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ラクシャスコ・ガルブ潜行記  作者: 多寡等録
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七十九通目 運

 最初にナクタの手が触れたのは、ジーノの胸のあたりだった。呪文は唱えたまま、開いた手をジーノの胸の真ん中あたりに置いた。

 しばらくすると、ジーノの身体に変化が起こった。霜が溶けてゆくかのように、灰色の石の状態が布へと変貌していく。布の繊維と石の境目が見えることが新鮮で、ぼくは食い入るように見つめた。

 布の繊維がじわじわと石を蝕むかのように広がっていくと、ナクタの手はゆっくりと首から顎のあたりへと上がっていった。どう見ても石であった首筋が、人間の肌へと変わっていく。画像の加工技術を見せられているような気分になるが、ナクタが行っているのは生身の人間への施術だ。触れたら、弾力があるのだろう。

 鼻から目へ、額から頭へと、ゆっくりと手が移動していくにつれ、作り物に命が吹き込まれていくかのように様相が変わっていった。

 ナクタはずっと呪文を唱え続け、ジーノを見つめたまま姿勢を崩すこともない。

 やがて、ナクタの手は頭上からゆっくりと胸まで戻り、腹部へと移動していく。股関節のあたりまで進んだところで、ジーノに触れる姿勢のまま足の裏だけで移動していった。うなじに手を当てたまま、ナクタの移動に合わせてぼくも動く。

 大部分が石から人間や服へと戻っても、ジーノは固まったままだった。目に見えるほどに動くことはもちろん、呼吸している様子すら見られない。皮膚や髪の質感は生々しいのに、微動だにしないものが目の前にあるのは、よく出来た石像であったときよりも不気味なものに見える。

 両足をなぞり、両腕に戻る。全ての部分が元に戻ったように見えたが、ジーノはまだ動かない。

 石の部分が全てなくなると、ナクタは両手を握り合わせ、より一層大きな声で呪文を奏で始めた。

 繰り返される抑揚のある音階はぼくの耳にすっかり慣れ、引きずられるように喉が震える。

 強い光を浴びているかのように目の前が白くなり、遅れて円形の虹色の光が波状に飛び込んできた。脳の芯が痺れ、腹の底から頭へと快感といって差し支えない感覚が突き抜けていった。

「ソウ!」

 名を呼ばれて、気絶していたことを知った。倒れる前に、ウィスクが支えてくれたようですぐそこに顔があって驚いてしまった。

「すみません」

 咄嗟に手元を見ると、ナクタのうなじに添えられたままでほっとする。

「良かった。頭が痛いとか、気持ち悪いとかある?」

「いえ、それはないです」

 心配げなウィスクの問いに首を振る。

「無理だったら無理だって言ってよね」

「本当に、心配ないです」

 倒れておいて平気だといっても説得力がないなと思ったが、ウィスクが心配しているような症状はまったく持ってない。そういった不快感とは全く逆の、いいようのない快楽に突き抜かれたのだとは言えない。

「こっちも心配ないみたいだ」

 立ち上がったナクタが、ぼくの両肩を挟むように叩いた。

「無事、解呪できた。ソウのおかげだな!」

「いえ、ぼくは何も」

「いや、君のおかげだ」

 謙遜ではなく、実際何もしていないのだからと言いかけたところをピュリスに遮られた。

「君がいなかったら、この巨体を引きずって戻らなくちゃならないところだった」

 意味がわからず首を傾げると、ウィスクが「無自覚かぁ」と困ったような顔をした。

「どういうことです?」

「ここは人の耳がありすぎるから、話は後で。回復薬を持ってるか?」

「あ、はい。ここに」

 ロッシに着せられた上着から、回復薬を取り出して手渡す。他人のものを勝手に使っていいのだろうかと慌てたのは渡してからで、ナクタたちならすぐに弁償できるだろうと開き直った。

 ナクタはジーノの背に腕を回して身体を起こさせると、回復薬を開封してジーノの口元に運んだ。ジーノは薄く目を開き、与えられるものを大人しく飲み込んでいるようだ。大半が溢れてしまっているが、肌からも吸収できるので、さほど無駄ではない。はずだ。

