第七話 戦いの前に
北東からの夜風は弱まることなく、長時間の軍議から解放されたカンディールの頬を撫でる。いくら停泊中だからと言っても揺れないわけではなく、食事も抜きで換気の悪い部屋の中に篭っていたせいもあって、船酔いがきついのだ。
カンディールはひとけを避けて、船尾の飾り縁にもたれ、新鮮な空気を味わう。
「うぅ……」
船乗りたちはともかく、イルデブランドまで船に強い。おかげでカンディールは通訳として離れるわけにはいかなかったのだ。
へばって床に座り込みたい気持ちを抑え、カンディールは平静を保つ。誰に見られているわけでもないが、やはり王族として、戦士として情けない姿を見せることには抵抗がある。いつでも凛々しい姿を、でなければ部下や戦友たちに不安を植え付けることとなる、もうそういう状況ではないと分かっていても、見栄を張ることはすっかり癖になっていた。
その甲斐あって、船尾の段差を上がってくる足音に気付くことが遅れても、船酔いのみっともない姿を晒すことはなかった。
カンディールのもとにやってきたのは、南大陸出身の艦長の一人だった。とりわけ黒い肌に高い身長、それに出身部族を示すエメラルドと金の鎖の大きな耳飾りが特徴の男性だ。
「カンディール、それは本名か?」
堂々と、カンディールへそう尋ねた意図を、すぐにカンディールは察して答える。
「だとすればどうする? サーミルの子孫、ドゥライム族のアドラム提督閣下」
カンディールと、アドラムと呼ばれた艦長は真正面から視線を合わせ、互いに引く気配はない。
すでにカンディールの頭の中には、ニーロ海艦隊に所属する軍艦二十二隻の艦長の名が入っている。アドラムもその一人で、とある小国の将軍だった父の代から勇猛さで名を馳せているだけに、カンディールもここに来る前からその名を知っていた。アドラムもまた、カンディールの故郷、シャムス王国王族のことを知っているに違いない。
敵対していたわけではないが、知り合いというわけでもない。ただ、互いに名を知っているだけだ。違う大陸に来てその名を知る人物と出会えたことは僥倖だし、何より——アドラムは、礼儀知らずの男ではなかった。
「シャムス王は、壮絶な最期を遂げられたと聞いている。カンディール王女、あなただけでも生き延びられたことは不幸中の幸いだ」
重々しく、アドラムは本心からそう思っているように言う。
分かっていた。アドラムがカンディールの歓心を買う必要などなく、すでに亡き国の王女に価値はない。そうしたことをアドラムは無視して、一人の戦士の壮絶な最期を惜しみ、娘のカンディールの生存を幸いだと言っている。シャムス王国の戦いを知る人間が、勇猛な将がそう言うのだ。ならば、素直に受け止めていい——カンディールは礼こそ言わないが、アドラムの認識を悪くはないと思った。
「そうだな、父は勝利を得ることはできなかったものの、シャムスの栄光を汚すことはなかった。それだけ記憶してもらえれば十分だ」
「ここにいる南大陸の船乗りたちは皆、シャムス王国の港を利用していた。あそこは豊かで、好き好んで侵略戦争をする国ではなかったし、外国人にも寛容だった。それだけに残念でたまらない」
アドラムは腕を組み、ささやかにため息を吐く。厳つい風貌にはまるで似合わないため息だった。
「それで、カンディール王女、あなたは何を? あの王子の通訳だと言っていたが、まだ戦うのか?」
「そうだと言ったら?」
「さすがシャムスの戦士だ、と言いたいところだが、無理はするな。ここは南大陸でもなく、陸地でもない。いくら卓越した炎魔法の使い手であろうと、何万もの兵が一隻に何十、百を超える砲門を備えた軍艦に乗って海で戦う時代に、何ができる。誤解するな、あなたを侮っているわけではない。それならば別の戦いがあろうと言っているのだ」
「別の戦い、か。確かにな、私もそれは考えた。考えた末に一つ案がある」
「ほう」
カンディールは、つい滑らかになりすぎる舌をゆっくりと動かして、確認するように、アドラムが考えてくれるように、その案を開示する。
