八十五通目 猶予
目が覚めてみれば、周囲はまだ薄暗かった。
このタシサには地上の太陽の動きが投影されるので、まだ夜は開け切っていないということなのだろう。周囲は不自然なほど静かだが、昨夜の騒ぎの反動なのだろうか。
隣の寝台にはナビンが丸くなって眠っている。ぼくが起き上がっても反応しないということは、かなり深い眠りの最中にいるのだろう。眠りにつて最初のノンレム睡眠なのかもしれない。
ぼくは身体を伸ばすと水場に行き、湯冷しを飲んだ。口の中はひび割れそうなほどに乾いていたので、何の変哲もない水なのに舌の付け根や喉奥に染みた。
夢の余韻が頭の芯に残っていた。
懐かしい教室に差し込む光が、埃っぽい空気にキラキラと煌めいていた。
もうしばらく太陽を見ていない。魔窟に入ってどれぐらいになるのだろう。
散り散りになる思考もそのままに、ぼくは鍋に水を汲み、湯を沸かした。それがいつもの朝の支度だからだ。考えなくとも身体が動くようになってきた。良い仕事人になってきたのだと感じる。
火の番をしながら、自分の分のツォモ茶を淹れた。カルゼデウィは見えないが、あの稜線は目の奥に焼きついている。
夢の内容はしっかり覚えていて、どういう意味があったのかと探ってしまう。夢占いの知識などないが、そんなものに頼らずとも昨夜の夢には意味があるのは明らかだ。
前世の友人である柴は、ぼくとは真反対の人間だった。やる気に満ち溢れ、前向きで、粘りつよい男だった。その柴をどんな思いであの頃のぼくは見ていたのだろう。
呆れ、妬み、冷笑。柴の話には、そういう感情が加わることが多かった。
やりたいことがあって、それに向かって前進しているように見えて、行動力もある人物に対して、何もしない、できない人間はそんな感情を持て余す。
自分を『普通』に置きたいと願う人が多いから、感情の擦り合わせのように、嘲りの言葉で確認し合うものなのだ。あれは『普通』じゃない、と。
ぼくにそういう気持ちが全くなかったかといえば、あっただろう。やりたいことが決まっているというだけで、羨ましかった。大変だと語る言葉すら、優越感から出たものなのではないかと勘繰ってしまうぐらいに。
だが、それ以上にぼくは柴が眩しかった。
困難にも笑って、武勇伝になるかもとおどけて、圧倒的に先を行く人たちの近くに自分を置いてみられる。そんな視点を持っている柴が、本当に眩しかった。
ヒーローとまでは言わない。夢を叶えたわけでもなかった。それでも、胸を掻き立てるような力を持っている男だった。
その柴が夢の中で語ったこと、語らせたことには、絶対に意味があるはずだ。
回転しかける脳を、ぼくはため息で止めた。
なあなあで生きていきたいと思っているのに、何故真面目に考えているのだろう。こうして頭をフル回転にしなくてはいけないこと自体、ぼくの望んでいることではない。
夢に見るまでに追い詰められている、と思うと、なんだか自分が可哀想になる。
今の仕事だって、やりたくないことではない。選択肢はそう多くないけれど、その中ではなかなかやりがいのある仕事だと思う。
楽ではないが、楽である必要もあまり感じていない。そもそも楽とは何なのか。身体的負担がないことが楽という傾向があるが、頭脳や精神を使う方がキツイことだって多い。
この仕事は、漫然と生きていければいいと思っているなら、精神的負担は低い方だ。命の危険とは隣り合わせであるから、負担が少ないというと語弊があるかもしれないが、しがらみは案外少ないように感じる。嫌なリュマとは一度限りで手を切れるし、揉め事に巻き込まれることも少ない。
そう考えてみれば、本当に、悪い仕事ではないのだ。
学校という空間で、一年顔を突き合わせているだけでも気が滅入ってくるぼくの性格的には、十年も二十年も変わらない面子で過ごす方が苦痛のような気がする。少なくともサンガのような事務仕事中心の業務は不向きだと思う。
ぼくらの価値観からしても、荷運びをやっているよりサンガで働いている方が上級であるような印象はある。肉体労働者の対価を決めるのが、頭脳労働者であることが多いせいだろう。実際に、ぼくたちよりもサンガに勤めている人の方が、楽に金を稼いでいるのかもしれない。
だが、その楽というものが、ぼくにも適用されるかといったらかなり疑問だ。ナクタにしたって、神殿とやらで偉そうにしているほうがずっと楽だろうに、魔窟に入っているのだから、楽かそうでないかは個人差もあると思うのだ。
