八十三通目 空虚
語りかけは単調だった。訥々として、どこかよそよそしく感じたのは、書類以外の文章を読むのが久しぶりだからかもしれない。
目次もなく始まった文章は、ページを捲るごとに文字が浮かび上がってくるような不思議な読み応えだった。まるで、ぼくの反応を窺っているかのようだと思ったのは、自意識過剰かもしれないが。
催眠術にかかったように、思考と本との境界が曖昧になっていく。この感覚は、前世でも味わったことがある。自分に合う本を読んでいる時に生じる、自分の思考の中を彷徨っているような感覚。それが知りたいと思った時に、知りたかったものの答えを提示されるという、気味が悪いほどの心地良さ。
魔物についてから始まった話は、魔窟についてに変わっていく。
この本の作者は、魔窟という存在について解き明かしていこうとしているようだ。魔物は添え物に過ぎず、ここからが本番なのだろうと感じた。
魔窟は有史以来、ずっと存在し続けていると書かれていた。この世界で初の文明は、聖女来訪直前から始まる。ただしそれも、明確な証拠があってのことではなく、聖女が王と婚姻関係を結んだという流れから、聖女来訪以前に文明があったのだろうと推測されるということだった。
そして作者は大胆にも、記録が生まれる以前にも魔窟は存在していたと記している。魔王の存在が、その証明だとしているのだ。
魔窟は魔王によって作られると、作者は明言している。
初代の王によって斃された魔王は、あくまでその魔窟の王であり、他の魔窟の王はまた別なのだと自論を続けていた。
そこでぼくに疑問が生じた。魔窟は魔素溜まりによって生まれるものではないのか、と。魔素溜まりにミヒルが生じ、それを放置すると魔物が生まれ、魔窟が発生するというのが通説となっている。魔王が魔窟を作るのであれば、流れの方向性が変わるのではないだろうか。
そう思いながらページを捲ると、そのことについて書かれていた。
地表に現れるミヒルの存在は、聖女に魔王の存在を予告するもの、つまりは先触れであるとしている。聖女によって土地は鎮められ、魔窟が成長することなく潰えるのだそうだ。それを裏付けるように、近年の魔窟の発生は都市部ではほぼゼロであるという。
確かに、このラクシャスコ・ガルブも人口の少ない地方に発生したものだ。ニーリアスやムスタに聞いた魔窟の話も、都市部ではなかったように思う。人口の少ない土地に発生するのは、単純に人の目が届かず、ミヒルが予告をしても観測されず、または聖女が訪れなかった結果ということだ。
しかしそうなってくると、聖女という存在があまりにも強大に見えてくる。ぼくらの生活には全く馴染みがない存在であるのに、聖女の力がなければ魔窟が発生し、否応なく巻き込まれるというのは不条理だ。
宗教の布教にはこれ以上ない奇跡だろうと、宗教心が乏しいぼくは思った。
聖女が来訪しなければ、魔窟が発生し、魔物に蹂躙されることになる。それが絵空事ではなく、実際に発生し、人の命が奪われ、町が壊滅するのだから、聖女に縋りたくなるだろう。魔王と聖女のマッチポンプを疑いたくなる。
そんなぼくの気持ちを知ってか知らずか、本は魔物や魔素、魔核の有用性を示してくる。それらが人々の生活に深く関わり合い、生活を豊かにしている側面を強調してきた。
それはわかっている。実際、ラクシャスコ・ガルブが出現し、グムナーガ・バガールが誕生したことで、ぼくたちは食い扶持を得ているのだ。生活は以前より楽にはなっている。それが良いか悪いかは人によるのだろうが。
電気というものが誕生していない代わりに、魔素や魔核がある。それらがエネルギー問題を一手に引き受けている現在、魔素や魔核がなくなったら人々の生活水準はかなり後退することになるだろう。
魔法もなくなり、魔導具も使えなくなるということは、それらの技術によって支えられている文明は崩壊し、新たな何かを発見するまで厳しい生活になるのは目に見えている。一度楽な生活を知ってしまった人々が、何もなかった過去の人々のように逞しく生きていけるかは、かなり賭けだ。
魔素も魔核もない世界から転生した『前世持ち』の中に、過去の偉人と同じ発明を異なる環境でできる人物がいれば、かなり楽にはなるだろうが、その確率はどれほどのものだろうか。
そもそも、それほど大きな変化が起きて、対応できる人はどれぐらいいるのだろう。大きな集団生活に慣れた人々が、小さな集団となって生きていけるものなのかも疑問だ。
人が土地に流入してきたことで、かつてのナムツェにいた人々の中には土地を離れ、森に入っていった人々もいる。以前と同じ暮らしができなくなるということは、否応なく生活スタイルを変えなくてはいけない。それに順応できる人ばかりではないということだ。
