終幕「祟りを紡ぐ手」
三つの兆しはすべて顕になった。
翁像の前で美緒が倒れ、診療所の赤光に俊和が沈み、参道の禁忌に囚われた弘志が落ちた。
遺記に記された言葉は一字一句のごとく現実化し、篠宮家の者たちはその順序に絡め取られた。
だが、もはや「祟り」ではないと誰もが理解している。
祟りの名を借りて恐怖を操り、人の死を舞台のように演出した「手」が、この座敷に潜んでいることは暴かれた。
——ただ一つ、まだ明かされていない。
なぜそこまでして、仕掛けを積み重ねたのか。
三人を死に追いやり、家族を互いに覗かせ、恐怖を織り込むことで何を得ようとしたのか。
座敷に漂う沈黙は、もはや祈りのための静けさではなかった。
それは告白を待つ舞台の暗転。
狂気の女が、自らの手で台本を閉じる時を。
——この幕は、「祟り」という物語を“紡いだ手”が、自らを暴く瞬間を描く。
座敷は、もはや裁きの場であった。
祈りも涙も、いまは冷え切った空気の中で形を持たない。畳の目は沈黙を吸い込み、線香の甘さは消えて鉄の匂いへと変質し、天井板の溝に薄い灰色の膜を張る。低い照明が頬の半分だけを白く起こし、黒目の輪郭だけが刃のように研がれてゆく。壁時計の秒針は微かに跳ねるたび、心拍の半拍遅れで耳へ刺さる——音ではなく、待つことそのものが音になっていた。
その中心で、篠宮綾子が口を開いた。
微笑の形は崩さず、しかし声音だけは磨き上げた刃金のように冷たく響く。
「……恐怖ほど、人を従わせる力はありません。」
啓の肩がびくりと揺れ、実花は父の袖に爪を立てて顔を伏せる。綾子はその視線を受け止めるどころか、まるで舞台の客席に向かう役者のように、正面の暗がりへ言葉を投げ入れていった。
「愛は、飽きます。恩は、薄れます。義務は、逃げ道を探します。
でも恐怖は、逃げるほど戻ってくる。
『覗かれている』と一度信じれば、人は自分で自分を縛る。
祖母の遺記は——神託? いいえ、台本です。禁忌というセリフを覚えさせれば、残りは舞台装置がやってくれる。」
彼女は芝居がかった抑揚で語りながら、一語ごとに具体の痕跡を釘のように打ち込む。
「翁像は、ただの石の顔。けれど照明の角度を半歩倒し、布の結びを“内へ返す”癖で縫い留めれば、瞳は追ってくる。
夜間の鍵? 当主の妻は、鍵束の出入りに名を残さない方法を一番よく知っている。
——美緒は“見られている”と信じたから、足を滑らせたのです。」
美砂子の喉が小さく鳴り、数珠が指に食い込む音が畳の目を震わせる。
「診療所は、赤の舞台。非常灯のラインに仮設ハロゲンを割り込み、ダクトに小さな送風機。二秒半ごとに“ふうっ”と首筋を撫でるだけで、人は神の息を感じる。
床は帯状に再ワックスして鏡面へ——血のように見えるのは人の目のほう。
——俊和は疲労で躓いただけ。けれど環には『夫を奪う祟り』に見える。そう設計しました。」
環は立ち上がりかけ、膝が畳の目を一列だけ荒らして止まる。声は出ない。綾子は視線を逸らさず、さらに畳みかけた。
「参道も同じ。石段下は空洞、支え木は斜めに。灯籠には閃光を仕込み、暗渠へは逆流の細工。
大事なのは“振り向く”という反射。禁忌を破った瞬間だけ罠が咬む。
——弘志は信じすぎたの。神罰を証明しようとして、自分を証明してしまった。」
灯籠の残像が瞼の裏で赤く脈打つ気がして、座の誰もが視線を落とす。綾子はひと呼吸置き、幕間の間合いのように唇を湿らせた。
「噂は、家の外から回すほうが効きます。内側の囁きは祈りになるけれど、外側の囁きは包囲になるから。……直弥。」
名を呼ばれた直弥の拳が膝上で固まり、濡れた唇が震える。
「俺は……俺は、頼まれただけで……!」
「ええ。あなたは“外部の目”。匿名のざわめき。
