九十九通目 ぼくという魂
襲撃を警戒したナクタたちによって、彼らの取った宿に連れ込まれることになったぼくは、柔らかな寝台に驚いたり感動したりしている。
姉のいる宿よりも圧倒的に高級で、リビングに寝室、ゲストルームなどがついた造りになっている。この辺りの宿は単身向けはあまりなく、リュマ向けの造りが多いのだと教えられた。
高級宿には今世でも前世でも馴染みがないので、とにかく落ち着かない。下手に動いて壊したり傷つけたりしたらどうしようかと考えてしまい、リビングの椅子を居場所と決め、例の本を目的もなくめくった。地上に出たら消えてしまうのではないかと思ったが、しつこくついて来ていることに、なんだかいじらしさを感じる。
「どうした? 部屋になんかあったか?」
眠そうな顔をしたムスタに話しかけられ、ぼくは首を横に振った。
「何もないですよ。ただ、ちょっと落ち着かなくて」
「まあ、あんな騒ぎがあった後だしなぁ」
ムスタは首筋を掻きながら、視線を泳がせながらそんなことを言った。襲われたショックで落ち着かないのだと思ったらしい。そういうわけではないのだがと思いつつ、否定するのも違うなと曖昧に相槌を打つ。
「その本、消えなかったんだな」
「そうですね。意外でした」
ぼくの正面の椅子に腰を下ろしたムスタは「読んでもいいか?」というので、「どうぞ」と本を押し出した。ペラペラとめくっているが、視線が留まる様子がないので、やはり白紙のままなのだろう。
「読めるんだろ? これが」
「読めないんですね。やっぱり」
読めることを不思議がるムスタに、読めないことを不思議がる調子で答えると、ムスタは目を開いたり細めたりして凝視したあと「読めないなぁ」とぼやいた。
「何が書いてあるんだ?」
ぼくはちょっと考えて、提案した。
「ナクタにも説明すると約束しているので、その時に同席しますか?」
「改まった話なのか?」
「そう、なるかな、と思いますが。ぼくとしては、皆さんにお伝えした方がいいんじゃないかと思っています」
「聞いてもいい話なら、聞くけど。興味あるし」
ムスタが少し慎重な様子を見せる。好奇心はあるが、知らない方が良いこともある、ということを知っているのだろう。
「聞いてもらったほうがいいですね。ぼくが示せるささやかな誠意なので」
ぼくが勝手に決めた計画に巻き込まれることになってしまうのだ。罪滅ぼしになるかはわからないが、質問には答えたいと思っている。
ムスタが口を開きかけたところで、外に続く扉が開いた。
「あれ? 起きてたんだ?」
入って来たのは、ウィスクとナクタだった。魔窟にいた時と違い、寛いだ格好をしているせいか、はたまたきちんと身繕いをしているためか、随分と若く見える。
「俺は起きたとこ。んで、本の話を聞いてたわけ」
トントンと本の表紙を指先で叩くムスタの様子に、ナクタの目がスッと細められる。
「そういえば、話をしてくれるんだったな」
口調は変わらず明るいままなのが少々怖い。ナクタにはこういう怖いところが少しある。普段は明るく人懐こいところを表に出しているが、本質は別なのではないかと思わせるところ時々滲み出るのだ。
「はい。約束通り、姉の『適性証明』が発行されたらすぐにでも」
ぼくの言葉に、本を興味深そうに見ていたウィスクが顔を上げた。
「そのことだけど、明日、神殿貸してもらえることになったから、お姉さんに伝えて来たとこなんだよねぇ」
手際が良い、といえばそうなのだが、圧倒的な権力の気配を感じてしまい、心の距離が遠ざかりそうになった。ぼくたちが願ったところでどうにもならないことを、こうもあっさりと覆すのだから、力の勾配を感じずにいるほうが無理だ。
「曖昧な状態を長引かせても良くないしな」
「ありがとうございます」
顔に出ていないことを祈りながら、礼を述べる。
「グムナーガ・バガールにはクーナドまでしかいないと聞いていましたが、こんなに急でどうにかなるのですか?」
「ああ、問題ない。設備的にどうなのかと心配していたけど、今回の大潜行に合わせて色々と揃えたようだ」
