八十八通目 若干の後悔
ぼくが『前世持ち』でなかったら、どんな振る舞いをしていたのだろうか。
素直に大人に従い、時に甘え、助言を受けて健やかに育っていたのだろうか――そんなことを考え、それはないなと思い直した。前世の記憶は明確ではないが、小学生の頃の自分というのが素直だった覚えはない。深淵を覗きたがる子どもだったように思う。
そう考えてみれば、どうしようもないという投げやりな解放感があった。どう足掻いてみても、ぼくはぼくでしかないのだ。前世の記憶があろうとなかろうと、ぼくはいつも無気力で、未来に希望を抱かない人間なのだ。
無理に明るい未来を手に入れようと思わなくてもいい。大体、今世で長生きできるとは限らない。むしろ、前世よりも短命で終わるほうが可能性は高いだろう。衛生的にも、栄養的にも、環境的にも、十分に有り得る。
先々のことを考えなければ、その日暮らしでも良いのだ。十分な蓄えなどなくても、どうにでもなる。当座の金がなければミヒルを拾えばいい。換金はできなくとも、一食ぐらいはなんとかなるものだ。
開いた本に意識を戻すと、魔法について書かれていた。魔法とは何かという漠然とした問いから始まり、魔窟や魔物との関係と続いていく。
魔法の元は魔素である。魔素とは魔物を生み出し、魔窟を作り上げる根本的なものだ、と記してある。魔法と魔物と魔窟は、元が同じ魔素ということになる。それはつまり、魔法の操作に長けていたり、魔力を操れる人物というのは、魔物や魔窟に近い存在になるのではないだろうか――。
ぼくが漠然と感じていた、魔法と魔窟と魔物の微妙な関係について掘り下げるような内容になっていて、冷や冷やしつつ、これを書いた人物は何者なのだろうかという疑問が過った。
多分、この本自体が魔素から生じた何かなのだろうと考えている。
ムスタには文字が読めないようであるから、所有者として認められた者だけが読めるような魔法や魔術、または魔物的な存在なのではないだろうか。
日本語で書かれていることから、著者が『前世持ち』の可能性があるのではないかと考えているが、単にぼくの脳の言語野から適応するものを引っ張り出しているのかもしれない。
何にせよ、魔法なり魔術なりをよく使う者が書いたのは間違いないだろう。
そういえば以前、ムスタが『ウィッカ』という種族に言及していたのを思い出す。人間よりも長命な種族で、研究に勤しんでいる存在だったような記憶がある。そういう存在ならば、こういうものを生み出すこともできるのだろうか。
そんなことを脳内で色々とこねくり回してみたものの、ぼくの気持ちが逸れることはなく、心の中心に巣食ってしまった一文が思考の裏で繰り返し主張していた。
――魔法の操作に長けていたり、魔力を操れる人物というのは、魔物や魔窟に近い存在になるのではないだろうか――。
魔法の操作に長けているといえば、ウィスクとピュリスであるし、ナクタは魔力を操れるという。ならば彼らは魔物や魔窟に近しい存在ということなのだろうか。
そのナクタが言った「ソウのほうが凄い」という言葉。
ぼくは、彼らよりも魔物や魔窟に近い、ということなのだろうか。
ぼかし続けていたその考えが脳の中で形を持つと同時に、ぼくに触れる空気が形を持ったかのような感覚に襲われた。
ゾッとして飛び起きる。
周囲を見回すが、当然、何もいない。
だというのに、首筋に、こめかみに、何かの息遣いを感じたような気がした。
ぼくは恐ろしいものを投げ捨てるように、手にしていた本を隅のほうに放り投げた。ひとりでいることが恐ろしく、ナビンの元に足早に近づくと、彼は驚いた様子で「どうした」と尋ねてきた。
「いや、なんでも。ちょっと、嫌なことを考えてしまって」
ナビンの顔を見ても、固くなった空気が首の辺りに漂っているような感じがして落ち着かない。
「急に重大なことを考えることになって、気持ちが追いついていないんだろう」
ナビンの慰めに頷きながらも、追い立てられるような不安感が足元から這い上ってくるようだった。
「ムスタのところに行ってきてもいいかな」
考えようにも材料が足りないということに気づき、材料を揃えるためにはムスタに確認しなくてはいけないことがあると思い至った。
ナクタに誘われた時にきちんと確認すべきだったのだが、無意識に心が拒否してしまったがために、曖昧なままになっていることがある。
「どうせ暇だからな。しっかり相談に乗ってもらえ」
ナビンはぼくがムスタに助けを求めようとしているのだと思っているらしい。ちょっと苦笑しながら頷いて、ムスタのテントへと向かった。