「アドラム提督、炎魔法の使い手がここにいるとは、アルバラフィ王国は考えもしないだろう。それを利用して、一泡吹かせることができるかもしれない。私は大砲を撃つことはできないが、代わりに見える範囲であればどこでも燃やすことができる。工夫すれば、遠く離れた位置から海に浮かぶ軍艦を炎上させることだってできるだろう。しかし、肝心なのはごく短時間で発火を誘発させるために、できるだけ正確な敵艦船の位置を知り、船底にあるであろう火薬庫を狙うことだ」
大砲ではなく、炎魔法による遠距離攻撃。木製の帆船は火を嫌う、それに大砲が増えれば増えるほど使用する火薬の量は増え、その積んである火薬にひとたび引火すれば、沈没も免れない大惨事になるだろう。火薬庫が防護手段を取っているとしても、大砲の直撃に耐えられるほどではない。
アドラムはいったん目を閉じ、そして閃いたとばかりに、カンディールの提案を現実の策へ落とし込んだ案を出す。
「つまり、こうか。照明代わりの白リン弾を撃ち込み、敵艦船の位置をあなたが正確に把握、船の構造から火薬庫の場所を特定し、そこに炎魔法を集中させる。派手に燃えて敵艦隊が混乱に陥れば、あとは味方艦隊が姿を見せて掃討する」
カンディールは頷く。
「小高い岬、灯台でもあれば、そこに登って見渡すことさえできれば可能だと思う。敵に一発の砲撃も許さず、まともな戦もせず、壊滅的打撃を与えることができるなら……それはやる価値のあることだと、私は考える」
「確かに、避けるなり鉄板を貼るなりすればいい砲撃ならともかく、魔法は対策を取られにくい。遠距離では防ぐ手段がないに等しい上に、そこまで強力な魔法の使い手が生き延びているとは、アルバラフィ王国は考えもしないだろう」
しかし、問題はいくつかある。まず、スマレーリャ提督をはじめとするクエンドーニ王国人たちがその案を受け入れるかどうかだ。たかが通訳の少女の言葉を信じる可能性は低く、アドラムが説得しても同郷の情に絆されてだとか、企みがある、誑かされただとか言われるだろう。夜襲や奇襲は受け入れても、自分たちが主導権を握ることに拘泥するかもしれない。だからと言ってアドラムと賛同者たちだけでやるわけにはいかない、一隻も敵を逃してはいけないのだ。文字どおり壊滅させなければならず、続く戦いが起きないほどに徹底的に叩く必要があるため、包囲する味方の数が必要だった。
それに、仮にその策が受け入れられたとしても、カンディールの炎魔法の威力を味方にも正確に把握させなければならず、そこまで段取りを組むことはなかなかに骨が折れる。かと言って、たとえばイルデブランドを間に立たせると、王子の威光を利用している、と反感を買うだけだ。カンディールもイルデブランドを矢面に立たせたくはなかった。
「カンディール王女、こんなことを聞くのは恥ずかしいかぎりだが、あなたはどちらから戦いを始めたほうが得だと思う?」
ふむ、とカンディールはアドラムの慎重さに応えるように、情報の共有をするかのように、丁寧に説明する。
「アルバラフィ王国はまだ宣戦布告をしていない。時間の問題であり、すでにクエンドーニ王国沿岸にはその姿を多数見せているが、公式には戦争は始まっていない。もしクエンドーニ王国が敵の出鼻を挫いて戦いに乗り出すなら奇襲に価値はあるが、あくまで平和的に、従属的に交渉を進めるのなら、攻撃は逆効果だ。とはいえ……何かあって不利な状況に陥っても、アルバラフィ王国に恨みのある南大陸出身者たちが逸って手を出した、クエンドーニ王国とは関係がないという立場を取る可能性も否定できない。私なら、スマレーリャ提督たちをやる気にさせてこの策を実行させ、この国に後戻りできないようにさせ、王子には国王や有力者たちを説得してもらって戦争を辞さない態度を取ってもらう。もともとアルバラフィ王国は海軍が強いわけではないし、あくまで北大陸への侵攻を諦めさせればいいのだから、一度の海戦で手ひどく叩くだけでも十分に牽制でき、侵攻を躊躇させる効果は期待できる。あとはクエンドーニ王国がやらなくてもいい、アルバラフィ王国への反抗を望む戦士たちは数多くいる。そちらの支援で十分だろう」