なるほど、とぼくは頷いた。魔窟にいる間に、地上の様子もかなり変改していた。掘立て小屋のようだった建物も立派になり、大通りも踏み固められた土から石畳へと敷き直されていた。セルセオというひとりの人間で、これだけのことが動かせるというのが、発展途上の街の良いところなのかもしれない。
「どうか、姉をよろしくお願いします」
ぼくは椅子から立ち上がると、両膝を床につけて胸の前で両手を組んだ。その手を額につけてから、額を床につけるように上体を倒すと三人が慌てたようにぼくの体を起こした。
「何してんのさ」
怒ったようなウィスクの様子に、眉を下げる。
ぼくたちの神に祈りを捧げる時の最大級の敬意の表し方だ。ぼくにできるのはそれぐらいのことだけなのだ。
翌朝、全員が出払った部屋で、ぼくはひとり、窓辺から外を眺めていた。
神殿では、姉の『適性証明』を受ける儀式が、執り行われているはずだ。ナクタをはじめ、リュマの面々は立会人として神殿に行っている。異教徒の改宗の際は、多くの信徒が集まる方が良いのだそうだ。多くの信徒に承認され、迎え入れられる人物であるという証明のようであった。
ぼくは異教徒であるので、そこに立ち会うことはできない。
ナクタたちは気にすることはないと言っていたが、同郷の異教徒に対しての姿勢として、ぼくは同行を拒んだ。信徒であるチャムキリは気にしないかもしれないが、ぼくらのほうはそうはいかない。姉とぼくの繋がりは弱くなったことを示し、姉はチャムキリに近い者として認めさせる必要があった。
それに、ぼくが動くことで騒動が生じる可能性もある。
魔窟と違い、向かってくるモノを切り捨てて良いわけではないのが地上の難しいところだ。チャムキリであっても、地上で人を殺すのはリスクが高い。事は構えないのが一番なのだ。
派手な鐘の音が響く。正午を表す鐘にしては派手なので、きっと姉の儀式が終わった合図なのだろう。
「これで、姉さんは狙われることがなくなる」
言葉にすると身体から無駄な力みが抜けたのを感じた。胸の辺りがかすかに涼しくなったような気がするのは、使命感が居座っていた名残りなのだろうか。
これで姉は、ぼくの家族という属性よりも、聖女教の信徒でありチャムキリの一員という属性が強くなった。ぼくへの私怨で姉を巻き込もうと企む輩も、チャムキリの一員となったゼラに手出しするのは危険だと判断するだろう。
郷にいる家族については、利害関係にないので手出ししても仕方がないのだ。郷という結束の内にいるのだから、容易に手は出せないというのもある。
「肩の荷が降りたよ」
ぼくは膝に乗せた本の表をそっと撫でた。
何も選びたくないぼくが、楽になるためだけに選んだのはこの本だった。
世話を焼いてくれたナビンやニーリアス、優しくしてくれたナクタたち、前世の記憶を持つ同士であるムスタ、故郷の家族、それら全ての中から選び取ったものは、怪しい本だというのだから、ぼくというのも大概だ。
ぼくという人間には似合いだな、とも思う。
ぼくという魂は、前世でも今世でも誰とも結びつく事なく、どこか上滑りするように所在なく漂うだけなのだ。誰かを強く思うことができない。何かに強く執着することができない。懸命に生きるということがよくわからない、そういう存在なのだ。
埋められない将来の夢。空欄のままの進路表。夢はなんだと聞かれるのが苦痛だった。未来を描けないことを責められるが、どうやったらそんな曖昧なものに本気になれるのかがわからなかった。なるようにしかなれないだろう、と思うのは罪なのだろうか。
真面目に、淡々と、日々をやり過ごすことだけで精一杯なのだ。今以上を望むなら、今以上に頑張らないとならないのだろうが、頑張るなんて余力はない。いつだってギリギリだ。
恵まれた環境にあった前世ならともかく、それなりに厳しい環境にある今世であっても、ぼくはぼくの人生をどこか他人事に捉えている。簡単に死んでしまうこの世であっても、実際に死の気配を間近にしても、どきりとはすれ、強い危機感を抱くよりも諦念が表面を覆ってしまう。
望みを持つことが人間の証明なのだとしたら、ぼくは人間ではないのかもしれないとすら思う。
いつもどこかぼんやりとしている。
それがぼくという魂なのだ。




