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第八話 思いは秘めておく

 カンディールとイルデブランドは、夜も深まってからようやく海軍基地ベルガミーニ島を離れ、港湾都市プリアロッジアの貴族の別荘を一晩借りることとなった。そのままベルガミーニ島の施設や船で一泊することもスマレーリャ提督から提案があったが、イルデブランドが明日の朝一番の船で王都へトンボ帰りすると決めていたため、間に合うようプリアロッジアへ向かうこととなった。


 本来なら東西の船が行き来する世界有数の巨大港湾に圧倒され、散策と洒落込みたいところだが——それどころではない。馬車も通れない暗い夜道の坂を上がり、すでに別荘で用意されていた軽めの夕食を摂って、寝る前のわずかな自由時間を過ごす。


 与えられた寝室兼書斎でベッドに寝転がっていたカンディールは、ふと、何か棒を振っているような風切り音がすることに気付いた。のそりと起き上がり、一定間隔で何度も聞こえる音がどこから来ているか、耳を澄ませてみる。


 すると、中庭のほうから音がしている。カンディールは一応、音の原因を確認しておくことにした。大したことでなければそれでいいのだ、しかしここにはクエンドーニ王国の王子であるイルデブランドがいる。万一、何かあってからでは遅い。


 服のしわを整え、マントを羽織って寝室を出たカンディールは、誰もいない廊下を回って、中庭へと向かう。すでに派遣されてきていたメイドは自宅に戻り、朝まで来ない。警備の人員がいるにはいるが、彼らも夜は休む時間だ。門番をしている二人以外は仕事中ではない。


 武器を持っていないことに不安は覚えるが、カンディールは冷静だった。いざとなれば炎魔法がある、建物ごと燃やさないよう加減をすることにだけ注意を払い、影を伝ってやってきた中庭には——月光で照らされた鈍色の剣を、剣術の型に沿って独り振るう人影があった。


 カンディールは安堵した。


「サイフ。何をしている」


 びくり、と飛び上がるほどに驚いたイルデブランドが、剣を落としそうになった。慌てて剣の柄を握りしめ、イルデブランドは勢いよくカンディールへと振りかえる。


「カンディール、いたのか!?」

「ああ。失礼した」

「い、いや、大丈夫だ。集中していたから、こちらこそ気付かず失礼をした」


 イルデブランドの謙虚な態度に、カンディールはふっと微笑む。剣を握っているときに声をかけるな、などと怒ってもよかっただろうに、彼はそんなことはしない。


 イルデブランドは剣を鞘へと納め、袖で額の汗を拭いた。中庭のベンチに腰掛けるようカンディールへ促し、自分も座る。カンディールはそれに従う。今日は軍議ばかりで、二人は雑談の一つもしていなかった。イルデブランドには話したいことがあるのだろう、そう察した。


 まだ少し息が上がったままのイルデブランドが、大きく肩を落とし、顔をうつむかせた。


「イフィジェニアで、何となく分かっていた。クエンドーニ王国は国家存亡の危機にあって、アルバラフィ王国の軍隊はすぐそこまで迫っている、と」


 そこまで前置きして、イルデブランドは白状した。


「実は、僕があのときイフィジェニアにいたのは、婚約を破棄されたからなんだ」

「婚約破棄? 王子との婚約を破棄する女がいるのか?」

「相手はイフィジェニア貴族の娘で、クエンドーニ王国が危ないなら他の国に嫁がせる、という話になったんだよ。王家もそれを止める手立てはなかった」

「なぜだ?」

「クエンドーニ王家はそれほど力があるわけじゃない。あくまで調停者としての役割が強くて、各都市の貴族たちはそれぞれ思惑があり、生き延びる方策を取っている。たとえクエンドーニ王国が滅んでも、他の国の庇護下に入るなり、独立するなりして、彼らは生き延びる。まあ、一応は思いとどまらせるためにイフィジェニアまで行ったんだが、婚約解消の手続きと同意をするために行ったようなものだったな」


 はあ、とイルデブランドはついにため息を吐いた。その口から漏れた婚約破棄の顛末は、クエンドーニ王家としては面目丸潰れの、イルデブランドの王子としての価値を厳しく査定されてしまった悲しい出来事だ。


 おそらく、オルフェオ家はイルデブランドのために奔走した側だと思われる。しかしいくら財を成していても、商人と貴族では話が折り合わないことも多々ある。そこに王子がいては、なおのこと複雑怪奇な話になってしまう。その結果が、イルデブランドの婚約破棄だった。ヴィーチェも頭を抱えたことだろう、しかしそこにちょうどカンディールが来た。通訳としてカンディールを勧めて同行させたのは、その出来事から気を逸らさせるためでもあった、そういうことだった。