また、色々と考えている。
暇なのがよくないのだろう。もっと忙しくなれば、考えずにいられるのに。
この時ほど、早くみんな起きてこないかと願ったことはなかった。
「お茶、もらえるかな」
身支度を済ませたウィスクが現れたのは、顔の判別ができるほどの明るさになった頃だった。ナビンはまだ起きてくる気配はなく、タシサの中も微かに物音がする程度だったから、まだ早い時間だ。
昨日の今日でぼくは少し緊張したが、ウィスクはこちらの気持ちを察しているのかいないのか、眠そうな様子もなく腰掛け用の岩に跨った。
「ナクタとピュリスとボクで、あの子らを送っていくことになった」
あの子らというのはジーノたちのことだろう。ジーノだけでなく、リュマ全部を連れて行くというのは少し意外だったが、仲間が石化したというのは彼らの心に大きな傷になったのだろう。
「今日ですか?」
「そ。今から」
判断が早いなと思ったが、想像していたよりもずっと早かった。今からとなると、ジーノたちは満足に休めていないのではないだろうか。
「体力があるうちに戻ったほうがいいって、フォルカーが言ってきたんだよ」
ぼくの質問を先回りするように、ウィスクが言った。
「興奮した状態のまま戻ったほうが安全だろうって。ま、その考えにはボクも賛成だけどさ」
「そうなのですか?」
「命の危機に直面した後って、しばらくは興奮状態が続くんだけど、ふと冷静になると色々と問題点が浮き彫りになっちゃって、険悪になることが多いんだよねぇ」
そう言われると覚えがある。合点がいったぼくは「なるほど」と頷いた。
命の危機に瀕した直後はそれを回避した喜びが大きく、心が麻痺したり、英雄的な気分で盛り上がっていることが多いが、だんだんと気持ちが落ち着いてくると問題追及の流れになってくる。
反省会ぐらいで気持ちが切り替えられるのなら良いことなのだが、行き過ぎると仲間割れとなる。地上で絡れるなら危険はないが、魔窟でそうなると目も当てられない。連携が取れない烏合の衆など、魔物にとっても悪者にとっても格好の餌食だ。人間は出すものを出せば手加減してくれることもあるだろうが、魔物はそうはいかない。最悪、死ぬことになる。
「なんせここは六層で、あの子らは経験が浅そうでしょ。地上に戻るまで興奮が続いてるといいんだけど」
ぼくがいつも歩いている浅層であればすぐに戻ることはできるし、他のリュマに助けてもらいやすいが、ここは現時点では最深層だ。リュマの出入りは少ないし、戻るにも時間がかかる。
「地上まで送り届けるのですか?」
「そのほうがいいだろうって、フォルカーが。あの人、ホントいい性格してるよねぇ」
いい性格と性格がいいではかなり意味合いが違ってくるように思うが、その表現で合っているのだろうかと表情を作りかねていると、ウィスクはニヤリと笑った。
「若者の心を折ってやれってことだよ」
思いがけない言葉に、ぼくは大きく瞬いた。
「え、どうしてですか?」
「今回のことは無鉄砲に過ぎるからねぇ。大きな事故もなくここまで来ちゃったっぽいから、実力の差を見せつけて、冷や水かけてやれってことみたい」
クククと喉で笑うウィスクは楽しそうだ。ぼくはジーノたちに心の中で悔やみの言葉を送った。
ウィスクとピュリスの動きを見せつけられたら、若いリュマの心はボッキボキの複雑骨折間違いなしだ。ジーノたちのような、若くて、勢いがあるリュマは調子に乗りやすい傾向にあるから、ここで気持ちを挫くのも優しさというものなのかもしれないが、なかなかに酷だ。
とはいえ、タシサ全体を巻き込んだ騒動になったのだから、それぐらいの反省は必要なのかもしれない。
「まあ、そういうわけで、ちょっとの間留守にするけど、デラフとムスタはいるから、何かあったら声かけてよね」
ジーノたちを地上に送り届けた後、戻ってくるつもりのようだ。
「はい。お気をつけて」
水筒に詰めたツォモ茶と甘い菓子を渡すと、ウィスクは嬉しそうに笑って去っていった。
彼の姿が見えなくなってから、ぼくは大きく息を吐き出して思った。返答までの時間ができてしまった。それが嬉しいのか、嬉しくないのかもよくわからない。
ただ、すっきりとしない気分がもうしばらく続くのだろうと思うと、少しばかり気が重くなった。