あなたが正しいかどうかは、どうでもいい。“見られている”構図が完成すれば、恐怖は自走するの。」
彼女の笑みは薄い絹のように柔らかい。だが目だけは笑わない。黒曜石の面で光を拒み、家族の黒目に針穴を開ける。
「——私は覗かれてなどいない。私が、覗かせている。」
その一言で、空気は目に見えない高さから崩れ落ちた。
美砂子は嗚咽を止められず、環は膝を抱いて背を丸め、啓は当主の影を完全に失う。玲奈はノートを閉じて歯を食いしばり、実花は目を閉じても何かに見られているかのように肩を震わせ、悠斗の暗唱は二拍を外れ、音にならない囁きに変質した。
綾子は微笑を保ったまま、いよいよ本性を露わにする。
声音はさらに低く、言葉は甘い毒の温度を持つ。
「誤解のないように。『家を守るため』——それは表向きです。
本当はね、私が中心でなくなるのが嫌だった。
啓は空っぽ。私が動かさなければ、家の針は止まる。
実花と悠斗は私の目だけを見て育てるべきで、学校も病院も神社も“邪魔”でした。
美緒は外の価値観を子どもへ運ぶ通り道だった。
環は“理屈”で私を削る。俊和は“数字”で祟りを解体する。
弘志は“神前”で私の上に立とうとする。
——だから、視線の向きを直したの。みんなの眼を、私の中心に戻すために。」
言いながら、指先で空中に円を描く。
「見ている先が私なら、裏切りは起きない。
愛では足りないの。恩も、義務も、いずれ剥がれる。
恐怖だけが、剥がれない接着剤。
遺記は最高の素材だったわ。台本は古いほど効く。
私の指から落ちないように、あなたたちの眼孔の裏側に私を置いた。
——それを『祟り』と呼ぶなら、好きに呼べばいい。」
障子の紙が夜風でふわりと膨らみ、線香の煙が細い刃に変わって水平へ走る。
朝永の指がゆっくり手錠へ触れる気配を、私は横目で捉える。だが綾子は舞台の中央に立つ役者のまま、最後の台詞を飾る。
「探偵さん。あなたは“仕掛け”ばかり見る。
でも人を動かすのは、仕掛けではなく視線の回路です。
私は、二秒の暗唱、二拍の息、半歩の角度——心が従うテンポを作った。
あなたがそれを暴いても、恐怖は別の眼を探す。
誰かの黒目の奥で、私の形は続く。
——“覗かれる一族”? いいえ、覗かせる私の一族よ。」
啓の喉が乾いた音を立て、喪章の端が内側へ折れて黒の二重線を作る。美砂子は数珠を握り直し、一つだけ艶の異なる玉が冷たく光る。環は唇の血色を失い、玲奈は視線を障子の繊維へ逃がす。実花は天井の隅から眼を戻せず、悠斗は一度だけ、きっちり二秒を外した——恐怖の時計が、初めて狂う。
綾子の微笑は、凪いだ湖面のように動かない。
しかしその下で語られたものは、家を守る義務ではない。所有欲、支配欲、独占欲——眼差しを独占することへの渇きだ。
彼女は祟りを演じる紡ぎ手として、自らの利己を完璧に言語化し終えた。
障子の向こうで風がすっと通り、線香の残り香が切れる。
座敷には、湿った畳の匂いと、赤い残像だけが残った。
そして全員の眼に、同じ像が立つ——祟りではない。生きた人間の眼だ。
秒針がひと跳ねするたび、鼓動が半拍早く追い越していく。——沈黙そのものが、家の中で音を持ち始めていた。
その沈殿を切り裂いたのは、朝永だった。
彼は静かに立ち上がり、懐から冷たい光の輪を取り出す。
「篠宮綾子。
あなたを殺人および殺人未遂の容疑で——」
言葉を最後まで許さぬというように、綾子は畳を鋭く蹴った。
跳ね上がる膝、しなやかな軸足、舞台の役者が最後の見得を切るような所作。だが朝永の腕は、最短の軌道で彼女の手首を取る。金属が骨に触れて澄んだ音を立て、もう片方の輪が静かに閉じた。
鋼鉄の感触のなかでも、綾子は笑みを崩さなかった。
