凍てついたクリスマスキャロル
すっかり暗くなったあたりを覆うかのようにひどく冷たい雪が降っていた。空を厚く灰色に染めた雲からふわりふわりと、ゆっくりと小さな結晶のかたまりが落下し続けている。石畳にその幾何学的な白が落ちては、何事もなかったかのように溶けて消え去り、溶けて消え去り、それを繰り返しているうちに石畳には雪が積もり始めた。
冷たくなり、液体から個体に変わったただの雨なのになぜここまで心を惹かれるのだろう。濃い茶色のコートに身を包まれた青年は一人街を歩きながら思った。その手には、赤いバラの花束が抱えられていた。ほとんどの家に明かりはともっていなかった。今日は聖夜だったと青年は思い出す。町はここ数年で一気に変わった。
陽気なクリスマスキャロルが町中で流れていた。
青年は適当な木のドアを見つけては、ノックをした。
「ごめんください、ごめんください」
レンガでつくられたその家からはなんの返事も帰ってこなかった。青年はあきらめてまた違うドアをたたきにいく。しかし、その家からも返事はない。青年はすこし見上げて煙突を確認すると、再び歩き始めた。
雪が降っていたが、寒いとは一度たりとも感じなかった。青年はただ淡々と気に入ったドアを見つけては叩いていった。降り積もった雪には、彼ただ一人が移動した後がまばらに残っていた。
やがて、ある一つのドアが開いて中からは太った赤いセーターをきたおばさんが出てきた。
「なんのようだい?」
おばさんの口調はやや楽しんでいるように感じた。青年はその様子を色の薄い灰色の眼で見つめながら尋ねた。
「サンタクロースがどこにいるのかしらないだろうか?」
外の冷たい風に飲まれそうなくらい小さな青年の声が響いた。
おばさんは間を開けずに答えた。
「サンタは死んだよ。なんせ、こんなご時勢だからね」
「そうですね」
青年は満足したように微笑んで、おばさんに礼を言ってから、再び他のドアを叩きに町の中心を貫く石畳を歩き始めた。
雪と言うのはたいそう不思議なものだ、と青年は思う。雪が降る仕組みは単純明快なものだが、どうにもその中には形容し難い魅力がある。雨とは、似て非なるもの。その冷たさの中には妙な柔らかさがある。
さくり、さくり、と足元から一定の間隔で音が聞こえてくる。その冷たさは、白い手のひらを真っ赤にする。屋根の下にツララを生みだす。けれど、温かさを感じるためには冷たさがなくてはならない。目の前でひらり舞う結晶たちを眺めながら彼は白い息を吐いた。その模様は自然界にしかない美しさを持っている。人には決してない、残酷な美しさ。
温かさを感じるには冷たさがなくてはならないが、いささかこの寒さは強烈が過ぎて痛いほどだ。雪は周りの色とりどりの個性を埋没させ、青年の孤独を際立たせていた。
***◆◇◆***
その頃、遠く離れていた平原でもひどく冷たい雪が降っていた。その雪はなだらかな平原の斜面に沿って降り積もっていた。平原は、針葉樹林に囲まれていた。そのモミの木たちにも雪が降り積もり、緑よりも白のほうが面積としては大きいように見えた。
雪は平等にすべてを埋没させていく。
平原の中に小さな小屋が一つあった。それは、羊飼いが夏になると訪れて、平原の草を羊たちにたらふく食わせるときに使う小屋だった。本来は、こんな冬場に使うはずがない。しかしこのときは、何故か窓から明かりが漏れ出していた。
「こんな小屋を見つけられたのは幸運ね。しかも鍵すらかかってないなんて、最高じゃない」
「お姉ちゃん、勝手に使っちゃっていいの? 持ち主は?」
「別にいいじゃない。今は気にすることじゃないわよ」
少女の言葉に少年はそういうものかと頷いた。少女は、この寒さで外に残っていたら凍死してたな、と二人で彷徨っていたら見つけたこの小屋に感謝する。数日前に見つけたこの小屋は、今や立派な拠点となった。
十三歳の少女と、七歳の少年。今やこの小屋は二人の姉弟に占領されていた。
「お姉ちゃん、寒い〜」
「そこにある藁をとってきなさい。そしたら少しはマシになるから」
