八十四通目 柴翔太
「おい、プリント」
ハッとして顔を上げると、柴が怪訝な顔をしてこちらを見ていた。半袖のシャツに真っ黒に焼けた肌。柴は真冬でも半袖で過ごそうとする変わったヤツだったので、今の季節が夏とは限らない。
「懐かしいな。こういう夢ってなんていうんだろう。走馬灯とは違うよな」
言葉にすると、それまで聞こえていた周囲の喧騒はどこかに消え去り、教室の中には柴とぼくとふたりだけになっていた。
夢というのはいつも不可思議で自由だ。
何故今になって、柴や教室の夢など見ているのだろうかと不思議になった。進路に窮していたあの頃と今の気持ちが同じだからだろうか。
「それで、進路は決めたのか?」
「全然決まらないままだよ。柴は山だろ?」
「そうだなぁ」
答えが分かりきったことを聞いたはずなのに、柴は少し迷うような様子を見せた。
ぼくは柴の反応を不思議に思い、首を傾げた。これがぼくの夢ならば、柴は「もちろん」と答えるはずだ。何故ならぼくにとっての柴は目標がはっきりした男だったからだ。ぼくのように何も決められず、霧もないのに迷っているような人間ではない。むしろ、柴が他のことを考えているなんて、ぼくの想定にはないことだ。
「憧れたのは登山家だけど、俺がしたかったのは本当にそれなのかって」
あの柴が、そんなことで悩んだことがあったなんて思いもしなかった。ぼくが知る中で、もっとも迷いがないのが柴で、目標に突き進んでいるものだとばかり思っていた。
「他に、したいことがあったってこと?」
夢だとわかっているのに質問している自分に可笑しみを覚えた。
予想外のことを口にしたからといって、目の前にいる柴はあくまでぼくの記憶から作られた存在であって、実在するものではない。現実の彼は、ずっと昔。ぼくが生まれ変わる前の、遠い過去に志し半ばで亡くなってしまったのだ。
「初めてが欲しかったんだと思うんだよな」
「初めて?」
「前人未到、ってやつだ。俺より先に行ったヤツがいないところに行ってみたいって願望が、あったんだと思うんだよな。別にジャングルでも良かったのかもしれない。ま、今にして思えば、だけどさ」
柴は教室を懐かしむような眼差しでみていた。こんな顔をして周囲を見るようなヤツではなかったはずだ。ぼくの懐かしい気持ちを、彼が代理で表しているのだろうか。
「そう考えると、こっちはいいよな」
柴が夢見るような顔で言った。
「前人未到の地が山ほどある。手垢に塗れてない、真っ新な新雪に足跡を残せるなら、テッペンまで行けなくても幸福かもな」
なるほど、とぼくは思った。柴はセルセオのようになりたかったのだ。ラクシャスコ・ガルブの七層目を最初に発見した人物。そういうことをしたかったということなのだろう。
確かに、それは難しかったかもしれない。ぼくたちが育った時代には、地球上の最高峰はすでに制覇され、八千メートル級十四座も制覇されていた。残るは冬季登頂記録だけで、高校生の頃にガッシャーブルムが冬季踏破され、残りは片手で足りるほどしか残っていないと柴が言っていた。
最も難しいのはK2だろうから俺が――柴の言葉が今更ながら蘇り、あの頃すでに前人未到を破る夢を語っていたのを思い出した。
「ぼくじゃなくて、柴がここに来れたら良かったのに」
ぼくの代わりに柴がこちらに転生していたら、きっと今頃セルセオと競っていたのだろうと思う。それより先に、カルゼデウィに挑んでいただろうか。とはいえ、カルゼデウィは信仰の対象なので、登るなんてことは許されないだろうが。
「楽しそうだよな」
「柴ならね」
ぼくは苦笑した。柴のようなことを考える人がそれなりにいたから、地球上の最高峰は踏破されたのだろうけれど、皆が皆、踏破したいと思うものではない。もちろん、ぼくも望んではいない。
「大体、登る理由がないし」
「『そこに山があるから』」
「『月が綺麗ですね』ぐらい出自不明ってヤツだろ、それ」
ぼくが笑うと、柴は何故だか眩しいような顔でぼくを見た。
「魔窟なら違うだろ。理由がいくらでも用意できるじゃないか」
柴の指摘に、ぼくはどきりとした。山とは違い、魔窟とはすでに縁ができている。だから、柴の言うとおり、理由はいくらでも用意できるのだ。
「そして、周囲もそれを望んでるんじゃないか?」
