八十七通目 未来という無情
撤収が確定したことにより、タシサの中は先日よりも騒がしくなった。ジーノたちのこともあり、探索しようとするリュマもいない。
ぼくとナビンはできる限り食材を使い切ることに専念することとなった。
とはいえ、一気に消費するのは難しいので撤収するリュマに弁当を渡すことにした。五層を越えるまでの一日分の食事があった方が便利だという提案があったからだ。
六層に到達しているリュマは運搬用の魔導具を全員持っているので、食材の傷み具合などを考慮しなくても良いのが便利だ。五層の寒さに耐えられるような、暖かな食べ物が良いだろうと話し合った。
奥のタシサから撤退していくことになっていて、ぼくたちは最後。ナクタたちが連れ戻ってくれることになっているらしい。完全撤退には五日以上はかかるだろうと推測されていた。
その間、ぼくとナビンは料理を作る以外はこれといってすることがない。リュマが撤退してしまうまでは、テントをたたむこともできないからだ。
「フォルカーと随分話し込んでいたな」
暇になると、ナビンが尋ねてきた。ずっと気になっていたのかもしれない。
ナビンがチャムキリの言葉をどれぐらい把握しているのか、正確なところはよくわからないが、会話ができるほどではないのは確かだ。知っている単語は拾うことができるぐらいだろう。ぼくとフォルカーの会話を隣で聞いていたとしても、ほとんど理解できないのだと思う。
「地上に戻るまでに、将来どうしたいのか固めておけって言われた」
ざっくりとしたことを伝えると、ナビンはため息をついた。
「確かに、フォルカーの言う通りだ。今のソウは俺よりも六層のことを知っている」
「今まで通りというわけにはいかない?」
「いかないだろうな。大人よりも子どものほうが組みしやすいと狙う奴らも多いだろうし、安く済まそうと考える奴らもいる」
今回の潜行で集められたリュマと一緒にいると忘れそうになるが、冒険者というのは善なる存在ではない。いい人もいるが悪い人もいるというのは世の常だが、冒険者に限っていうなら悪い人の方がずっと多い。
現地人で子どもなんていう存在は彼らにとってはカモのようなもので、できることなら無料で利用できないだろうかと考えているのが透けて見える。実際、冒険者に憧れる現地の子どもが荷運び係として無料で利用されるなんてことはよくある話だ。
「一番いいのは後ろ盾を持つことだが、そのあたり、どうなんだ?」
「どうというのは?」
宛はあるのか、ということだろうか。あるといえばあるし、ないといえばない。
「後ろ盾を持つということは、自由は制限される。というのはわかるよな?」
ナビンの言葉に思わず眉根に皺が寄った。ぼくが何かと決めかねている理由は、綺麗な言葉でいうならナビンの指摘した通りのことだからだ。何かを選べば、何かを失う。それが何とも息苦しい。
「わかっちゃう?」
「そうなんじゃないかと考えていた」
ナビンは地面に視線を落とし「俺も親父に言われたことだが」と話し始めた。
「未来があると思える人間は決めることが下手なんだそうだ。『今時の若いもんは、必ず明日があると思っていやがる』ってのが親父の口癖でな。明日があると思っている。それはその次の日も、またその次の日もあると思っているから、決めてしまうのが惜しくなる」
ドキリとして、ぼくは自分の指先を見つめた。何だか、心の底を暴かれているようで、落ち着かない。
「その言葉の意味が、最近わかるようになってきた。親父の時代に比べて、俺たちはかなり裕福になった。明日食べるものをどうするかで、大きな決断をしなくてよくなった」
大きな決断のところで、ぼくは数十年前にあった雪崩の話を思い出した。その年は雪崩が多く発生し、飲み込まれた集落もあったらしい。また、夏に大きな地震があって氷河が崩れて大地を攫ってしまったのだという。食べ物が押し流され、大地が荒廃し、三年近く食料が安定しなかったそうだ。
そんな究極の状態での「明日食べるもの」の「大きな決断」というのは、かなり最悪なことを想像してしまう。
「今日と同じ稼ぎを、明日もできるだろうと考えている。それがあと何年も続くと、どこかで信じ込んでいる。だから、思い切った決断をしなくても良い。未来を確定させずとも、生きていくことができると思い込んでいる」
その通りだ、とぼくは思った。ナビンの言う通り、選ばなければ選ばないままに未来に押し流されていけると思っている。思っていたい。信じていたい。
「俺には丈夫な身体がある。だから、明日も同じようにやっていけると思っている。でも、俺にはあと二周りしかないともいえる。残りが見えてくれば、選ばなくてはならないことも出てくる。妻を持つか。家族を持つか。家族をどう養っていくか。そんなことを決めていかなくてはならない」