瞳だけが冷え、唇だけが柔らかい。相反する二つの温度で、人を刺す。
「恐怖は……続きますよ。」
囁きは、座敷の四隅に同時に届いた。
「家を守るため? ——違うわ。
私が“家族を私のものにしたかった”からよ。
夫も、子も、弟も。私を見る以外できないように、眼孔の裏側から縛っておけばいい。
祟りは口実。恐怖は証明。祖母の遺記は……最高の台本だった。」
眼差しは凍りついた家族の顔を順に撫で、最後に私へ突き刺さる。
勝ち誇りでも敗北でもない。ただ、自分の狂気が成立したと伝える眼だった。
「あなたたちが私から逸れるのが、何より我慢できない。」
綾子の笑みが薄く深まる。
「所有って言葉、好きよ。
所有には費用がかかるけど、恐怖は無料。
鍵束も、清掃用具も、照明の角度も、全部“手に取れるもの”。
人の心を倒すには、半歩の角度と二秒の拍で足りるの。
ねえ探偵さん、あなたの報告書は丁寧だったわ。——でも、視線の回路には触れていない。」
畳の上で誰かの喉が鳴る。誰でもない音が、座敷の中心へ落ちた。
直弥が崩れ落ちる。膝が畳へ鈍く当たり、嗚咽がほどける。
「姉に……操られていたんだ……!
俺は掲示板に……書き込んだだけ……!
全部……姉の……指示だった……!」
涙と鼻水で濡れた顔を畳に擦り付け、その告白は反証の余地なく場に沈む。
綾子は振り向きもせず、声だけで弟を刺す。
「外からの噂は、内側の祈りより効くの。
包囲って、恐怖の一番やさしい形よ。
あなたはただ、ドアを叩く音を足してくれただけ。」
啓は当主の骨格を落とし、背を丸める。
美砂子は数珠を手から落とし、ひと粒だけ艶の異なる玉が転がって止まる。
環は膝を抱え、声の出口を見失う。
玲奈はノートを閉じ、視線を障子の紙の繊維へ逃がす。
実花は父の袖を握り、天井の隅から視線を戻せない。
——祈りが剥がれ、家族がそれぞれの沈黙に落ちていく。
そのときだ。悠斗がふいに顔を上げた。
眼差しは澄み、声はいつもの二拍子——なのに、意味は刃だった。
「……祟りは……“誰かを縛りたい眼”のこと。
お母さんは……覗かれていたんじゃない。
ずっと……覗きたかったんだ。」
座敷の空気が、音もなく凍りつく。
子供の舌から零れたのに、誰も否定できない真理だった。
二秒のメトロノームが、初めて全員の心から外れる。
手錠の輪が小さく鳴る。朝永は短くうなずき、手順どおりの声で告げる。
測定者の声は祈りに似ない。だからこそ効く。
「言い残すことがあれば、署で聞こう。」
綾子は、なお笑っていた。
笑みは龕灯の赤い残像を宿し、瞳は鏡のように全員を薄く返す。
「見えるでしょう?」
囁きは風より細く、線香の残香に溶ける。
「恐怖は祈りより強い。
あなたたちが私を忘れても、恐怖は次の眼を探す。
誰かの黒目の奥で、私の形は続く。
——祟りは、まだ終わっていない。」
障子の向こうで夜風が一際強く吹き、白い紙がふわりと膨らんで戻る。
線香の煙が細く裂け、甘い香りは一瞬で掻き消えた。
座敷に残ったのは、湿った畳の匂いと、灯籠の赤の残像だけ。
私は深く息を吐き、記録の最後に書きつける。
短く、具体に。言い訳の入らない順で。
「覗いていたのは神ではない。
だが——人の眼もまた、底なしだ。」
筆を止める直前、ひと言だけ残す。
報告書ではなく、次の幕への合図として。
——祟りは、まだ終わっていない。
座敷は静止していた。
だがそれは安寧の沈黙ではなく、音を失った空洞が家の中心にぽっかり穿たれたような、空虚の質量だった。畳の目は人の重みを受け止める機能を失い、いまは告白の残響と足裏の体温をゆっくり吸い込み、湿りを増して鈍い墨色へと沈殿していく。線香の甘さはとうに揮発し、空気は釘を舐めた後のような鉄味を帯びて、天井板の溝に薄い灰の膜を張った。低い照明は頬の半分だけを白く浮かせ、黒目の輪郭だけを刃のように研ぐ。壁時計の秒針は規則正しく跳ねるが、耳に届くのはわずかな遅延をまとった反響のみで、待つことそのものが音に変わっていた。
