第一幕「遺記」
事件は、紙の匂いから始まった。
現代の探偵が扱うのは、ほとんどが時刻の揃ったデジタル──通話履歴、IC改札ログ、EXIFの刻印、監視カメラの秒針だ。
だが、いま指先にある帳面の一葉は、確かに昭和という時間の層を纏っていた。手に吸いつく繊維、きしむような脆さ、酸化したインクの金属臭。
表面に走る震える文字は、書いた人間が言葉より先に身体を失いはじめていたことを証し、末尾三行は紙を穿つほどの筆圧で刻まれている。そこだけ、言葉が意味ではなく重さとして沈んでいた。
——篠宮家の祖母が、死の直前に書き残した「遺記」。
そこには三つの兆しと、一族を呪う“視線”の言葉が記されていた。
私はライトの色温度を四五〇〇Kに落とし、記録票の欄に受領時刻・開封手順・臭気所見を埋める。
推理はあとでよい。
事実は、いま保存するしかない。
鑑定覚え(津守)
用紙は和装帳面から切り離したもの。木材パルプ高率・明礬礬土定着紙。昭和後期に普及した安価紙の典型で、リグニンの黄変とエッジの脆化が顕著。断ち切り面に手作業断裁のけば立ち、角は丸い。綴じ糸孔の痕が二箇所。
紙厚:87–92µm。簡易pHペンで弱酸性の反応。水印なし。
インクは没食子酸+硫酸第一鉄系。茶褐色の変色と酸焼け。末尾三行は裏抜けを伴う深い浸潤。
斜光(raking light)で運筆のリズム崩壊を観察、筆圧ピーク周期の乱れから細かい振戦(3–5Hz)を推定。低体温または強度の緊張。
紫外励起で別筆の走り書きを確認。近赤外反射では主要文字のカーボン成分が優勢、抹消線のみ染料寄りで反転復元が有効。
可視域多分光(VIS-MSP)を七波長で撮影、主成分分析で上書きと抹消の層分離が成立。
筆致は一人。ただし末末尾三行のみ角度崩れ30°超、膝上筆記の可能性が高い。
チェーン・オブ・カストディ起票:受領→開封→撮影→光学処理→一時保管。媒体ID付番済み。
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復元本文(原文表記最大維持・読み補い)
先祖より伝はるもの、いまだ絶えず。
篠宮の血脈、短きは定めにあらず、覗かるるがゆゑなり。
学び舎にて最初の兆しあり。
白き面の翁、子を護るごとく立てられしか、今は守りの翁ならず、ただ覗く翁なり。
医の館にて次の兆しあり。
赤き顔を見たる者、みな病まずとも慄く。
これ、病にあらず、呪にて祟りなり。
社にて終の兆しあり。
夜半、参道を渡るとき、背に息を感ず。
そのとき振り向くなかれ。
覗き返せば、血は絶え、祟りは続く。
われらは唯、覗かれ続ける一族なり。
願はくは、次代の子にまで及ばぬことを。
されど筆を執るこの手も、すでに冷えきたり。
——覗くな
——呪い
——崇られる
(※末尾三行は血性と墨の混在。ヘモグロビンの暗色化あり。膝上筆記の可能性。)
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欄外注(分析+検証計画)
1.「白き面の翁」
仮説:守護像(能面・石膏胸像)が視線追随錯覚を生むよう照明・陰影が調整されている(凸凹反転=マスク錯視)。
検証:校内の照度分布図を作成。入射角・陰影境界の移動を観察。回転台・偏光板の有無確認。
反証可能性:全天候・全角度で錯覚が成立するなら自然要因。限定条件でのみ強く出るなら人為の疑い濃厚。
機材:ルクスメータ、分度器付三脚、偏光フィルタ、可搬ミラー。
2.「赤き顔」
仮説:強赤色輝度による暗順応破壊+残像。非常灯・看板・緊急幕のスペクトル改竄。
検証:分光放射照度計で波長ピーク測定(600–650nm支配)。フリッカ(PWM)有無。残像時間の被験者試験。
反証可能性:赤域優勢でも照度が閾値未満なら効果は弱い。**“病まずとも慄く”**の再現性が鍵。
機材:分光計、オシロスコープ付照度プローブ、暗幕、視標。
3.「背に息」
仮説:CO₂局所噴出/空調逆流/隠れた接近による皮膚感覚刺激。参道下の暗渠・配管利用。
検証:夜間、CO₂センサとスモークで風路可視化。温度・湿度の境界線探索。足音遮断マットの設置痕。
反証可能性:風向一定時でも現象が出るなら装置依存。季節風のみで成立するなら自然要因。
機材:CO₂モニタ、スモーク、温湿度計、終夜ロガー、暗視カメラ。
4.「振り向くな」禁忌
仮説:返り視動作をトリガに物理仕掛け(落下・刃・電撃・閃光)が作動。視線行動の予測性を悪用。
検証:ヘッドトラッカで首振り角とタイミングを計測、閾値と発動点の相関をとる。誘発サイン(音・風・光)の有無。
