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社畜は現在ミステリー中!!  作者: たぬきち25番
会員制高級旅館殺人事件
3/24

2 巻き込まれた社畜(2)





 伊月が残業が決まり、肩を落としていると、巧がさらに伊月の涙を誘うようなセリフを言い放った。


「伊月さん、俺。この『戻時草』を入手したい!!」


 (ああ……――やっぱりか……。さよなら、俺のビールとお弁当……)


 満面の笑みの巧とは、対照的に、伊月は膝に置いたペットボトルを握りしめながら、がっくりと肩を落として心の中で泣いていた。


(いや、あきらめるのはまだ早い。一秒でも早く話を聞いて、家に帰って、せめてビールは飲もう。あきらめたら終わりだ)


 そして伊月は、一瞬で、頭を切り替え、今の状況を冷静に考えてみた。

 江戸時代の文献を参考にして、現在で、聞いたこともない植物を探すなんていうのは、とても無茶な話だ。例えるなら、徳川の埋蔵金を探すくらい途方もない。

 伊月は小さく息を吐いて、手を少し震えさせながらも、至って冷静に尋ねた。


「巧さん。私もこの部署に来て、多くの植物の名前を見てきたのですが、その『戻時草』って植物の名前を聞いたことがないのですが?」


 伊月が入社して、3年。半年の営業経験を経て、突然、この開発サポート部に配属されてからというもの、巧のから依頼に答えるために、植物図鑑を鞄に入れて持ち歩くほど、毎日のように植物の名前を見ている。『戻時草』など、化粧品会社の者にとって、興味深い名前の草が在れば、伊月がこれまで目にしなかったはずがない。

 そんな伊月の言葉に、巧はとても楽しそうに笑いながら言った。


「あはは、俺もありませんねぇ~~」


(この状況のどこに、そんなに笑う要素が?!)


 伊月は、呼吸が乱れそうになるのを、必死で耐えた。本当は、『寝言は寝て言え』と怒鳴りたかったが、巧にそんなことを言っても、『寝言は、寝て言うから寝言っていうんですよ』と言われ、暖簾に腕押しの事態になるに決まっている。変人の巧に、伊月の嫌味は通用しないのだ。


 伊月は、ペットボトルを持っていない方の手で、胸を抑えると、心の中で『冷静になれ、冷静にだ』と唱えた後に口を開いた。


「……巧さん。では、どうやって探すのですか?」


 すると、その言葉を待っていたと言うように、巧が意気揚々と口を開いた。


「今回は、俺と一緒に探しに行きましょう!!」


「……は?」


 伊月は、思わず眉を寄せて、不審者をみるような目つきで、巧を見つめてしまった。

 ――今回は、俺と一緒に探しに行きましょう!!

 先ほど巧は、伊月に間違いなく、そう言った。これまでは、『伊月さ~~ん、これお願い』と、全てを伊月に丸投げだったのだ。『一緒に』という単語を、巧の口からこれまで聞いたことなどない。


 もう、そのセリフだけで、今回の依頼がこれまでのどんな依頼よりも、面倒な依頼だということは間違いがなかった。しかも、巧は、『~しませんか?』という提案の形ではなく、『~しましょう』と反強制的な口調で言った。


 巧の考えていることはよくわからない。しかし、巧が、無謀なことを言う人間ではないことは理解している。伊月と巧は、それなりに互い付き合いだが、巧が、これまで伊月に、不可能なことを頼んだことはないのだ。『そんな物どこにあるんだよ?!』と頭を抱えた薬草もたくさんあったが、存在はしていたし、苦労すれば、入手することは出来た。つまりこれまでは、伊月が単独で入手できる物ばかりだったわけだ。

 だが、今回は、ある程度、捜索場所の目星を付けている可能性があるが、伊月だけでは、入手が難しいので、巧が自ら同行しようと思ったのだろう。つまり、大変そうだが、入手は出来る可能性が高いということだ。


「ちなみに……どこに探しに行くのですか?」


 伊月は、こめかみを抑えながら尋ねた。すると巧は、またしても嬉しそうに口角を上げて言った。


「これから、山奥の旅館に行きます」


「……旅館ですか?」


 伊月は、巧の誘ってきた場所が、想像よりもずっと普通の場所で、ほっとしていた。

 巧が、伊月だけでは入手は難しいだろうと判断して、一緒に行くと言うほどの所なので、てっきり、テントを担いで山を登るとか、絶海の孤島を捜索するような過酷な状況を想像してしまった。