鉄の輪に拘束された綾子は、なお舞台の役者のように背筋をまっすぐ保ったまま動かない。手錠の鈍い光が喪服の黒に埋もれ、ときおり指先に伝わる微かな震えだけが生の証を示す。だがその眼差しは、もはや家族という観客席を見ていなかった——視線はすでに座敷を越え、障子の向こう、まだ見ぬ“次の舞台”に立つ観客へと投げられている。「次の眼を探す」という彼女の言葉は、家の梁に貼りついた残響ではなく、外の闇へ向けた予告編の一節として空気に刻まれた。
嗚咽を洩らす直弥の肩を、環がかろうじて支える。看護師だった掌は骨の位置も脈の速さも知っているはずなのに、いま握っているのは弟の身体ではなく、自分の崩壊を留めるための細い支柱だ。指は力を持たず、ただ触れていることで均衡を取っている。啓は当主の座を失った姿のまま、壁時計を凝視している。喪章の端は内側に折れて黒の二重線を作り、その線がまるで針路の消失線のように胸元で交わっていた。秒針の音は、綾子の台詞を機械的に反復するかのごとく冷たく等間隔に打ち鳴らされる。
「……祟りは、まだ終わっていない。」
私はその言葉を記録に写し取りながら、胸の底に冷い重石が置かれる感覚を覚えた。恐怖は現象ではなく、構造だ。一度、言葉と角度と拍で骨組みが組まれれば、自走する。仕掛けを外し、回路を断ち、数字で証明しても、人は自分の黒目の奥に宿った像を“祟り”の名で保存してしまう。像は物理ではなく関係であり、関係は眼が交わるだけで堆積する——だから、止まらない。
そして、“視線”という回路の中に、次の紡ぎ手は必ず生まれる。
障子の外で風が唸り、軒先の木口が低く鳴った。遠い社のほうから、石が軋むような短い音が一度だけ響く。参道の罠は解体済み——私の頭は即座にそう答える。だが音は理屈の上を通り越し、家の神経を直接つま弾く。偶然だ、と言うための筋力が、この座敷からは失われていた。誰も「風だろう」と口にしない。口にすれば、祈りに似た言い訳になるからだ。
実花は怯えのあまり目を閉じ、まぶたの裏に浮かぶ赤の残像から逃れるように唇を結んだが、閉ざした口からはなお小さな声が漏れる。
「……まだ、見てる……」
言葉の主語は曖昧だ。翁か、赤光か、参道か。それとも、座敷の誰かなのか。名指しできない対象は、最も強い像になる。
その言葉に、悠斗が応えた。二秒ごとに刻まれていた“祈りのメトロノーム”の抑揚で——しかし、いまの声は祈りから半歩ずれ、断定の刃を帯びている。
「……祟りは……止まらない。
人が……眼を欲しがる限り。
誰かが……必ず……覗きたがる。」
二拍の間に挟まれた空白は、恐怖を増幅する余白ではなく、理解を沈める間合いとして響いた。子どもの舌から零れたのに、誰も反論しない。正確には、反論できない。言葉は単純だが、構造に触れている。
その瞬間、私は了解した。綾子の狂気は、ここで終わる。だが“眼”という概念——注視されるという関係、覗くという欲求、覗かせるという支配——は、この家に残留する。道具は撤去できる。思想は撤去できない。思想が次の手を呼ぶ。
私は筆を取った。震えを抑えるのではなく、震えの周期を数えながら、先端の角度をわずかに寝かせる。記すのは報告書の結語ではない。これから始まる別の記録の序章だ。ペン先が紙の繊維を割る微かな音が、座敷の空気に小さなひびを入れる。音はすぐ吸われる——だが、裂け目は残る。
