九十二通目 心残り
「訊いてもいいかな?」
ナクタの問いかけに、ぼくは頷いた。
「ぼくが答えられることならなんでもお話しします。ぼくにはそれぐらいしかできない」
何も返すことができないとわかっていて、ナクタに頼み事をしている図々しい奴だという自覚はある。ムスタには利用してもいいと言われているが、心のどこかにやましさのようなものはあった。
「自分の能力について知ったのは、つい最近だね?」
あまりにも確信を突いた問いに、ぼくは笑ってしまった。
「鋭いですね。まさに、今朝のことです」
ぼくの答えに、ナクタは驚いたような顔を見せたが、すぐに納得したように頷いた。
「なるほど。だから雰囲気が違って見えたんだな」
先ほど顔を合わせた時のナクタの様子を思い出し、ぼくは顔をひと撫でした。自分の顔を確かめてはいないが、一目で違いがわかるほどの変化があったのだろうか。
「それは、どうやって知ったんだい?」
「――ナクタたちと探索に行った時に、出会った本です。ムスタに聞いていませんか?」
どう説明したものかと思い、事情を多少は知っているムスタから聞いていれば良いがと名前を出してみたが、ナクタは「聞いていない」と短く答えるだけだった。
「飛ばされてしまった時に出会ったもので、最初は無意識に持ってきてしまったのかとも思ったんですが、今となっては違うことがわかりました」
言いながら目線を足下に落とすと、まるで最初からそこにあったかのように岩に立てかけるようにして本が出現していた。ぼくはそれを手に取り、表紙を撫でるとナクタのほうに向けた。
「この本です。ぼくが移動すると、勝手に近くに現れるんです」
「触ってもいいか?」
「はい。ムスタに見せた時は、白紙だと言ってましたが」
手渡した本の表裏を注意深く観察した後、慎重に数ページめくっていたが、ナクタにも何も見えないのか、途中からパラパラと流すようになった。
「オレにも白紙に見えるな。ソウには文字が見えているんだね?」
「はい」
ナクタはぼくに本を戻して、目を細めた。
「魔力を纏っていることは間違いないが、オレには白紙が綴じられたものにしか見えないな。その本に、ソウのことが書かれているのか?」
「ぼくのこと、というよりは、この本が求めている人材のこと、いったほうが正しいでしょうね」
ぼくが求めている知識が溢れるように書かれていた本なのは間違いないが、それはぼくに合わせて書かれているというよりは、本が求めている人物像と合致していたということだろうと解釈していた。
「この本が求める条件を、ぼくは満たしていた。満たしていたから、この本はぼくに読まれ、ぼくは能力を与えられた」
「与えられた?」
「はい。ナクタの想像通りです。与えられたものだから、ぼくは自分の能力を知っているんです」
今度こそナクタは心底驚いたようで、ぼくの言ったことを何度か口にして、考え込むように顎に手をやった。
ぼくは改めて、手の中に収まる本を見つめた。『主人たる者へ』と書かれているが、読んでわかったことは、この本こそが主なのだということだ。
読み始めた当初は、知りたいことが書かれている素晴らしい本だと思ったが、それは本がぼくを導くためのものであった。基礎が揃わないと会話は上手く成立しない。高度な話になればなるほど、前提条件を把握していないと内容を理解できない上に、展開にもついていけないことになる。その前提条件となる基礎を、この本は懇切丁寧にぼくに教え込んだ。
ぼくがこの世界についての基礎知識を学び、宗教についてを学び、魔窟についてを学んだところで、この本の趣旨についてがようやく開示された。それは、本のタイトルに書かれている『主人たる者』を求めているということだった。
主人とはどういうことなのか。本を所持する者を指すのか。そんなことを考えながら読んでいった先に、想像もしていなかったことが書かれていて、ぼくは驚き、けれど好機だと思ってしまった。
ぼく自身が何かを決断することなく、流されるままに生きていける方法が書かれていたからだ。
「その、能力について教えてもらえるかな」
思考の果てから帰ってきたナクタに問われ、ぼくは微笑んだ。
「もちろん。ですが、それは全てが終わった後にさせてください」