少年は不満な顔をしながら藁を取りに行く。もともとこの小屋は、冬に人が暮らすことを想定して作られていない。だから、決して断熱性能は高いとは言えないし、かなり隙間風もくる。しかし、彼女たちにとって、屋根がある場所とはとても大切な意味を持っていた。
それに、この小屋の地下室には厳しいこの冬を子供二人だけで乗り切れるほどの食料が備蓄してあった。これは何よりも大きな収穫であったと言える。正直、少女にとってはこの永い冬を乗り越えられるのが不安でたまらなかったので、まさしくこの小屋は神様からの贈り物だと思っていた。
「ほら、はやくテーブルに座って」
「なになに?」
少年は少女の正面に座る。テーブルは濃い茶色の木でできた簡素なもので、傷だらけである。
「今日は何の日だ?」
「うーん。なんだろう。あ、クリスマスだ!」
「うん。大正解! いい子にはプレゼントがあります」
「え、なになに!? やったー!」
「じゃじゃーん」
少女がテーブルの下から取り出したのは、ケーキだった。と言っても、パンに生クリームを塗りたくって缶詰のフルーツを乗せただけのものだったが。
しかし、少年は目を輝かせて満面の笑みを浮かべた。少女もその様子に、思わず笑みがこぼれる。
「いつももったいないとか言って、ちょっとずつしか食べないのにね」
「今日はクリスマスだから。大盤振る舞いよ」
「やったー! クリスマス最高!」
少女は少年が喜んている様子を見て、奮発してよかったと思う。最近、少年が暗い顔ばかりしていたので、笑顔になってもらえて本当に嬉しいのだ。今では遠い過去のことになってしまった、白地に赤いチェックの模様が入ったテーブルクロスの上に、あったかいごろごろとした野菜が入っているシチューが置かれ、家族全員が席についた夕飯の光景がちらりと脳裏をよぎった。
少年が手を伸ばして、ケーキの上の桃を取った瞬間、ドアが激しい音を立てて開いた。
彼女たちが振り返った先には、五人ほどの迷彩服を着て、長靴をはいた兵士たちが立っていた。ヘルメットをかぶり、ゴーグルをつけているので、その目線は分からない。彼らは手に黒い銃を抱えていた。
少女の色の薄い灰色の瞳が、兵士の青い目を捉える。
「逃げて!!」
少女はそう叫ぶやいなや、テーブルをひっくり返した。それとほぼ同じタイミングで兵士が少年に銃を向けて、発砲した。しかし、宙に浮いたテーブルが盾となり、また少年はすでに身をかがめて窓に向かっていたため、その銃弾は誰にも当たることはなかった。
兵士の一人が乱暴な足さばきでテーブルを蹴り飛ばした。そして、再び銃口を少年と少女に定めようとしたが開けた視界に見えたのは、開け放たれた四角い窓とその中にある切り取られた青白い雪景色のみだった。
「追え!」と兵士の一人が言った。
「我らが高潔たる民族の血を汚すネズミどもを逃がすな!」と背の高いやせこけた兵士が後をつづけた。
兵士たちは入ってきたドアから、順番に少女たちを追うために出ていく。
兵士の一人が足をすべらせた。兵士が足元を見ると、つぶれてぐちゃぐちゃになったケーキが床にへばりついていた。
***◆◇◆***
少女と少年は高いモミの木に囲まれた森の中を走っていた。
白い息を吐いたそばから、その中に走りこんでいく。
まいった。今度こそは大丈夫だと思ったのに。せめて厳しい冬の間だけでも耐えたかったのに。少女は心の中で恨み言を並べた。
気がかりだったのは雲を踏んでいるかのような足の感覚だ。腹が立つほどにふわふわとした雪のカーペットに足を取られて、まともに進むことすら難しい状況だ。それに、振り返ると点々とした足跡が少女たちを整列しながら尾行していた。少女は顔をしかめる。逃走するには難しすぎるコンディションだ。ただでさえ、大人の足と子どもの足では大きなハンディキャップがあるというのに。
しかし、幸いか不幸か雪はどんどん強くなっており、今はほぼ吹雪のようになっている。視界は白い靄で遮られ、数メートル先もまともに見えない。これなら姿を隠せるだろうと安心するとともに、こんな寒さの中で、屋根もなく生きていくことが出来るのだろうかという黒い不安が少女の心の中でにじむ様に広がっていく。
「――――」
吹雪の風で聞こえない。
「なに?」
