第四章 魔王からの挑戦状
ギルドに不穏な噂が流れ始めた。
「魔王軍が近くの森に陣を張ったらしい」「次の標的はこの町かもしれない」
冒険者たちの間に、張り詰めた空気が満ちていく。
そんな中、ジロウはいつもと変わらぬ調子で“保険”の営業に精を出していた。
だが、彼自身も町の空に漂う重苦しさを感じ取っていた。
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その日の夕暮れ――
町外れの草原に、冷たい風が吹き抜ける。
ジロウは一通の手紙を受け取った。「夜、北の丘で待つ。――魔王セラ」
彼女の名は、既に町中で恐れと憧れをもって語られている。
若き美貌の魔王。高い知性と圧倒的な魔力で、魔族と人間を翻弄してきた存在――
そんな彼女が、わざわざ自分に会いたいと言ってきたのだ。
ジロウは腹を決め、指定された場所へ向かう。
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夜の丘に立つ少女――セラは、深紅の髪をなびかせ、闇を纏うドレスのままジロウを見下ろしていた。
その瞳は金色に輝き、どこか挑戦的な笑みを浮かべている。
「……お前が“保険”とやらの仕掛け人か?」
「そうだよ。魔王様にお会いできて光栄です」
ジロウは臆することなく笑顔を返す。
セラはその態度を面白がるように、マントを翻した。
「“安心”だの“契約”だの、人間の小賢しい仕組みが、この世界を救うと本気で思っているのか?」
「本気だよ。魔族も人間も、命は一度きり。その価値に差はないはずだ。
魔王軍にも、俺の“保険”を届けてみたい」
「――ふん、戯言だ」
セラの周囲に闇の魔力が渦巻く。だが、ジロウは一歩も引かない。
「たとえば、魔王軍の前線兵士たちにも“死亡補償”をつけてみる。
おたくの兵士さんたちが命をかけて戦っているなら、守りたいと思うのがリーダーの務めじゃない?」
「命が惜しいなら、魔王軍に入る資格などない。だが……」
一瞬、セラの目に揺れるものがあった。
「……私が守るべきものは、確かにある」
「なら、交渉成立ってことでいいかな?」
ジロウの言葉に、セラはふっと笑う。
「お前のその、底知れぬ楽観――嫌いじゃない。
だが、私の信頼を勝ち取りたいなら、この町を“安心”で満たしてみせろ。
それができたら、魔王軍との本契約を考えてやる」
「上等だ。お客様の難題は、いつだって俺の挑戦状だよ」
二人の間に、静かな火花が散った。
〈セラの想い〉
――私の名はセラ。魔王の名を継ぐ者。
力と恐怖で支配すること、それがこの世界の理だと教えられてきた。
幼い頃、魔王の城で育ち、人間や魔族の裏切りを何度も目の当たりにした。
信じる者は裏切られ、心を許せば隙となる。
だからこそ、私は誰よりも強くなければならなかった。
だが――最近、心に奇妙なノイズが生まれている。
あの“保険屋”ジロウ。
彼のもとには、いつも誰かが集い、笑い、時に涙を流しながら手を取り合っている。
“安心”だと?
“契約”だと?
そんなものは、弱者の幻想だ。私はそう信じてきた。
だが、ほんの僅かに、羨ましさのようなものを感じてしまう。
もし、私の側にもあの“光”があったなら――
魔王軍の仲間たちも、もう少し笑顔でいられるのだろうか。
(……ふん、くだらない)
自分で自分を戒める。
私は魔王、孤独を選ぶ者。だが、ジロウ――
貴様の“安心”がどこまで通用するのか、見せてもらおうじゃないか。
夜の丘に吹く風が、二人の姿を包み込む。
ジロウとセラ、それぞれの信念と矜持が交錯する――
やがて来る激動の時代への、静かな狼煙だった。