ぼくにはぼんやりした話だが、ナビンには差し迫った話なのだろう。
「二周りのうちに、家族を持って、グムナーガ・バガールに家を持とうと考えたら、俺には丈夫な身体しかないことに気づいた。この身体が満足に動くうちに、家を買う金を用意して、子どもたちにマシな生活をさせてやろうと思ったら、今までのように働いているだけじゃダメだと気づいた。だから、今回、六層に入ったし、取りまとめのような真似もした」
期限が見えたから決断したということなのだろう。確かに、期限を切っていないと好きなことであっても達成するのが難しいとはよく聞く話だ。
「ソウは俺に比べて先がまだあるし、できることも多い。何かを決めてしまうのは早すぎると思うのはわかるし、実際早いとも思うが、どうも流れがそうはさせてくれないのは、当人じゃない俺でも感じる」
ぼくは何も言えず、胸がジクジクするのを感じていた。息苦しくて、不快。じっとりとした痛みもあって、ただただ気が滅入る。
「シュゴパ・ナクタに相談すれば、後ろ盾にはなってもらえるんじゃないか?」
ナビンの目にはどう映っているのだろうか。提案は最もなものであったが、ナクタに頼るにしても答えのひとつを決めなくてはならなくなる。
「色々ありすぎて、頭の整理が間に合わない」
正直に告げると、ナビンは立ち上がってぼくの肩を撫でた。
「本当は、カルゼデウィの元で答えを出すのが良いんだろうけど、そうもいかないからな」
信仰の対象である山が見える場所で答えを出した方がいい、という言葉がある。健全な状態での選択がより良いものだといったことなのだろうが、生憎とここは地下も地下、魔窟の中だ。
「しばらくは暇だろうから、ゆっくり考えたらいい」
ナビンに促され、ぼくはよろめきながら寝台に向かった。本当は完全な密室で考えたいところだが、そんな場所はここにはない。完全に独りになるのは難しいものなのだ。
靴を脱がないまま寝台に仰向けで寝転がる。頭の中がうるさすぎて、考えに耽ることが難しい。
上に戻るまでに、ナクタたちの提案を受けるか、それとも別の道を模索するか、それだけは決めておかないとならないだろう。上に戻れば姉のことで多少色々なことがどさくさに紛れるんじゃないかと期待をしてはいるが、一番最後に戻ることになるから、下手をしたら噂が広がりまくった後になるかもしれない。となれば、やはり、ある程度の身の振り方は決めておかなくてはならないだろう。
難しいことを考えないのなら、ナクタたちに身を委ねてしまうのが一番楽なのかもしれないと思う。彼らは力があるし、自分で立とうとしなくても上手い方向に流してくれそうに思えた。
ナクタたちと行くのなら、ナクタたちとともにいてもおかしくないぼくを演じなくてはならないのだろう。
人は意識していても、いなくても、その場に相応しい人間というのを演じているように思う。その場に釣り合う人間でなくては浮いてしまうし、演じられなくなればその場にはいられなくなる。
僻地出身の年若い荷運びの少年として、求められる振る舞いはどんなものだろうか。健気で、努力家で、生真面目で、素直。そんな感じを求められそうだ。優秀で、気遣いができれば最高といったところか。
そう考えると、気が重くなった。別に、大幅にズレた内面性を持っているわけではないが、そういう自分として生きていく覚悟が今のところ希薄だ。
明日があると思うから決断しなくなるのだというナビンの父親の話もわかる。ナビンの父親は、それは甘い考えだと言いたいのだろうと思う。究極の選択を迫られる人生を送っていたら、決断の先延ばしをしたら明日は来ないこともあると言いたいのだろう。
けれど、それとは逆の不安が、ぼくらにはある。先が長いと思うと決めてしまうのが不安になるのだ。もし決めた道の先に何もなかったら。続くと思った道が途絶えていたら、捨ててしまったものを拾い集められるのだろうか、という漠然とした不安があるのだ。
ぼくは大きくため息をつき、寝返りを打った。よくない方に思考が動きそうになっている。ふと思い出して荷物を漁り、例の本を取り出した。
逃避するためには、別の何かを入れるのが手っ取り早い。自分以外の考えに乗って、自分から離れるのが今のぼくには必要なことに思える。
「どこまで読んだんだったか」
読んでみればどのあたりかわかるだろうと、適当なところを開き、文字を目で追った。
感傷的なことは書いていないのに、何故だが涙がこぼれ落ちる。ぼくの意識とは別の、ぼくという存在がいるような気がした。そのぼくの心が、限界にあるように思えて、なんだか申し訳のない気持ちになった。




