッチプレートのビスは対角で締め付けトルクが違う。朝の清掃では生まれない差だ。

 像の台座は無疵。——やはり**“像には触れていない”**。見え方だけが加工されている。


 私は負の証拠も拾う。

•扉バーに血痕の飛散がない(転落の前に握っている)。

•手すりに掴み直しの爪痕がない(一度も救いを得ていない)。

•像の周囲に靴底の回転痕がない(像の直前ではなく、振り向きの座標で転位)。


 偶然という語を、私はここで棄てる。

 設計という語を手に取る。

「——これは段取りだ。」

 私はレコーダに言い、朝永に目配せする。

「チェーン・オブ・カストディ開始。動画はDVRからミラー吸い出し、ハッシュSHA-256で打刻。清掃当番表、鍵管理簿、照明交換履歴を原本閲覧。コピーは写しの明記。触らない、動かさない、戻さない。」


 朝永はうなずき、淡々と人を動かす。

「家族は廊下端ライン外。先生(美緒の同僚)は職員室で待機。

 救急は到着次第、死亡確認のみ、搬送は検視後。

 スイッチ操作は学校側に限る。録画機に触るな。」

彼の声が静かに空間を締め直し、混乱は仕事に置き換わる。


 私は像を見上げた。

翁は黙して、ただ白い顔で立ち尽くしている。白は色ではない。光の余白だ。

 余白に恐怖を描いたのは、像ではない。人だ。


——覗いていたのは像ではない。

 覗かせていたのは、他の誰かだ。

 その“誰か”は、像に触れず、光と足だけを操作した。

 鍵と清掃と配線を跨げる立場。誤差0.2秒の遅れを計算に入れる頭。

 私は手帳の余白に、二つの名をまだ書かずに、枠だけ描いた。



 恐怖は、常に「偶然」の衣を纏う。

 照明のちらつき、床の滑り、扉の軋み。

 どれも日常の中に紛れ込み、事故の一語で処理されてしまう。


 だが、ここで見たのは違った。

——新品のビスと古い粉。

——乾燥境界の不自然な帯。

——遅延させられた照明の拍。

 それらが一点に重なったとき、恐怖は装置へと姿を変える。


 美緒の死は祟りではない。

 だが、単なる事故でもない。

「覗かせる」ために段取りされた舞台の中で、彼女は倒れた。

 像は動かない。ただ、像を覗かせた者がいる。


 ここまでの記録で、もう一つの線が浮かび上がる。

 誰が光を操作でき、鍵を管理し、清掃の手順に干渉できたか。

 それを見抜けば、この“恐怖の設計者”の輪郭はぼんやりと立ち上がる。


 次幕では、篠宮家そのものに亀裂が入る。

——家族を縛る眼差しと、仕組まれた恐怖が絡み合い、

 新たな犠牲と、更なる「兆し」へと連鎖してゆく。


 恐怖はただ人を怯えさせるだけではない。

 人を動かす。そして、その動きを待ち受けていた者がいる。


 さて、あなたはもう気づいているだろうか。

 “祟り”を信じる者の影にこそ、冷徹に計算された意志が潜んでいることに。

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