「お姉ちゃん、寒いよ」
「それくらい分かってるわよ! ちょっとだから我慢して!」
凍てついた風が少年と少女に吹き、コートの隙間から肌を刺した。
「……ちょっとってどのくらいなの?」
私が聞きたいと少女は心の中で思った。私たちはいつまでこの逃げ回る生活をしなくてはならないのだろう。私たちが何をしたというのだろう。何も悪いことはしていない。ただ、大きな一つくくりでまとめられて、迫害される。どうしてこんなことが許されるのだろうか。
モミの木の間を抜け、モミの木の間を抜け、それを幾度も繰り返した時だった。突然目の前の景色がひらけ、木が一本たりとも見えない白い台地が広がった。そこには、一つの小屋と、一人の迷彩服柄の人が立っていた。
少女の顔は雪よりも青白くなった。吹雪と数多のモミの木で完全に方向を見失い、小屋の場所に帰ってきてしまったのだ。
「探す手間が省けたな」
その一言と乾いた音とともに、少女の意識は胸に感じた衝撃とともに黒い闇に吸い込まれていった。
少年は、自分の姉が胸から赤い一筋の血を吹いて音もなく倒れ落ちる姿を見た。一瞬のうちに起きたことを理解すると、ずっと長い間走ってきてあがっていた息がさらに吸えなくなって目の前がくらりとした。
息が白い、手のひらが赤い……赤い鮮血、目の前の緑色の迷彩服、そしてその奴がいま抱えている黒色の銃。色彩がぐるぐると視界を廻る。ただ、視界のほとんどは真っ白に埋め尽くされる。
ふらふらした足取りで、少年はモミの木の森へ戻ろうとする。しかし、雪に足が取られて転んでは起き上がり転んでは起き上がりと、手を必死に動かすがうまく進めない。兵士は銃に弾を詰めながら、その姿を笑って眺めていた。
モミの木には、一匹のフクロウがいた。フクロウがひと声ないてから、獲物を見つけ羽ばたくと同時に乾いた音が再び森の中に響き渡った。
***◆◇◆***
モミの木の森に囲まれた平原には、雪が降っていた。
はらりはらりと、順番に降りてくる美しい雪の結晶は、全てを凍らせては白色に包んでいく。
平原にある小さな小屋にも雪が降っていた。
そこから少し離れたところに、一面の白の画用紙の中で目立つ二つの赤い染みがあった。その中心には、それぞれ姉弟の小さな死体が倒れていた。
雪は、彼女たちが死んだ後も非情に降り続けていた。
気温はますます下がり、彼女たちの血も凍り、肉体にも霜が降りていた。
雪はどんどん積もり、彼女たちの死体と赤を覆いつくそうとしていた。しばらくすると、赤い染みも見えなくなり、再び真っ白い無個性な静寂が広がった。彼女たちは誰かが上を通っても気づくことのできないほど深くに埋まった。
春になれば、雪が解けて再び彼女たちが地表に現れるだろう。そして、夏になれば羊飼いがやってきて、驚きとともに死体を見つけ、彼女たちを悼むだろう。
その時までは、真っ白い冷たい檻の中で彼女たちは死蝋となる。
***◆◇◆***
青年は街の端まで来ると、振り返って今まで歩いてきた道を、そして街を振り返った。雪はすでに深く積もっており、青年の一組の足跡が点在しているのが見える。遠いところでは、すでに雪が足跡をかき消そうとしていた。
青年は膝をつくと、狂ったように笑い出した――いや、正確には本当に気が狂っていた。
彼の目の前に広がるのは、秋に隣国の空爆で焼き尽くされた町の廃墟だった。そこにはもう誰も住んでいないし、屋根のある家などは一つも残っていなかった。赤いセーターを着たおばさんも、クリスマスキャロルもそこには存在しなかった。すべてはただの青年の幻覚だった。
青年の両手から真っ赤なバラの花束がこぼれ落ちた――いや、これもバラの花束などではない。真っ赤なバラの花束は、青年の恋人だったものだった。少し前に地雷を踏んでバラバラになった彼女を、青年は優しく抱えていた。
青年の笑いはピークになり、立ち上がって着ていた分厚いコートを脱ぎ捨て下着のみになった。彼は両手を広げて、空に向かってさらに大声で笑い続けた。真っ赤な彼女の腸や手足がその近くに散乱する。
青年は雪が彼の心臓を凍らすまでその場で笑い続けていた。
そして、再び世界を静寂が包む。