「すべて、というのは?」
「姉の『適性証明』の発行の後です」
「それが、ソウのすべてなのか?」
怪訝そうな声音で尋ねられ、ぼくは小首を傾げた。
「今のところはそうですね」
他に望むことはあまりない。せいぜいが、家族の顔をもう一度見ることぐらいだが、それも可能ならば、といった程度のもので、是が非でもという願いではない。
「地上に戻って、姉に報告して。姉が無事『適性証明』をもらえたら、それで。ぼくの願いはそんなものです」
「他にはないのか?」
「お願いが、ですか? あとは、ぼくはナクタのリュマに厄介になることになったという噂を流すことでしょうか。もちろん、姉の『適性証明』の発行までで構いません」
ナクタのところで世話になっているという噂を流し、厄介ごとに巻き込まれないようにして、姉をなんとかする手筈を整える。これだけなんとかなれば、いい。
「――そうか」
何か言いたそうに口を開きかけたナクタだったが、結局はため息をついてそれだけを言葉にした。
「では、ソウはオレたちのリュマに入ったということにしよう。フォルカーやナビンにそう伝えて、噂を広めてもらえばいいかな」
「そうですね。心配してもらっていましたから、安心してくれると思います」
「地上に戻ったあとは、オレたちと行動を共にしてもらうことになるけど、構わないかい?」
「それは構いませんが、ぼくが入れない宿泊所もあるかと思います」
「それなら野営にしよう。オレもデラフも外が好きだからな」
その他の面々は嫌がりそうだが、別行動だってできる。もちろん、ぼくひとりが野営だって全く問題はない。ナクタの言葉を気を遣っていると受け取ることもできるが、監視しておきたいということかもしれないと考えて、あえて何も言わないでおくことにした。
「お姉さんの『適性証明』発行の手順についてだけど、まずは改宗が必要になる。同時に名前をつけることになるけど、その時には立会人がふたり必要になる。ひとりはソウでいいけど、あと一人、誰か頼める人はいるかい?」
「姉を勧誘しているリュマがあるので、そこの人にお願いしてみます」
「そういう人がいるなら申し分ないけど、都合がつかないようだったら、ピュリスにでも頼めばいい」
自分がとは言わないのだなと思っていると、ナクタは申し訳なさそうに眉を下げた。
「一応、オレも王族の端くれだからね。オレが絡むとちょっとばかり大袈裟になるかもしれないから」
「それは困りますね」
目立つことになって困るのは、こちらも同じだ。できるだけ淡々と終わらせたい。
「ご家族に連絡をしなくてもいいのか?」
「事後承諾の方が穏便に済むんじゃないかと思います。両親はさほど何も言わないと思いますが、兄が騒ぐかもしれないので。姉が望むなら別ですが」
姉は二度と故郷に足を踏み入れたくはないだろう。姉に望郷の念があるのかどうかは知らないが、あったとしてもそれは幻の故郷だとぼくは思ってしまう。あくまで客観的な感想であるから、本当のところは憎らしく思っても離れ難い感傷があるのかもしれないが。
ぼくにはそういうものが、残念ながら備わっていない。ケルツェにしても、それ以前のことにしても、甘く切ない懐かしさというものが、悲しいぐらい湧いてこない。それが、あの本が望んだ資質のひとつでもあるのだが。
「じゃあ、早々に手筈を整えよう。お姉さんと立ち合いの人への説明に誰かが必要ならオレでもムスタでも、声をかけてくれれば対応するよ」
「ナクタ。本当にありがとうございます」
ぼくの口は自然にそう動いていて、ナクタは不思議そうにぼくを見つめた。
「姉のことだけはなんとかしたいと、ずっと思っていたので、それが叶う時が来たんだと思うと、本当に嬉しくて」
ムスタと姉のことを話した時にも、こんな感情になった。様々なことが遠く、実感が乏しいぼくだけれど、姉のことについてだけはいつも心が揺さぶられる。
「ナクタと出会っていなければ、もっとずっと先の、もしかしたら叶わないことだったかもしれない」
死に物狂いで金を集めても、どうにもならなかったかもしれないことだから、本当に心から嬉しいし、ありがたいと感じているのだ。
「これが叶えば、もう心残りはないです」
晴れやかな告白に、ナクタは悲しげな顔を見せた。