その言葉に急に身体が重くなった気がした。他者からの期待はぼくにとっては重荷にしかならないのだと、痛感する。
「望まれても、ぼくには荷が重いよ」
柴は棒状に束ねたロープを中空に放り投げて、キャッチした。
「蒼は昔からそうだよな」
呼ばれて、あの頃のぼくの名前を思い出した。ぼんやりしていた教室の文字も、妙にはっきりし始める。窓から見えていた、イチョウの木の場所まで思い出したことに驚く。
「興味がないこともすぐに覚えるし、好きでもないことも続けることができる。目標や目的がないのに成績も優秀で、学校にだって毎日くる。それって、思ってるよりもずっと才能だと思うぜ、俺は」
「そんなことないよ。ぼくはただ、やりたいことがないだけだ」
やりたいことがないから、やれることをやっているだけだ。柴のように無理をしても成し遂げたいものもないし、合わないからといって辞めることもできない。与えられた環境に、できるだけ適応することしかできないのだ。
「ならさ、期待に応えてみたらいいんじゃないか?」
思ってもみないことを言われ、ぼくは柴を見つめ返した。
「自分の意思がないならさ、周囲の意思に流されるのもいいと思うんだよな」
「そんなこといって、犯罪者の道に進んだらどうするんだよ」
「さすがに善悪の判断はできるだろ? 別に自分の意思で歩くだけが人生じゃないし、案外期待されたものになってる人も多いんじゃないか?」
そんな人がいただろうかと、出会った人たちの顔を思い浮かべていると、柴は再びロープを放り上げた。
「そんなに難しいことじゃなくてもさ。教師は教師っぽくしてるし、親は親っぽくしてるだろ。あれは求められる役割になってるってことだろ」
そうなのだろうか。確かに、教師は教師らしく、親は親らしくあった。こちらでもそうだ。集落の長はどこも似たような感じであるし、リュマのまとめ役も似たような立ち振る舞いをする。
「周囲に夢を見させてやるのも悪いことじゃないと思うぜ。俺も、似たようなところはあったしな」
「意外。やりたいことしかやらないタイプだと思ってた」
「そうなんだけどさ。でも、柴はそういうヤツだよな、っていうのを演じてた部分もないわけじゃない。周りに夢を見させるのも、俺がやりたいことには必要なことだったからな」
エベレストの登頂には一千万近くの金が必要になる。個人で用意するには時間がかかるから、スポンサーを探さないとならない。そんな話をよくしていたのだ。
「実績と人脈。それに、大衆ウケする物語。これが揃ってないとスポンサーは付きにくいんだよな。いかに周りに夢を見させて、金を出す価値があると思わせるか。そのためには周囲が期待するような個性が必要だと思ってたんだ。こいつを見ていれば夢を見させてもらえそうだ、っていう予感が金に繋がるんだよな」
種明かしをされている気分だった。柴は人に媚びるような性格ではなかったが、周囲の注目を浴びるタイプではあった。いいヤツだけど変わったヤツというのがクラスメイトの共通認識だったと思う。冬でも半袖というのも、そのひとつだったと思う。わかりやすいエピソードがあると記憶に残りやすく、折りに触れ話題に上がりやすくなる。
「直接応援してもらいたいとか、思ったことはないけど、応援されることが夢への後押しになるんだってのは、色んな人の伝記を読んで気づいたんだ。今のおまえにはそういうの、揃ってるんだからさ。利用しない理由はないだろ、逆に」
でも、と口を開きかけたが、柴は人差し指を立てた手を口元に当てた。
「俺を覚えているおまえは『普通』ではないんだから、仕方ないと諦めろよ。おまえは光を持って生まれてしまったんだ。消せない光を目立たなくする方法を考えたほうが建設的だろ」
柴の言わんとしていることがわからず、ぼくは眉を寄せた。
「どういう意味?」
「何も難しいことは言ってないだろ。自分を蛍だと思うんだな。蛍の存在が目立つのはどんな時で、逆に目立たないのはどんな時か。考えろって話」
柴の語調が少し荒くなった。話に飽きてきた時の癖だ。もうすぐ目が覚めるということなのだろうか。目に映る教室が急激に色褪せていく。
「ひとつだけ、聞きたいんだけど」
覚めてしまう前に聞いておきたいことがあって、ぼくは慌てた。
「柴は、ぼくにどんな期待をしてる?」
「俺か。そうだな――俺の望んだその場所を」
そこでぼくは目を覚ました。