カンディールは思う。我ながら弱いくせに悪辣で、他人を利用したくないのに利用するしかなく、とても許されることではないだろう、と。
だが、アルバラフィ王国への恨みとは別に、こうも思うのだ。他人を自分たちと同じ憂き目に遭わせたくはない、と。
クエンドーニ王国がアルバラフィ王国に屈服すれば、間違いなく甚大な犠牲者が出る。それはカンディールもアドラムも身をもって知っている、アルバラフィ王国は敵をただの一人も生かしては帰さないからだ。捕虜の概念はなく、ましてや敵国人を、老人や女子供を守るという考えもない。学者や職人さえも、どんな能力があろうと関係ない。与して裏切って媚びを売ることすら無駄なのだ。
思い出すだけで、絶望感と怒りが込み上げてくるのを、カンディールは何度も何度も抑えてきた。それにもすっかり慣れてしまい、危機感が薄れることだけは恐れている。感情は銃声の中に消え、獣のように反射的に戦うことばかり、その中でカンディールは必死になって冷静さを得ようとしてきた。
ただ、一度、冷静さを得てしまえば——今のカンディールは可愛げもなく、物事から一歩引いて考えてしまう生意気さばかりで——果たして、自分はまだ人間なのだろうかと思うことさえある。楽しいこと、嬉しいこと、興奮すること、そういったことをカンディールはしばらく味わっていない。どんなものだっただろう。だが、今、それが欲しいとは思わない。
やるべきことがあるからだ。
「アルバラフィ王国への反抗を望む者は多い。国や民はおろか、やつらの信じるもののために徹底的にあらゆる魔法の使い手は弾圧され、虐殺された。シャムスだけではない、近隣の水魔法の使い手マサフィーや治癒魔法の使い手アルシファーの一族ももういない、彼らを重用していた国ごと滅ぼされた。私はその生き残りたちとともに戦っていた」
そうした事実も、カンディールが口にすれば、『シャムス王族であり炎魔法の使い手最後の一人による訴え』に変わる。それを聞く者がどんな感情を想起させ、どんな考えを持つか、カンディールは分かっている。
アドラムは、きっとこう思っているだろう。
——かわいそうなカンディール王女はアルバラフィ王国を憎んでいる。復讐しようとしている。故郷を滅ぼし、同族を殺した者たちと戦い勝利するためなら、何でもしそうだ。今は冷静だが、いつ暴発するか分かったものではない。しかし、今はまだ利用価値がある。
寸分違わず、それはカンディールの望む方向への認識と思考の誘導が成功したのだ。
今は、それでいい。カンディールは甘んじて、その誤りを含んだ認識を受け入れる。アドラムはきっと、アルバラフィ王国の艦隊を潰すために、カンディールの存在を利用してくれるだろうからだ。
アドラムは腕を組んだまま、頭を垂れる。
「分かった、スマレーリャ提督へ代わりに提案しよう。軍人ではない通訳のあなたからの提案となれば、色々と面倒だ」
「お気遣いいただき、助かる」
「だが、あなたは大丈夫なのか? それだけの魔法を使って……炎魔法は命を燃料にするとさえ言われる、過酷な魔法だと聞いている。実際に、シャムスの戦いはそういうものだったと」
心配するアドラムへ、カンディールは望まれるような答えを口にする。
「かまわない。私一人が耐えれば多くの命が助かる。復讐も遂げられる、それに」
それは本心だが、誰にも信じてもらえないだろう。
カンディールは、一つだけ、大事なことを注文づけた。
「尊き剣を血に塗れさせるよりもずっといい。くれぐれも、王子には私が参加することは伝えないよう」
アドラムは不思議そうにしていたが、やがて了承した。
【読まなくていい注意書き】【軍事編】
帆船同士の海戦で使われる照明弾について調べはしたんですが、起源が定かな資料がどこにもなかったので『白リン弾』を使っていることにしました。多分アルミニウム系の照明弾はまだないか、あっても貴重なので使えません。18cくらいの時代なのでそんな感じです。そもそも海で夜戦自体したのかどうか、近代まで頻繁にはなかったと思われます。
ちなみにウェブ上にまともな資料がないので英語で漁るしかなくてこれだから現代日本は軍事知識の蓄積の仕方が碌でもねぇ……とブツクサ言ってました。