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ラクシャスコ・ガルブ潜行記  作者: 多寡等録
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九十七通目 身支度

「上手いこと考えたもんだな。発案者は誰だ?」

 隣に腰を下ろしたニーリアスが、ぼくのほうを見ないままで尋ねてきた。

 ナクタたちは風呂作りに夢中になっている。川からの引き込みを温めるだけの話ではなくなり、小屋のようなものまで建て始めていた。周囲には見物人が集まってきて、ちょっとした祭りのようになっている。

 ぼくは一度テントに戻って着替えを取ってきてから、隅のほうに移動した。ウィスクが温めてくれた鍋いっぱいのお湯を使って念入りに足を擦っていた。

「ぼくからナクタにお願いしたんです」

 ニーリアスが何を思って『上手く』と思ったのはわからない。ぼくの言葉に、ちょっと驚いた顔をしてこちらを見た。

「そうだったのか。どういう心境の変化だ?」

 頑なに答えを出さずにいたぼくが、自分からナクタにリュマに入れてくれと頼み込んだとなれば、きっかけが知りたくなるのもわかる。なんと答えようかと考えて、ぼくは「いろいろあったので」と曖昧な言葉を口にした。

「一緒に探索に出て、思うところがあったってところか」

「そんなところです。姉のことも引き受けてくれたので」

 追求の矛先をずらすために姉のことを話題にすると、ニーリアスは「そうかぁ」と感じ入ったように頷いた。多くのチャムキリとは違い、この辺りの生活をよく知っているらしいニーリアスは、姉の境遇も一歩深く想像できるのだろう。

 姉ひとりを救ったところで、他の大多数の似たような境遇にある人を救えるわけではない。姉も、そのことはわかっているだろう。姉の環境が変わるだけで、地元の人たちの意識が変化するものではないということも。

 それはぼくについても同じことで、ナクタのリュマに入っても、ぼくはチャムキリではない。ただ少し、周囲の見る目が変わるだけだが、根本的に変わることはない。むしろ、疎まれることもあるだろう。

 自分の状態を変えることは比較的簡単なことだが、多くの人の考えや状態を変えることは容易ではない。自分たちをチャムキリの下に置いてしまったぼくらの精神は、今後長いことをかけても段差の感覚を持たなくなることはないのだと思う。それぐらいに、人は変わりにくいものだ。

「じゃあ、ソウも『適性証明』を取ることにしたんだな」

「そうですね。ナクタたちについていかなくてはならないので」

「そこは、アレのカオでなんとかなりそうな気はするけどな」

 意地悪げに笑うニーリアスに、ぼくは眉を下げて見せた。

「じゃあ、しばらくは忙しくなるんだな。お祝いに」

 苛立ったような大声が、ニーリアスの言葉を遮った。見ると、大柄の地元の男がナクタたちに向かって何やら言っているようだ。野次馬も囃し立て始めたので、何を言っているのかがよくわからない。

「チッ、うるせぇなぁ。そんなに吠えたところで伝わらないとわかってんだろうに」

「ああ言うのは威嚇の意味合いが強いですからね」

「言うねぇ。ちょっと間に入ってくるわ。乱闘になってもこっちに利はないし」

 尻の汚れを払ったニーリアスは、ゆったりとした足取りで騒ぎの中に入って行った。さりげない言葉であったが、ニーリアスはぼくら側に立っているのがわかって感心した。ちょっとしたところで、本音というものは見えてしまう。恐ろしいことに。

 皮が剥けているのだろうかと思うほどに、足からボロボロと出てくるのは垢なのだろう。そのうちなくなるはずだが、擦っても擦っても出てくる。柔らかな繊維質の葉を乾かしたのを適当に束ねたもので洗っているのだが、このままでは足りなくなりそうだ。何度も割れて、歪な形になった足の親指の爪を撫でると、なんだか急に切なくなった。情緒がおかしくなっているようだ。

「ソウ、エクエクの実、使うか?」

 機会を伺っていたのか、ナビンが片手を上げて近寄ってきた。エクエクの実は爽やかな香りと擦ると泡立つのが特徴の木の実で、主に身体を洗うのに使われる。石鹸の代わりだ。切り傷などにも使われることから、殺菌効果もあるのだと思う。

「大ごとになったな」

「そうだね。でも、便利になるし、今だけでしょ」

 先ほどの騒ぎのことを指しているのだろうと思って答えると、ナビンは呆れたようにため息をついて、笑った。

「案外大物だな、おまえ」

 そんな風に見ていたのかと驚いた顔を見せると、ナビンは笑顔を残したまま隣に座り、同じように足を洗いだした・

「仕事をするようになれば一人前とはいうが、まだまだ子どもだと思っていたのにな。いつの間にか言葉は喋れるし、交渉をするようになるしで、気がついたら抜かされているから凄いもんだ」