「ムスタ! 終わったから仲間呼んでやって」

 ウィスクの言葉に「はいよー」と気の抜けた返事をしたムスタが、奥に向かって言葉をかけると、すぐに足音が迫ってきた。

「ジーノ!」

 最初に飛び込んできたのは巨体のウーゴで、ぼんやりしているジーノに飛びついて声をあげて泣き出した。レダはその姿を見た途端、膝から砕け落ちた。

「うわ。本当に蘇生してるよ」

 驚いているとも引いているともつかない調子で言ったのはイヴァンだ。勝手に回復薬を使ったことを報告しようとした時には、ナクタが空き瓶をイヴァンに向けて放っていた。

「使わせてもらった。同じものを返せばいいかな?」

「いや、気にしないでくれ」

 イヴァンは本当に気にする様子はなく、ジーノのところに歩いていくと、しみじみとした顔で観察しだした。

「フォルカー。戻りの打ち合わせをしたいんだが、いいか?」

 皆がジーノの様子を見守るなか、ナクタの興味は戻りのことに移ってしまったようだ。助けたという偉業に頓着する様子がまるでないので、ぼくは唖然としてしまったが、ウィスクたちは気にしていないようだ。ぼくだけがつまらないことにこだわっているようで、なんだか恥ずかしくなる。

「いやぁ、ご苦労さん。ジーノも無事だったし、ナクタもピンピンしてるし、ソウも元気だし、言うことなしだ」

 ムスタが上機嫌でぼくの背を叩いた。隣ではデラフが頷いている。が、ぼくには言葉の意味がわからないので、どんな顔をしたものか反応に困る。

「シュゴパ・ジーノはもう大丈夫なのですか?」

「どういう状態を大丈夫というかだろうけど、生きているという点では大丈夫だろうな」

「意地の悪い言い方をするんじゃない。ソウが困ってるだろう」

 ぼくのなんともいえない表情を『困っている』ととったデラフが、ナクタの脇腹を肘で突いた。

「とりあえず『身体的な呪い』は解けた。ってことしかわからんわけよ。精神的損傷についてはわからん、という他ないんだよね。見えないものだし」

「『呪い』は精神にも影響するのですか?」

「そりゃそう、というか、そっちが本命だろう。まあ、人間がかけたものではないから、複雑なことはないとは思うけど、石化したというだけで精神的になかなかくるらしいから、ねぇ? デラフ」

「そうだな」

 先ほどはぼくを気遣ってフォローしてくれたデラフだが、今回はムスタの言い分に同意を示した。

「『呪い』による石化を経験してんの。デラフは」

「解呪後に影響はありましたか?」

 驚きつつ尋ねると、デラフは「そうだな」と顎髭を撫でた。

「あれは恐ろしい経験だった。石化について知っていただけに、色んなことを考えてしまったからな。死ぬのと同じぐらいの恐怖はある。呪いが解かれて、身体に影響がなかったとしても、あの恐怖を思い出して魔窟に入れなくなるヤツは少なくないだろう」

 最後が想像になっているのは、デラフ自身は魔窟に戻っているからだろう。死に匹敵する経験を乗り越えられたのは、どういう理由からなのだろうか。

「解呪されるだけツイてるんだけど」

 ボソリと呟かれた内容に、ぼくは思わずジーノを見た。ぼんやりとした顔でウーゴに抱きつかれている。心ここにあらずのように見えるのは、デラフが経験したように死の淵を覗いたからなのか、まだ完全に覚醒しきっていないからなのかはわからない。

「あいつは運がいい。このまま冒険者を続けてくれればいいが」

 デラフの言葉に、ぼくは頷けなかった。運があるから続ければ良いというのがデラフの考え方なのだろうが、ぼくにとっての運は常にあるものではなく、その時、たまたまそこにあるもの、なのだ。

 今回はたまたま、全員が撤収の意思を固めたタイミングで、タシサに集まっていたから救出されたのであって、普段の探索であったらリュマが全滅だった可能性が高い。

 それに、ナクタたちがいたから解呪が成功したのだろうが、フォルカーたちだけでは何もできなかったのだ。ロッシもイヴァンも腕は確かなようだが、それでも石化をどうにかできるほどの知識はなかったのだから、原因が呪いだと突き止め、解呪ができたのはナクタがいたからということになる。

 そう考えると、ジーノが息を吹き返しているのは、本当にたまたま、運がそこにあったからだ。

「ま、六層に『呪い』を使う奴がいるとわかったのはめっけもんだったね」

 ムスタの反応は一貫してドライだ。多分、怒っているのだと思う。何に対してなのかはわからない。ジーノに対してなのかもしれないし、あのリュマ全体に対してなのかもしれないし、もしかしたらぼくに対してなのかもしれない。

 冒険者は全体的に直情的な性格が多いので、ムスタのような反応には慣れていない。言いたいことがあるなら言ってくれればいいのだが、とは思うが、それが甘えだということも、前世のあるぼくにはわかっている。

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