第三話 戦いの剣の王子
都市イフィジェニア、南の大陸との交易で栄えた港を持ち、今でもその権勢はクエンドーニ王国有数を誇る。
カンディールにとっては、見知った街だ。昔、一番上の兄に連れられてここを訪れ、半年ほど滞在したことがあった。そのとき世話になったのがイフィジェニアの代表オルフェオ家であり——そこまでの道のりは、ちゃんと憶えていた。まだ誰もいない円形広場に面した教会の大きなからくり時計が五時を指し、横切った小道の先を行けば、変わらない石造りの三階建ての大きな邸宅が鎮座していた。イフィジェニアの都市に点在するオルフェオ家の所有物件の一つで、カンディールの恩師が住んでいるはずだ。
カンディールが遠慮なく扉を叩く。すると、朝早くにもかかわらず、白髭をたくわえた初老の男性が扉を開けた。その表情を見るに——カンディールの来訪を予期していたのか、期待していたのか、何にせよカンディールを拒む様子はない。
「カンディール、よく無事で」
感極まった声の初老の男性へ、カンディールは心の中で準備していた説明をすらすらと語る。
「ヴィチェンテ先生、お久しぶりです。シャムスは滅びましたが、父のつてで私だけは生き延びました。もうあの国は存在しません」
淡々とした口調のカンディールを気遣い、ヴィーチェと呼ばれた初老の男性は首を横に振った。
「悲しいことだ。だが、君が無事ならよかった。早く中へ、少し顔色が悪いよ」
ヴィーチェに誘われ、カンディールは素早く邸宅内へ入り込む。
中はいかにも贅を尽くした商人の邸宅然としていて、大きな毛織り絨毯はもちろん、廊下には大理石の彫刻や絵画が並んでいる。オルフェオ家は南の大陸との交易を主導し、その取引先の一つにカンディールの故郷シャムス王国があった。黄金を産するシャムス王国は砂漠にあっても裕福で、オルフェオ家との関係は長年良好だったことから、北の大陸のことを学ばせるためとしてオルフェオ家を通じて王家の人間をイフィジェニアへ留学させることもしばしばあった。
まだ十歳だったカンディールは、オルフェオ家の先代当主であるヴィチェンテ・オルフェオのもとで孫のように可愛がられ、この国の言葉をしっかりと学んだ。そのおかげで日常会話はほぼ問題なく、容姿以外はクエンドーニ王国の人間のように振る舞うことができる。
応接間に通されて、しばしカンディールはヴィーチェと話し込んだ。シャムス王国の滅亡の顛末を知りうるかぎり話し、交易船に紛れ込んで北大陸へ逃げてきたことを語ると、ヴィーチェは何度も嘆息していた。いくらヴィーチェが大商人だったとしても、南大陸の覇権国家であるアルバラフィ王国と対抗する術は持たない。シャムス王国の滅亡は避けられなかったとカンディールは言おうとしたが、ヴィーチェの落ち込みを見て、やめた。そんなことを言っても、ヴィーチェの慰めとはならない。
重苦しい雰囲気を打破するかのように、ヴィーチェはこんな冗談を口にした。
「それはそうと、怒りん坊の君がよく無事税関を通ることができたことだ。燃やすぞと脅したりしなかっただろうね?」
「しません。その必要もなかったので」
「そうか、思慮深く育ったようで何よりだ」
「先生のおかげです」
そんなやりとりも、少しはヴィーチェの憂鬱の慰めとなったらしく、笑顔が溢れていた。カンディールは安心しつつも、先の話へ移る。ヴィーチェが望まないかもしれない、と分かっていても、話さなくてはならないことだ。
「先生、私はこれから、アルバラフィの」
そのときだった。応接間の扉がノックされ、ヴィーチェが「どうぞ」と応じた。
入ってきたのは、一人の青年だった。仕立てのいい長裾のジャケットとベストは明るい赤で、襟元のスカーフにはクエンドーニ王国の国章である剣の透かし模様が入っている。それに、腰には見事な銀細工の鞘の剣を佩いていた。クエンドーニ王国の王侯貴族らしい正装をしているが、見覚えのない顔に、カンディールは警戒する。
自身を睨みつけるカンディールに気付いた青年は、気圧されたように謝った。
「あ、邪魔をしてしまったか。すまない」
「いいえ、大丈夫ですよ。ちょうどよかった、こちらへ」
ヴィーチェが自身の横にある、背もたれへ宝石の象嵌細工が施された椅子を動かし、青年へと向ける。青年は偉ぶることもなく、きびきびと早足でやってきて、椅子に座った。カンディールは少しばかり感心した、その軽やかな足運びだけで、青年が何らかの武術を修めていることは明白だ。少なくとも、怠惰で遊興に耽る貴族ではなさそうだった。
ヴィーチェがカンディールへと、青年を紹介する。
「カンディール、こちらがクエンドーニ王国の王子、イルデブランド殿下だ。現国王の第四子であり、唯一の男子であることから、国王の名代として活躍されている」
一体何者か、と互いにまじまじと見つめあってから、カンディールよりも先にイルデブランドが愛想笑いを浮かべ、挨拶をした。
「初めまして、か?」
「はい」
「ああ、よかった。イルデブランド・イ・スタファン・デ・ラ・クエンドーニだ、よろしく、カンディール」
異国人であっても女性に対しては一定の敬意を払う、北大陸の王侯貴族らしい態度だった。カンディールは敵ではないと認め、その名前を呼ぼうとして——イルデブランドという名前が呼ぶには長すぎる、と思った。
もちろん直接文句を言うほどのことではないし、カンディールはイルデブランドの気分を害さないよう呼び名を確かめる。
「何とお呼びすれば? イルデ?」
「ちょっと、うーん」
「王子様?」
「それも、ちょっと」
イルデブランドは控えめに難色を示す。それもそのはずで、古式ゆかしいイルデブランドの名は略すものではなく、クエンドーニ王国の王侯貴族であれば王子の名前を略すことはしない。『王子様』は完全に子ども扱いの呼びかけだ。
それが分かっていないカンディールは、どうすれば失礼がないかと悩んだ末に、イルデブランドの腰の剣を指差した。
「その剣はあなたのものですか?」
「え? そうだが」
「ははっ、カンディール、殿下のお名前は『戦いの剣』という意味を持つんだ。殿下も剣術を修められている、この国は剣士を尊ぶ風習があるからね」
なるほど、とヴィーチェの講義を聞いたカンディールは、イルデブランドに向き直り、ふさわしいあだ名をつけることにした。
「では、あなたは国家の剣ですね」
「サイ……何?」
「サイフとお呼びしてもよろしいですか?」
「あ、ああ、君が呼びやすいようにしていいよ」
イルデブランドは薄々感づいていた。カンディールに悪意はない、おそらくこれでもかなり気遣っているのだ、と。しかし一方で、異国の音の愛称をつけられて、イルデブランドもやぶさかではなかったのだ。その顔に照れの色を見せる。
その様子に満足したカンディールは、イルデブランドへ初めて微笑んでみせた。いいだろう、と子どものように自慢げだった。
多分そんなにかからずに終わると思います。十話くらい?