 年下に向かって、そんなことを嫌味でもなく言えるあたり、ナビンは集落の人たちに比べればかなり前進的な性質なのだと思う。チャムキリと接する機会が多いからなのかもしれないが、それでも素直に口にできるようにはなかなかなれないものだ。

「姉さんに会うんだろ? 上手くいきそうか?」

「もともと前向きだから問題ないと思う。どちらかといえば、兄のほうが問題かもしれないな。何も伝えなくても、この距離じゃすぐにわかるだろうし」

「それは確かにな。この歳になってくると、嫌だった年寄りたちと同じようなことを言うようになる。不思議なもんだ」

 ナビンはぼくの長兄と同い年だ。集落に帰れば顔を合わせることもあるだろう。その時のことを思い出しているのか、力強く足を擦るナビンの横顔にはちょっとした憤りのようなものが浮かんでいた。

「あんな風にはなりたくない。ならない。と言っていたのにな」

 ぼくは兄が子どもだった頃を知らない。なので、ずっと大人と同じ兄の姿しか見ていないが、ナビンは子どもの頃の兄も知っていて、だからこその憤りもあるのだろう。大人になると言うのは、どういうことなのか。本当のところを、ぼくは知らないままなのだろう。

「家族と思えば、縁も切りにくいものだろうしな」

「――そうだね」

 そういうものなのだろう。理屈ではわかっているが、ぼくの中にはそれほどの強い意識はない。ぼくに前世の記憶があるから、今世での家族に対して希薄なのかもしれないが、あの時代を生きていた、大人になりきらない人間は皆、似たようなものだったのではないだろうか。

「他人事だな。おまえの問題でもあるだろうに」

 指摘されて、ちょっと焦った。対外的には、姉と同じ状況にあるということを忘れかけていた。

「ま、おまえはまだ子どもだから、実感がないのかもしれないが」

 勝手に納得してくれたので、ぼくは曖昧に笑うことで誤魔化した。

 念入りに身体を洗い上げ、髪をなんとか泡立て、顔も丁寧に磨き上げる。長い間の汚れを落とし切る頃にはクタクタになった。一息ついたところで、ぼくはボロ布を足に巻いた。とても、靴を履く気にはなれない。

「マシになったかな?」

「ああ。サッパリして見えるぞ」

「じゃあ、行ってくる」

 ナビンはぼくの背中を叩こうと手を上げたが、自分の手が濡れていることに気づいたらしく、所在なげにゆるゆると振った。

「上手くいくことを祈ってる」

 少し迷ったが、ナクタたちにも断りを入れたほうがいいだろうと、作業をしているほうに歩いて行くと、離れたところからこちらを見ている同世代の子どもたちがいた。知っている顔もあるが、知らない顔もある。視線には妬ましそうな色も含まれていて、警戒したほうがいいだろうなとその顔を覚えた。

 先ほどの騒ぎは収まっているようだが、野次馬の数は減っていない。逆に増えているようにも思える。

 ニーリアスとムスタ、それにデラフが、地元の男と顔を付き合わせて何やら話し込んでいる。ナクタはウィスクとしゃがみ込んで、何やら相談しているようだった。

「ナクタ、いいですか」

 控えめに声をかけると、ふたり同時にぼくを振り向き「サッパリしたねぇ」とウィスクが微笑んだ。

「姉のところに行ってきます」

「そうか。手助けすることはある?」

「いえ、大丈夫です」

 ついて行くと言い出すかと思っていたので拍子抜けしたが、姉について話した情報から見知らぬチャムキリの男が同席してもいいことはないと判断したのだろう。

「予想以上に注目が集まってるみたいだから、これ持って行ってよ」

 そういいながら、ウィスクは紙に魔法陣を描くと、それを畳んでぼくに持たせた。

「困った時に使って。少しの間足止めと、姿くらましができるものだから、時間稼ぎにはなると思う。大怪我にはならないから、躊躇なく使うんだよ」

「ありがとうございます」

 流石一流冒険者といったところか。ぼくに集まる不穏な気配を察知しているようだ。

「あと、お姉さんにはこっちを渡して、部屋から出ないように。ソウの関係者だからと狙われることがあるかもしれないからな」

 ナクタから同じように畳んだ紙を渡され、ぼくはそれをありがたく受け取り、礼をいってその場を離れた。

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