 ただ、カンディールとしては、ヴィーチェのそんな思惑よりも、イルデブランドの面子よりももっと重要なことが、その婚約破棄の話の中には含まれていると思った。


 ——貴族が、クエンドーニ王国が危ないなら他の国に娘を嫁がせる、などという判断をするのか。


 それはカンディールにとっては想像もできない考えだった。クエンドーニ王国の各都市にいる貴族はそこまで己の国やその王族を重視しない、それどころか平気で他国と誼を通じ、裏切る。はっきり言って、カンディールにとっては理解したくない話だ。イルデブランドに同情するし、今必死で国のためにと考えて行動しようとしている将兵たちをそうも簡単に捨て石にできるのか、と憤慨さえする。


 とはいえ、それは無駄な感情だ。言ってもどうしようもない、詮ないことで、ならばあてにはすまいとカンディールもそんな貴族たちを勘定の外に置いて考えることにする。


「そうか。この国の貴族には、死ぬまで戦う、という考えはないのだな」

「南の大陸では、そういうものなのか?」


 何気ないイルデブランドの疑問は、当然のものだった。


 カンディールはどう説明すべきか、考える。


 一言一言を、異国人であるイルデブランドへ的確に伝わるよう慎重に、カンディールはその(ジャヌブ)大陸で持っていた考えを披露する。


「戦わなければ、滅ぼされる。親兄弟も、親族も、先祖代々の土地も失い、言葉や思想、教え、誇り——そういったものもなくなってしまう。我々がいなくなれば、我々がこの世にいた証が、歴史が、失われてしまうのだ」


 それは、悲壮で悲惨な現実だ。アルバラフィ王国に負けたカンディールのシャムス王国や王族だけのことではない。他の王族たちも魔法の使い手たちも、すでに全滅してその存在が失われてしまっている。いくら書物に残そうと、人の記憶に残っていようと、侵略者たちは無情に奪っていく。書物はすべて燃やし、記憶は都合よく上書きし、そうして今までどれほどの人々の歴史が消えていったことだろうか。最初からなかったもののようにされた無数の命は、まるでこの世界に最初から存在しなかったかのように、砂漠の砂ほどの価値も与えられずになくなっていく。


 ひょっとすると——言葉を失っているイルデブランドを横目に、カンディールは閃いた。


「思えば、父はそれを残すために私を生かしたのだろうか」


 カンディールの父であるシャムス国王は、誰か一人でも残って、自分たちが存在した証を残していってほしいと、そう思ったのかもしれない。シャムス王国王族最後の一人となったカンディールを生かそうという気になったのは、永久にその存在が失われていった人々を戦場で見てきたからかもしれない。


 そう思い至ると同時に、カンディールは一抹の寂しさが胸に去来した。一人残された自分は、なんと孤独で寂しい存在なのだろう、と思ってしまったからだ。


 その寂しさをどうすればいいのか、カンディールが困惑していると、イルデブランドは自分の手を叩いた。そして、声を大きく、明るく振る舞う。


「なら、君は生きなければならない。そうだ、これが終わったら王都へ連れていく約束だった。カンディール、王都に行ったら何をしたい? 美味しいものを食べて、流行の服を着て、喜劇を見に行って、そうだな、大学に行くのもいいかもしれないな。王宮の近くにいくつも歴史ある大学があって、そこでは毎日学生だけでなく市民たちも講義を聞いている」


 気遣われたと感じ取ったカンディールは、精一杯、笑ってみせる。


「それは、楽しそうだな」


 本心ではそんな気分にはなれない。だが、イルデブランドは、カンディールを励まそうとしている。カンディールはその気持ちが温かく、嬉しかった。決して流暢でも、上手な語り口でもないが、イルデブランドの真摯さは伝わっていた。


 だからこそ、カンディールは、イルデブランドをここからできるだけ遠ざけたかった。


 カンディールは表情を固くして、声を低くする。


「臆病なサイフ、あなたはもう気づいているだろう。剣はすでに蛮勇を示す象徴になり下がった、銃弾飛び交う戦場においては価値は著しく低い。であれば、あなたは戦場にいるべきではない。もっと意味のある場所で、あなたの戦いをすべきだ」


 イルデブランドは目を瞬かせて、それから少し唇を噛んでいた。カンディールだって、それが戦いに赴きたいイルデブランドにとって言われたくないことだと分かっている。それでも言わなければならない、王都に戻れと背中を押さなければならない。イルデブランドの命と誇りを守るためには、そうしなければならないのだ。