障子の桟がひとつ軋み、外気が細い川のように流れ込む。線香の残り香は、今度こそ完全に消えた。畳は湿気を増し、足音のない廊下を足音で満たすように、想像だけが濃くなる。私の背後で壁時計がひと跳ねし、針の影が白壁に短い黒線を落とした。
私は、書く。
⸻
記録・結語
恐怖は装置であり、伝播する。
綾子はその証明者にすぎない。
だが篠宮の座敷に沈殿した黒い眼差しは、
いまも次の手を探している。
・禁忌はトリガーであり、設計可能である。
・拍(2秒)、角度(半歩)、色温度(赤域)は、心を同期させる操作子である。
・視線は一方通行ではなく、往復で増殖する。覗く/覗かせる/覗かれる、の三項が閉回路を作る。
・道具は撤去できるが、回路は言葉と記憶に残る。回路は次の手によって、いつでも再配線されうる。
だから、祟りは終わらない。
終わらないのではなく——終わらせない者がいる。
家の外にも、内にも。
——そして、
祟りは舞台を替え、また紡がれるだろう。
津守一真
灰色の朝が、事務所の窓に薄い膜となって滲んでいた。
摺りガラスの向こうで、雲は粉砕された粉末のように空を鈍く曇らせ、室内へ落ちてくるのは温度を失った光ばかり。昨夜まで座敷に張り詰めていた緊張は、ここでは偽物のようだ。机の上には未処理の帳票が積み重なり、コーヒーカップの縁には油膜の虹が一枚。壁の時計は毎秒を変わらず叩くが、耳の裏側ではまだ線香の甘い金属臭が、二秒おきの暗唱とともに薄く残響している気がする。
黒電話が震えた。
ベルが二度、冷たく弾ける。受話器のベークライトは指の温度を拒み、コイルコードの記憶は、昨夜の参道の風のように固い。
「津守さんか。……朝永だ。」
わずかに掠れた低音。現場の空気がまだ彼の声帯に留まっている。背後で紙の繊維が擦れる音が混じり、報告の準備が整う。
「篠宮綾子は正式に送致した。抵抗はしたが、最後まで笑みは崩れない。取調べでも同じだ。呼吸は腹式、瞳孔径は平常域、声帯の震えは一定。……恐怖を道具にする側の顔だ。」
測る者は、感情でなく数で語る。
彼は短く息を吐き、さらに続けた。
「直弥は全面自白だ。掲示板の投稿、まとめサイトへの転載導線、端末の癖——全部が一致した。『操られた』という表現は本人の逃げだが、“姉の眼から逃げられなかった”というほうが正確だろう。啓は……完全に沈黙している。当主としては終わりだ。」
紙を繰る乾いた音がもう一度。職務の報告のはずが、言葉の奥に薄い疲労と、わずかな敬意が滲む。数字だけで夜を渡った者の声だ。
「また、どこかで会おう。」
一拍の後、彼は言葉を選んだ。「君のように“恐怖を言葉にできる探偵”は、警察にも必要だ。だが深入りはするな。人の眼の底を覗きすぎると、戻れなくなる。」
通話が切れ、受話器の冷たさだけが掌に残った。
時計の秒針がひとつ跳ね、事務所に静寂が戻る。ペン先の乾いた重さ、紙の繊維のざらつき、コーヒーの苦み——生活の感覚がゆっくり輪郭を取り戻していく。
受話器を置いた指先に、まだ金属の冷たさが残っていた。
秒針の音がふたたび事務所を支配し、コーヒーの表面に浮いた薄い油膜が細く震える。
静寂は戻った——はずだった。
——黒電話が、もう一度、鈍く震えた。
受話器を上げた瞬間、耳へ落ちたのは滑らかで、しかし温度の欠けた声だった。
「……夜分に失礼します。加納です。」
名乗りだけで姿が立ち上がる。整った輪郭、笑わない眼。学会で見た、温度の無い微笑。着席の軋み一つ漏らさない息づかい——録音された音声のように均質な空気が、回線を伝って流れ込んで来る。
「篠宮の件は、拝見しました。……いや、正しくは“拝聴”ですね。報告の文体が舞台の記録に近い。
あの家族を舞台に選んだ方は、ずいぶん精緻な脚本を用いられた。」
ペン先が反射的に余白へ走る。
脚本、という語は偶然にしては鋭い。