「前野部長から、今日には『モリンガ』が揃って、伊月さんの仕事が終わると聞いていたので、色々と準備してあります。すぐに行きましょう」


 前野部長とは、伊月の所属する開発サポート部の部長だ。部長には、進捗状況を逐一報告しているので、知っていても当然だが……。まさか今日から出張になるとは思わなかった。

 この部署にいれば、急な出張は珍しくない。伊月に関わらず、開発サポート部の皆は、パスポートの期限を決して切らさないようにしてるし、常日頃から家を留守にしてもいいように準備しているが、さすがに急過ぎる。

 せめて今日は帰って、ビールを飲みながら、スーパーのお弁当を食べて、明日から頑張りたいところだ。伊月は、なんとか、出張が明日からにならないものかと、遠回しに巧に伝えてみることにした。


「巧さん、私はまだ出張申請書も書いていませんし……明日、朝一で出張申請書を提出してからでも」


 伊月の言葉を聞いた巧は「ああ、忘れていました。そうですよね」と言って、席を立った。どうやら、今日の所は伊月を解放してくれるようだ。


(よかった……)


 伊月が立ち上がろうとすると、巧が満面の笑みで、伊月の前に書類を置いた。


「これは……」


 伊月の前に置かれていたのは、出張申請書の書類だった。しかも、承認印を押しているのは、通常の、部長の前野と総務部長の平野の印ではなく、二種類の『鳴滝』の印が並んでいた。ちなみにこの印は、巧の印とも違う。――ということは?

 少し考えれば、伊月には、この印が、社長と専務の印だということが理解できた。


(社長と専務の印?!)


 社長と専務の印が必要な時は、かなりイレギュラーな状況だったはずだ。伊月は急いで書類をつぶさに確認した。そして、出張期限と内容を見て、膝から崩れ落ちそうになった。


 ――出張期限、及び出張内容は、商品開発部の鳴滝巧の指示に従うこととする。


 つまりこれは、巧が『出張終わり』と言うまで家に帰れないということだ。伊月はこの部署に入る時、就業規則に急な出張にも対応可能である書かれた契約書に同意のサインをした。これは、契約内のことだ。つまりこの時点で、伊月の逃げ道は完全に塞がれてしまったということだ。


「わかりました……同行します」


 伊月が全てをあきらめて、巧との出張に同行する覚悟を決めると、巧が嬉しそうに言った。


「じゃあ、すぐに向かおう」


 巧は、古文書を箱に入れると、指紋で開く書棚の中に保管した。伊月は、部屋から出て行こうとする巧に向かって声を上げた。


「待って下さい。私は何も準備が出来ていないので、戻って準備をしてきます」


 伊月がそう言うと、巧がにっこりと笑った。


「大丈夫。全部こっちで準備するから。それに、伊月さんの持ち物で対応できるとは限らないからね」


 自分の持ち物で対応できない?! もしかして、かなりサバイバルな旅館なのだろうか? 一応、仕事で登山経験もあるので、会社から支給されているが、それでは対応できないののだろうか?

 伊月が不安に思っていると、巧が扉を開けて、野宮を呼んだ。


「野宮さん、これから同行してもらってもいいかな?」


 伊月がぎょっとしながら、巧を見た。野宮は機嫌良さそうに椅子から立ち上がると「ふふふ。もちろんです」と笑いながら、伊月に近付いて来た。


「さぁ、伊月さん、()は急げですよ!!」


 野宮は、まるで獲物を狙う肉食動物のように、舐めるように伊月の全身を見た。きっと彼女の脳内では、『善』という良いことは急げという意味ではなく、『膳』据え膳は急いで食べろの意味で変換された気がするが、気のせいだろうか?


「は? え? あの、ちょっと?!」


 伊月は興奮した野宮に引っ張られるようにして出て行った。そして、巧はその後を追いながらも、商品開発部の皆にあいさつをした。


「行こう、行こう~~じゃあ、みんな、いってくるね~~~」


 こうして、伊月は訳もわからないまま、巧と野宮に連れ出されることになったのだった。








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