反証可能性:トリガが個体差に依存しないなら機械式の可能性高。ばらつきが大きい場合は人的監視を疑う。
機材:IMU付きカメラ、照度ロガー、圧力スイッチ検査器。
5.「覗かれる一族」
仮説:遺伝病偽装の古典的手口。若年死・事故死の偏りは人為的選択・誘導の統計像。
検証:戸籍・診療録から死亡年齢分布、季節性、場所の偏りを抽出。対照群(地域平均)と差の検定。
反証可能性:有意差がなければ語りの誇張。有意差があれば連続工作の疑い。
機材:統計ソフト、GIS、家系図可視化ツール。
備考:本稿は**“短命は遺伝ではない”**と明言。恐怖を構造化する書式として機能している可能性。犯人の台本としての価値を検討。
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翌朝、九時二十八分。事務所の固定電話が鳴る。名乗ったのは篠宮 啓──遺記の当主の長男にして現当主。
声は張ろうと努めるが、呼気の末端が震えていた。背後で茶碗が置かれる微かな音、誰かが息を呑む気配。
「娘が……翁の像に視られていると訴えております。
祖母が残した遺記と同じ言葉を口にして……どうか、この“呪い”を調べていただきたい。」
私は形式的な確認から入る。
依頼目的、対象範囲、立入権限、情報提供者の保護。
学校名、像の所在、照明系統の管理権者、出入り記録。
話すほどに、相手の沈黙は長くなる。恐怖は情報を削る。私は代わりに質問を整える。
「まず、遺記の原本保管者と、閲覧した人数を教えてください。
それから、娘さんが“視られた”と感じた時刻と位置──太陽の高さと、室内光の状態を。」
電話の向こうで、誰かがすすり泣く。
私は静かに言う。「大丈夫です。呪いは仕掛けで暴ける。手順どおりにやりましょう。」
凡俗の調査から異質の連鎖へ。こうして、篠宮家と私の接点が生まれた。
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遺記の余白に注を綴っていたとき、携帯が震えた。
画面には「加納」。滅多に自分から掛けてこない男だ。
「……こんな時間に珍しいな。」
「夜更かしはお互いの職業病でしょう。私は原稿、あなたは記録。
違いといえば、扱う対象が生きているかどうか、でしょうか。」
軽い世間話──天気、週末の学会──のあと、私は机上の紙片に視線を落としたまま、ほんの少しだけ言葉をこぼす。
「古い帳面の切れ端を受け取った。
一族を“覗かれている”と書いてある。翁、赤い顔、背に息……そんな語が並ぶ。」
半拍の沈黙。受話器越しの呼吸が、わずかに深くなる。
「“覗かれる”……興味深い語です。
人は見られることで存在を確かめますが、度を越せば自己の輪郭を失います。
視線は、認識と支配の閾にある力です。
翁、赤、背息──いずれも古典的触媒ですね。恐怖は組み合わせで強度を持ちますから。
設計された恐怖、と言ってもよいでしょう。」
わずかな断片から、ここまで構造化してみせるのは常軌を逸している。私はメモに細い線を引く。
「ひとつだけ。
“覗かれる”という語は対象が受け身であることを示しますが、実際には**“覗かせてしまう条件”**がどこかに仕込まれている可能性があります。
視線は一方通行ではありません。返す前に呑まれることもあります。
——どうか、振り返るときの自分の姿勢にお気をつけください。」
それ以上、具体には踏み込まない。会話はふたたび他愛ないニュースへと戻り、やがて切れた。
残ったのは、欄外に走り書きされた一行だけ。
——「加納:断片から恐怖を構造化。警告の意図あり。」
第一幕は、篠宮家に伝わる祖母の遺記を、紙という物質から解き始めた。
遺記の三つの兆しは、呪いの詩句であると同時に、検証可能な仮説の束だ。
視線錯覚・暗順応破壊・局所的気流・返り視トリガ──それらはすべて、フェアに暴ける仕掛けの語彙に置き換えられる。
だが、依頼人の「娘が視られている」という証言は、すでに言葉が現実に侵入し始めていることを意味する。
加納の丁寧な忠告は、設計者の存在を仄めかし、私の振り向きそのものに刃を忍ばせる。
次幕では「最初の兆し」が実際に発動する。
——学び舎の翁像。
照明と影、距離と角度、そして子どもの視線。
その一瞬に、物語の連鎖が音を立てて動き出す。私はルクスメータ、偏光板、ヘッドトラッカ、CO₂センサをケースに詰め、篠宮家へ向かう準備を整えた。
呪いは仕掛けで暴ける。
ただし、暴く者が最初に覗かれる。
その順序だけは、忘れない。