私は応じない。沈黙は、言外の線を太くする。
加納は、間を恐れない声で続けた。
「人は“祟り”そのものより、“祟りを信じた他者”を信じます。恐怖は直流より交流が効くのです。台詞と装置を正しく並べれば、俳優は自ずと舞台の形を取る。
そうした実験例が、今回また一つ増えました。」
実験——? その一語が、指の関節へ冷えを流し込む。私は窓の外へ視線を移す。曇天の灰は色を持たないが、紙の白よりもなお冷たい。
「もちろん、私は観客席から見ていただけですが。」
加納は小さく笑った。笑いは声帯より手前で折り曲げられ、氷の刃のように平坦だ。
「観客席。」私は言葉を選ぶ。
「観客が、照明の角度や台詞の拍を決める劇場も、世の中にはある。」
一拍の沈黙。受話器越しの空気圧が、半分だけ下がる。
「角度と拍。」
加納は言葉を拾い、軽く磨いた。
「ええ。二秒の暗唱、二・五秒の呼気、半歩の照明。心が従うテンポというものは、確かにありますね。
禁忌の文言は、美しい拍を持つ。**“振り向くな”**は、命令形の中でも殊に良い。」
命令形。私はペン先を止め、紙の端を一度折る。
言明ではなく、構造の披露。犯意ではなく、設計の愉悦。
「あなたの報告は丁寧でした。測定者の数字も、探偵の比喩も。
ただ——あの座敷を満たしていたものは、装置ではなく回路です。視線の回路。
人は見る前に“どこを見るべきか”という接続を欲しがる。誰かが接続図を配れば、装置は勝手に光る。」
綾子の口調が、薄い膜を一枚隔てて蘇る。
『私は覗かれてなどいない。覗かせている。』
私は受話器を握り直す。音の背面にある部屋の容積——硬い床、吸音の少ない壁、カーテンのない窓——そうした手触りが、微弱な残響で伝わって来る。どこもかしこも、自分で選んだような、実験室じみた静かさ。
「加納さん。」私は低く問う。
「あなたは舞台を観客席から見ていた、と言った。
——観客席は、舞台の高さより半段低い場所にあるはずだ。」
「ええ。」即答だ。
「低いほど、舞台の奥行きはよく見える。
それに、高さが違えば、影の落ち方も違うでしょう?
赤は上から当てるより、斜めに滑らせた方が“濡れ”に見える。これは学生にも教える初歩です。」
赤、斜め、濡れ——診療所の廊下が、黒目の裏に瞬く。
私は言葉を継がない。質問の形をとらない問いは、相手に形を与えない。
「倫理の話をなさいますか?」
加納は、やわらかい棘でなぞるように言った。
「倫理審査は、実験の“前”か“後”にしか機能しません。
多くの恐怖は**“最中”に生成される。だから、記録が必要になります。
あなたの記録は、良い。語尾で煽らない。温度を置かない。
そのまま、観客の眼だけを同期**させる。」
同期——二秒、二・五秒、半歩。私は、口を結ぶ。
彼は私の文体を讃えているのではない。
効能を確認している。
「篠宮さんの件は、送致されましたね。」
加納が言葉をやさしく曲げる。
「お疲れさまでした。
ただ……舞台は、幕が下りても客席では続きます。
誰かが立ち上がる音、咳払い、残像。そういったものが、次の演目の一番最初の“音”になる。」
「次の演目。」私は繰り返す。
報告書の終わりに、自分で書いた一行が胸の内側で返事をする。——祟りは、まだ終わっていない。
「ええ。」加納は声を細めた。
「祟り、という言葉を置き換えるなら、“所有の欲”と言い換えても差し支えありません。
恐怖は愛より持続し、恩より簡便で、義務より安価です。
人は、自分の眼で所有したい。
だから、台本が配られれば、誰かは必ず読者から俳優へ移動する。」
「あなたは、読者ですか。」私は訊く。
「それとも——作者ですか。」
「どちらでもありません。」
返答は速く、柔らかい。