 カンディールは自分でも不思議なほど、イルデブランドには死んでほしくないと思っていることに気付いた。カンディールにとってはそこまで面倒を見る義理もなく、先日会ったばかりの異国の王子でしかないはずなのに、この王子様は放っておくと自分から戦場へ行って戦おうとしかねない。それでは死んでしまう、これほど篤実な青年に何かあれば、皆が悲しむだろう。カンディールもその一人だと、たった今自覚した。


 カンディールは、イルデブランドの答えを待つ。もし駄々をこねれば、剣を奪って殴って気絶させてでも王都へ送り返すところだが——などと物騒な思いが湧き上がってきはじめたところで、ようやくイルデブランドは少し顔を背けて、悔しそうにこう言った。


「王子として、使い走りをしろというのか。確かにそれは、僕にしかできないことだ。王子の言葉である、クエンドーニ王国を背負った意思である、そう示すことで血を流す多くの戦いを避けられる可能性がある」


 カンディールは間髪入れずに頷き、言い添える。


「それができる人間は少ない。だからこそ、皆はあなたに期待している。剣を持って敵陣に乗り込むばかりが戦いではない、それだけの時代はもうとっくに過ぎ去ったのだから」


 必死に訴えるカンディールの心は、イルデブランドにまたため息を吐かせた。だが、ただの嘆息ではなく、諦めと決意のため息だ。


「……そうか。うーん、わがままを言えば、僕はその剣を振るう時代に生まれたかったな。こう言っては、君に怒られるかもしれないが」


 ——怒るものか。あなたは今、悔しくても、悲しくても、きちんと己の義務を果たそうとしている。


 ある意味では、イルデブランドはカンディールと同じだ。己の命と肩書きに課せられた義務を果たす、イルデブランドはクエンドーニ王国王子として、カンディールはシャムス王国王族最後の一人として、生きてやらなければならないことがたくさんある。


 道は違えど、その背中を押せるのは、今は互いしかいない。ただカンディールはイルデブランドの背を押す、しかし自分の背は押されなくていい、そう考えていた。王子の手を借りるなど、どんなお返しを期待されるか分かったものではない。イルデブランドがそう思わなくても、周囲の目もある。


 カンディールがそれを勘づかれないかヒヤヒヤしていると、ようやくイルデブランドは笑顔を作った。手に持つ剣を指差し、そして自身を指差す。


「この剣を振るうのではなく、持っているだけで、僕はイルデブランド・イ・スタファン・デ・ラ・クエンドーニであると示すことができる。それは武器だ。きっと僕にしかない武器だと分かっている」

「そうだ。その武器をもって、戦いに赴く戦士たちを救う。それがあなたの任務だ」

「ああ、理想とは違っても、それも武器には違いない」


 すっかり吹っ切れて、イルデブランドは立ち上がる。カンディールへ、自分が決断したのだと、心配するなとばかりに宣言する。


「僕は王都へ行く。国王と議会を説得して、アルバラフィ王国との戦いに備えるよう働きかけてこよう。それが、今の僕にできる戦いだ」


 それだけならよかったのだが、イルデブランドはこうも言った。


「カンディール、君はどうする?」


 カンディールは答えに詰まった。カンディールはまだ、ここで命を賭けてやることがある。それを悟らせないために、嘘を吐いた。


「私はまだここで通訳として働かなければならない。やる気になったアドラム提督が各所で通訳をしてくれと頼んできている」

「なら、王都での仕事が終わったら急いで戻ってくる」

 いつの間にか背筋を正し、イルデブランドは真剣に言い渡す。

「君を王都へ連れていく約束を果たす。君も、ちゃんと憶えていてくれ」


 ひょっとすると、イルデブランドは薄々気付いているのかもしれない。


 カンディールが自分を置いて戦いに行こうとしていても止められないと、王子のくせにそう思っているのかもしれない。少し不機嫌に言えばいいだけなのだ、「僕には戦うなと言うのになぜ君は戦うのだ」と。


 たったそれだけでカンディールはイルデブランドと手を切る理由ができる。


 王子様ここまで連れてきてくれてありがとう、しかしもう用済みだ、カンディールはそう言ったってかまわないのだ。


 だとしても、カンディールは約束を守ろうと、イルデブランドを悲しませないようにするためにはどうすればいいかと、頭を巡らせる。


 好きでもない人間に対して、そんなことは思わない。カンディールは、もうすでにイルデブランドを、その彼の大事なものを見捨てることはできない。


 ——その思いは胸に秘めておくべきだ。


 カンディールは何も言わず、微笑み返すだけだった。

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