九十六通目 置き土産
翌朝、早くにタシサをでたぼくたちは、これといった難関もなく地上にたどり着いた。
これだけ長いこと地下にいるのは初めてのことであったし、久々の外というのはなかなかに有り難く、気付かないうちにかなり抑鬱状態にあったのだなと感じた。
太陽の眩しさに目を焼かれるのではないかと思っていると、突然背後から抱きつかれて、ぼくは悲鳴を上げた。
「噂には聞いていたが、無事だったんだな!」
そこにいたのはニーリアスで、彼の顔を見るのも久しぶりだった。
「かすり傷ひとつありません」
「背中を押して行かせた手前、どうにかなっていたらとずっと心配してた」
再度力強く抱きしめられ、ぼくは気恥ずかしくなってその背を叩いた。ニーリアスから清潔そうな香りがしてきたのも、ぼくの気恥ずかしさに拍車をかけた。魔窟内では身体を清める余裕はない。それでも、魔物が放つ臭気のほうが強いので、自分の匂いを気にしないでいたが、こうして地上に出てみると、とても気になってきた。
「噂といえばもうひとつ。このリュマに世話になるんだって?」
わざとらしい声の大きさに、ぼくはちらりとニーリアスの顔を見た。含んだところのある表情に「そうすることにしました」とこちらも声を張り気味に答えた。
「噂は本当だったのか。さすが、慈悲深いねぇ」
「ソウは優秀な人材だ。他のリュマに取られるのを待つ気はないのでね」
ナクタがよそ行きの笑顔を貼り付けて、ぼくの肩に手を置く。
「潜行中、何度も彼の機転に助けられた。断られなくてよかったと思ってるんだ」
「へぇ、そうですか。実力のあるリュマに認められたとなれば、それだけでも仕事が入ってくるというのに。断らなくていいのか、ソウ。専属になるより稼げるだろうよ」
「まだまだ経験が足りていませんから、ナクタたちのお世話になるほうが良いと判断しました」
「若い子の判断力の甘さにつけ込んでるんじゃないだろうなぁ?」
「つけ込むなんて、そんなこと。考えることが怖いなぁ、ニーリアス」
頭上で交わされる視線は、妙に本気で恐ろしい。
ぼくがナクタたちのリュマに入ることは、フォルカーたちの口を通して広がっていったのだろう。その情報から色々と察したニーリアスは、観衆の多い場所で一芝居打ち、噂をより強固なものに変えようとしたのだろうと思う。
実際、ぼくらの周りにはいつの間にか多くの人が集まっている。ほとんどはチャムキリであるが、遠巻きにこちらを見ている地元の人間らしき姿も見える。建物の隙間のような細い路地から覗く、マビとニルダワの姿も見つけた。
彼らもぼくの噂を聞いているのだろうか。以前のように駆け寄ってこないのは、チャムキリに囲まれているからだろうか。それとも、ぼくが『名誉チャムキリ』になったと思っているからだろうか。
ぼくたちにとってタバナ・ダウは憧れの存在なのは間違いないが、一方では故郷を捨てて拝金主義者になったと陰口を叩かれている。それは成功者への妬みでしかないが、持たざる者からすれば憂さ晴らしの憎まれ役にぐらいなってくれという気持ちなのだろう。そして、タバナ・ダウのような出世をした人を『名誉チャムキリ』と揶揄するのだ。
チャムキリは憧れの対象であるが、恨めしい存在でもある。ぼくたちの間には、目には見えないけれどはっきりとした段差がある。それはチャムキリ側が望んだ段差ではあるのだろうが、ぼくたち側が作ったものでもあった。同じ階層の人間だと考えてしまうと、自分たちの境遇を受け入れられなくなるからだ。目眩しをして、違う存在なのだと思い込まなければ、生きていけないぐらいのやるせなさに襲われてしまう。
タバナ・ダウのことを話す時、チャムキリが華やかな活躍をしている時、彼らを語る、見るぼくらの目は、暗く、澱んで、粘ついた嫌悪を滲ませているんだろう。
マビとニルダワは、どんな目つきでぼくを見ているのだろうか。
「ソウ。俺はそろそろ」
ニーリアスとナクタの隙間から、ナビンがぼくの腕を叩いた。離脱の意思を伝えられ、ぼくは頷いてその手を掴んだ。
「ニーリアス。お出迎え、ありがとうございました。再開できて嬉しいです。ナクタ、ぼくたちはそろそろ離れさせてもらいます。身体も洗いたいですし」
「じゃあ、ここで解散ということで。さて、一緒に汚れ落としに行こうか」
ぼくの腕を掴んだナクタに、ぼくは間の抜けた顔を晒してしまった。汚れを落としに行こうかという言葉は、ぼくに向けられたものらしい。
「待ってください。ナクタ。ぼくらは、ぼくらの洗い場に行きますから」