「私は、版元ですよ。台本が無事に流通すれば満足です。
……ついでに観客の反応を測る指標が取れれば、なお良い。」
版元——配本、増刷、改訂。私は、余白に細く書く。“供給者”。
規範や関与の線上に立たない位置取り。回路の外で、周波数だけ与える役。
「最後に。」加納は声をすべらせる。
「津守さん、あなたは“観客”ですか? それとも——」
問いは、切られたフィルムのように宙で途切れた。
回線の片側が静かに閉じ、耳朶に残ったのは、一定幅の空気だけ。
断線ではない。丁寧な終止だ。
受話器の冷たさを掌に置いたまま、私は理解していた。
——篠宮綾子の狂気の背後には、「観客を装う脚本家」では足りない。観客を装う配給元がいたのだと。
窓際のカップに、薄い油膜が再びわずかに震え、時計の秒針が一つ進む。
私は手帳の欄外に、走り書きで三行だけ残す。
・加納:用語——脚本/実験/回路/同期/版元
・関与形式——助言ではなく流通。手は出さず、構造を配る。
・警句——観客席の高さ。影の落ち方の選定。
ペンを置く。紙のさざめきは短いが、痕跡は深い。
報告書の結語には、もう書いた言葉を重ねない。
ただ、私の視野の隅で、黒い観客席が静かに増設されていく気配だけが、確かに濃くなっていく。
——祟りは、舞台を替え、また紡がれる。
幕は下りた。だが誰かが、次の灯りの角度を半歩だけ決めた音がした。
篠宮家の座敷で見たものは、単なる連続死ではなかった。
祟りを装った仕掛け、恐怖を道具に変えた女の欲望、そしてその場にいた者どうしが互いを縛り合う眼差し——それらが重なり、ひとつの舞台装置として完結していた。
私は探偵として、その構造を分解し、記録へ落とした。
光の角度は片側だけを新調した蛍光管に依存し、布の結びは“内へ返す”手癖を隠し切れていなかった。赤光の回路は非常灯に仮設を割り込み、ダクトの小型送風機は二・五秒間隔で「息」を作る。石段の下に開けられた空洞、斜めに落ち方向を指示する支え木、閃光筒と連動する縄とワイヤ。いずれも「禁忌を破った瞬間に咬む」という思想で統一されていた。測れるものはすべて測った。照度差、勾配、摩擦係数、ビス頭に残る#2の浅い噛み跡——数字は迷信を剥がし、意図の輪郭を残す。
——それでも、あの家に沈殿した空気は祟りに等しいほど濃く、冷たかった。
恐怖は仕掛けを外しても消えない。いったん構造を与えられた恐怖は、信じた心のなかで自走する。直弥の嗚咽、実花の上気した視線、悠斗の二秒の暗唱。どれもが、装置の外に移されたあとの“残り火”だった。
「祟りは、誰かを縛りたい眼のこと。」
幼い舌から零れたその定義は、この事件の核を正確に貫いている。綾子の動機は家名でも信仰でもない。視線の独占だ。 鍵・清掃・照明・社の権限——複数のアクセスを言い訳でつなぎ、遺記という台本で人の心に“向き”を与え、禁忌が踏まれる瞬間だけ刃が出る。彼女は祟りを信じたのではない。祟りという言葉で、他者の眼を自分へ向け直したのだ。
綾子は捕らえられた。だが恐怖は残った。
覗いていたのは神ではない。
けれど、人の眼もまた底なしだ。
見られることを恐れ、同時に見たいと焦がれる二重の欲求が、次の紡ぎ手をどこかで育てる。匿名の掲示板に漂う断片、二拍の息、半歩の角度——小さな因子が揃えば、舞台は再び立ち上がる。
私は筆を置く。
報告書はここで終わりだが、記録の準備は解かない。恐怖を紡ぎ直す誰かが現れたとき、私はまた角度と結び目と時間の拍を数えるだろう。測れるものを測り、言葉で解体するために。
読者にひと言だけ残す。
忘却は救いではない。構造を知ることだけが、次の舞台で足を踏み外さないための手すりになる。
・・――また会おう。