ぼくの家族が住むケルツェでも、文明化していく生活に耐えられずに山や森に居を移す人たちが時々現れる。大体は親族一同で土地を離れ、新しい場所に移っていく。
前世の記憶を持っているぼくは、ケルツェを離れた人々は、もっと暮らしやすい都会に行くものだとばかり思っていたが、実情は逆で、文明から離れた場所に新天地を求めることが多い。
何もない場所で生きていく力というものが、彼らにとっての財産なのだという。彼らにとっては物質的な豊かさはその場しのぎでしかなく、本当に必要なものではない。いつでもどこでも、何にも縛られず、自分たちの力で生きていけることこそが、自分たちの真なる価値なのだと信じている。
思考に捕まり、ぼくは本を閉じて息を吐いた。
随分と長い間読んでいたように思うのに、ナビンの姿はない。
本を読んでいるところを見られなくて良かったという安堵と、何かあったのだろうかという不安が同時に湧いてくる。耳を澄ましても、ざわついた様子は感じられないので、大きな問題は起きていないとは思う。
横になったまま、見えない天井を見つめた。
本を読んだことで解決したことはなく、更なる選択肢が増えたような気がした。
何故人は選び続けなければならないのだろうか。他の生き物のように、もっと直感的に生きていくだけではいけないのだろうか。
今のままでいいと思っていながら、今のままでいいと明言できないのは、結局のところ選択をしたくないからだ。明言するというのは選んだことになる。
歩荷の仕事は嫌いではない。辛いことも多いが、生きるということはそういうものだと思っている。少しだけ読み書きができて、それで上等といわれる環境は有り難くもある。もっと上を目指せといわれない気楽さを手放すのも惜しい。
それだけで良いのだ。現状でいい。他の選択を示されて「今のままで良い」と言わせないで欲しい。選択をさせないで。先の短いレールを走っていくだけで、満足できるのだから。
多くのものを求めないのに、求めなくれはいけないところで生きるのは辛い。心の底からの願望でないのに、求めているフリをして生きていかねばならないのは、ただただ疲れるだけなのだ。
ナクタの手を取って彼らと行く道を選んだ場合、覚えなくてはならないことがたくさんある。ケルツェとは違う常識をインストールして、それが標準装備の人たちと生きていかなくてはならない。
都市部で生きるということは、前世と似たような生活になるということだ。そこに存在するというだけで、金が必要になる。存在するために金を払い続ける人生は、今となっては窮屈なだけだ。
ここにいるよりも、身を脅かす危険から距離を取ることはできるだろう。魔物も獣も、暴漢も取り締まってくれる。今よりも整い、あらゆる危機から守ってもらえる環境になるのだろうけれど、それもなんだか今更だ。
ナクタたちが嫌いなわけではない。いい人たちだと思うし、ぼくが役に立てるなら嬉しいとも思う。ぼくが今持っている選択肢の中で、もっとも長生きできる道だとも思う。でも、それを求めているかといわれると、だ。
「生きていくのに向いていないな」
前世でも今生でも、ぼくの心は空虚で、何をしても膨らまないのかもしれない。憧れを持つことも、羨むことも、どこか遠く実感がない。この空虚を抱えて生きていくのは困難だと、前世で学んでいるというのに、対策のしようがないのだから厄介だ。
こういう人間が行き着いたところが、僧侶なのかもしれない。空虚さに懊悩して、生きていくことに限界を感じた時に、神仏という存在に全てを捧げ、委ね、信じて生きていくという、生存方法。
ぼくらの信仰には僧侶的な存在はいない。巫女的な存在はいるけれど、普通の生活を営んでいる人だ。神事を司る役目も持ち回りで、特別な家系があるというわけではない。ただただ、カルゼデウィとそこに住まう神と、自然というものに祈りを捧げるだけだ。
チャムキリには聖女信仰があり、神殿がある。そこには階級があり、司祭の存在もあるというのだから、それを生業としているのだろう。そこで生きていくという選択肢もあるのだろうかと考えるが、何かを信じられるほどの心の強さがぼくにはない。
ゆっくりと長く息を吐き出すと、身体の力が抜けていく。
今日は色々あった。ありすぎるぐらいにあった。ジーノが無事で良かっただとか、随分思い切ったことをしてしまっただとか、ナクタたちの役に立てて良かっただとか、思ってもみないことになってしまっただとか、謎の本との相性がとても良いだとか。
事実だけに焦点を合わせて、余計なことは考えないようにしているうちに、瞼が重くなってきた。
全てはまた明日だ。
そしてチラと思った。そうやって決断を先送りにして生きていければ、それだけでいいのに。