グムナーガ・バガールには湯屋がいくつかあるし、高級宿には風呂場が完備されていると聞いたことがあるが、それらを利用できるのはチャムキリと一部の金持ちの地元民だけだ。ぼくらのような金のない人間は、自分で湯を用意して身体を拭くか、小川で洗い清めるのが定番である。少し懐が暖かい時には、湯屋から桶一杯の湯を買うこともある。今回はなかなかに実入りの良い仕事であったし、長期間魔窟にいたことから、湯屋から買おうかと思っていたところだ。
「ソウたちの洗い場があるのか? だったら、そっちに行くとしようか」
「いやいやいや。チャムキリの来る場所ではないです」
咄嗟に出た言葉に、周囲が少々ざわめく。チャムキリという言葉に蔑称的な意味合いはないのだが、何故だか彼らはそう言われることを嫌うのだ。
「どういう場所なんだ?」
「川、ですかね」
一番無難そうな答えを選び出すと、ナクタは大袈裟なぐらい仰け反った。
「いやいや、ソウ。このあたりの川は、水浴びしていい温度じゃないぞ」
それは全くその通りで、否定のしようもない事実だ。周囲の山々は常に雪を残しているため、標高の高いこの辺りの川には雪解けしたばかりの水が流れている。手を入れると痺れが走るような冷たさだったりするので、水浴びに向くようなものではない。川から水を引いて貯める場所を作り、少しばかり温むような工夫もしているが、気休めにしかなっていないとは思う。
けれども、ぼくらにとっては当然の環境であるから、その水を利用するしかない。
「時間をかけて使える温度にするんです。なので、とても時間がかかります。ナクタは湯屋に行ったほうがいいですよ」
諦めさせるように言うも、ナクタは渋い顔だ。
「じゃあ、ボクも一緒に行くよ」
突然名乗りを上げたのはウィスクだった。諦めさせようとしているのに、何故参加者が増えるのか、全く理解ができない。
「ナクタと協力して魔法陣を描けば、恒久的に適温になる場所が作れるんじゃない?」
「いや、そういう話ではなく」
「え? そういう話でしょ。ソウたちがいつも使ってるところなんでしょ? 便利にするのに越したことないよね?」
そう言われればその通りだ。その通りだが、それでいいんだろうかと思ってしまった。下級階層の考え方が染み付いてしまっているのかもしれない。ナクタたちの行動は施しではない。純粋な善意で作られていることを、ぼくは知っている。
ここで段差を勝手に感じて強固に断っても、得るものは何もないだろう。持たざる者は、利用できるものはなんでも利用するぐらいの太々しさが必要だ。なんなら『名誉チャムキリ』となろうとしているぼくの置き土産と受け取ってもらって構わない。
「ソウ、何を揉めてるんだ?」
ぼくの手を穏便に外そうとしていたナビンが、恐る恐るといった様子で尋ねてきた。会話を聞き取ることはできなくても、不穏さだけは察せるのだろう。
「ナビン。ぼくらが少し我慢をすれば、快適な今後を送ることができるよ」
無理矢理笑顔を作ってナビンを見れば、ナビンは引き攣った表情を浮かべた。
「洗い場が便利になれば、みんな嬉しい。いいことだね」
開き直った顔で頷くと、ナビンはぼくの顔から視線を逸らし、ぐるりと辺りを見た後、またぼくに視線を戻して、ぼくと同じような笑顔を浮かべた。
「そうだな。便利になるのは良いことだ」
ナビンも彼らが善意の人であることはわかっているのだろう。ふたりで頷き合ったあと、全く同じタイミングでため息が出た。
困るのは、本当に良いことでもあるからだ。ぼくたちの稼ぎでは、快適な洗い場を作るなんて夢のまた夢だ。身体の芯まで凍える水に身体を晒すか、申し訳程度のお湯で身体を拭くか、はたまた湯屋に桶一杯の湯を買いに行くかしかない。どれにしたって身体を清めるのが精一杯で、休めたり、寛いだりすることはできない。ぼくは前世で風呂の効能を知っているから、満足に湯に浸かれない生活は少々堪えるものがあったので、この話は迷惑とは言い切れない部分があった。
「身体を洗ったら、ソウはお姉さんを説得に行くといい。話は早い方がいいだろう? 乗り気なら、今夜は食事を一緒にするのはどうだい?」
トボトボと歩き出したぼくの横で、ナクタはウキウキと提案してくる。全くもって良案だと思って振り返ると、デラフとムスタにニーリアスまでついてきていた。
「大行列ですね」
「力仕事には人手が多い方がいいだろ?」
「露天も作ろう、露天。最高だと思うんだよなぁ」
デラフは自らの腕を叩いてアピールし、ムスタはただひたすら浮かれている。
「俺がいたほうが、何かと便利だろうと思ってな」
確かにそうだ。チャムキリの言葉を通訳できて、ぼくたちの仕事や立場を知っているニーリアスが入ってくれると話が早そうではある。
悪いことではないのだ。
自分にそう言い聞かせて、それでもぼくはトボトボと、洗い場まで歩いた。