歩いてみると、タシサが少し広くなっているような気がした。テントの何張りかが解体されているからだ。あちこちから荷物の所在確認の掛け声が聞こえる中を足早に抜けて、見慣れたムスタたちのテントの前に立った。
「ムスタ。ソウです。話があってきました」
声をかけるとすぐに顔を見せたのはデラフだった。ぼくを見つめると、両手で挟むようにぼくの肩を叩いた。
「中にいる。入ってくれ。俺はちょっと出てくる」
出かけるところにやってきてしまったのだろうかと思いながら中に入ると、ムスタはかけていたゴーグルを首に下げてこちらを見た。
「来てくれて良かった。こっちから出向いてもゆっくり話ができるかわからなかったから、迷ってたんだ」
手招きして、土を固めた椅子の上にぼくを座らせたムスタは、手のひらに乗るぐらいの紙包みを手渡してきた。
「ドライフルーツだ。食べながら話をしよう」
日本語に切り替えたムスタに、ぼくは頷き、包みを開けながら尋ねた。
「確認したいことがあってきました。この間の話ですが、ムスタやナクタはぼくと魔窟の相性がいいと言いましたよね」
「言ったね」
「それは、ぼくが魔力を操れるから、ですか?」
チラと視線を向けると、ムスタは疲れたような顔に微笑みを浮かべながら頷いた。
「うん、そういうことだね。魔力については俺はあまり詳しくないから、ナクタから聞いた話になるけど、ソウは一緒にいる人の魔力を上げる能力があるらしい」
「魔力を上げる、というのは上限を引き上げるという意味ですか?」
「ああ、いや。分け与えるという方が正しい、かもな。ナクタの能力が他者に魔力を分け与えるだから。ソウはそれに似ているけど、仕組みがちょっと違うんだとか」
目元を揉んだムスタは、卓の上からドライフルーツを摘むと口に投げ入れた。
「ナクタの場合は、ナクタ自身の魔力を、ナクタが思う相手に分け与えるんだ。だから、ウィスクに渡すかピュリスに渡すかを選んで、渡している。けど、ソウの場合は近くにいる全員に分け与える、というとちょっと違うが、まあ、そういう感じなんだ」
「ちょっと違うというのは?」
そういうところが肝心なのだと聞き返すと、ムスタは戸惑うことなく返してきた。
「分け与えるというより、流す、みたいだな。これはナクタとピュリスとウィスクの三人の意見だが、ソウ自身に魔力があるわけではないらしい」
言ってから、あっというように口を開け、気まずそうな顔をしたムスタに、ぼくは首を傾げた。
「いや、魔力がないとか、凹むよなって思って」
「ああ、いえ。それは別に。お気遣いなく」
理由を理解して、苦笑した。異世界に転生したとなれば、特別な能力を期待するものなのかもしれない。その心理はわからないではないが、ぼくは霞のように生きていきたい人間なのだ。
「魔力がないのに、どうやって魔力を流すんです?」
「魔窟の魔素を集めて、魔力に転換して、周囲に流している、ということらしい」
「魔素と魔力は別のものなのですか?」
「うーん、そこが難しいところで、同じとも違うとも断言はできない。けど、人が放つ魔法は魔力によって作られるもの、らしい。魔核は魔素の塊のようなものだけど、あれを砕いたり食べたりしたところで人の魔力が上がるということはないと言われている」
魔法と魔物と魔窟は元が同じと書かれていたのだが、とは思ったが、本の内容について口にするのは憚られた。あの本は読み手を選ぶのだ。その理由を考えてみれば、不用意に口にしていいものとは思えなかった。
「魔力についてわかっていることは少ない。解明されたくない層もいるし、無体な実験をするわけにもいかないしで、研究があまり進まない分野なわけよ。魔力がない人でも便利な道具を使えるようにする魔導具師を煙たく思う層もいるしな」
なるほど、と、ぼくは頷いた。
想像するに、魔力があるというのは秀でた能力があるということになるのだろう。それだけで、地位が上がるぐらいの価値があるのかもしれない。特権を持っている側が、それを手放そうとは思わないというのは、どこの世界でも同じことだろう。格差が生まれることを、喜ばしく思う人々もいるということだ。
「でもまあ、魔素を魔力に変えて他者に渡すことができるなんてのは、見たことはないから希少なのは間違いない」
真顔のナクタに、ぼくは漏れそうになるため息を飲み込んだ。
あまり喜ばしい展開ではない。希少な存在といわれたストレスで胃が荒れそうだ。
ナクタはぼくに選択の余地があることを匂わせたが、本当に余地があるのか怪しく思えてくる。珍しい上に有用な存在を、みすみす見逃すものなのだろうか。
聞かなければ良かったと、若干の後悔が心の底を暗く染めた。




