第二話 炎の魔人の末裔
花の都、尚武の都、芸術の都、商人の都。
クエンドーニ王国には、多くの独立した都市があった。長年競い合い、それぞれの都市の人々は自分の故郷を誇りに思い、自らをクエンドーニ人とは言わず、必ず故郷の名を出した。
それゆえに、クエンドーニ王国王家は統治者というよりも、国政の方針を決めるために各都市代表者の集まる会議の議長であり、行政の長として存在していた。そこに君臨という言葉は使われない、だからこそクエンドーニ王国の人々は王家に親しみを持ち、愛し、従う。そんなおおらかな国だった。
ある日の夜明けのことだ。クエンドーニ王国東にある、いくつもの島を束ねる商人の都イフィジェニア、そこに一隻の大型帆船がやってきた。典型的な南の大陸からやってくる交易船で、浅黒い肌の商人たちが異国の香辛料や絹織物を運んでくる船——そう思われていた。
その大型帆船から降り、イフィジェニアの港の税関に現れたのは、大柄な男だった。船乗りの格好をしている。しかし、帽子や金の首飾りを見れば、船長か船の所有者である商人あたりだろう、と慣れている税関の職員たちには推測できた。
大柄な男は、税関の職員を一人捕まえると、こう言った。
「おい、荷揚げを急いでいるんだが、どうにかならんか」
税関の職員は首を横に振る。
「今日は混んでいるんです。順番にお願いしますよ」
「いや、急いでいるんだ。荷物がだめになる、陸に上げるだけでいい」
「一体、何を積んでいるんです?」
「奴隷だ」
大柄な男は、奴隷、という単語を繰り返した。
税関の職員は驚き、静かにしろとばかりに険しい顔で声をひそめた。
「奴隷なんて、クエンドーニ王国はとっくの昔に禁止しています。外国の商館だろうと、国内で奴隷を使うことは許されていません」
「それがどうした。なら、このまま陸に上げず、衰弱して死んでいってもいいということか?」
「それは」
「いいか、俺は頼まれて荷物を運んできたんだ。誰に頼まれたと思う? イフィジェニアの大商人、オルフェオ家だ。送り主はこれまたやんごとない身分の方で、ここで明かすことはできん」
大柄な男と税関の職員が揉めて衆目を集めているところへ、それなりに身なりの整った壮年の男がやってきた。税関の職員へと声をかける。
「何をしている」
「税関長、それが」
税関の職員は慌てて税関長と呼ばれた壮年の男へと、手短に事情を話す。目の前の大柄な男を怒らせないよう「荷揚げを急ぐ必要がある。荷は奴隷とのこと」と簡潔に済ませた。
それだけで税関長は状況を察した。気性の荒い船乗りとそれに付き合う商人たちを法律と規則を盾に相手にしなくてはならない税関では、いつでも即断即決を迫られるものだ。
税関長は大柄な男へ沙汰を下す。
「そういうことなら、税関で接収する外ない。治療が必要なら検疫用の隔離病棟を使おう。船長、君はあとでオルフェオ家に行って事情を話すといい」
「そうさせてもらう。オルフェオ家のあるイフィジェニアまで運びさえすれば俺の仕事は終わりだが、きちんと荷物を受け取ってもらわないわけにはいかないからな」
「荷物の是非に関しては別件で、こちらからオルフェオ家に事情聴取することになる。もしオルフェオ家へ荷が渡らなかったとしても、君に責任はない。そういうことだ」
税関長は職員へ、積荷の受け取り人であるオルフェオ家への連絡を指示する。そのまま、税関長は大柄な男を連れて——積荷が『奴隷』であることを確認しに、他の職員を伴って船へと向かう。
大柄な男の案内した、停泊している一隻の帆船は、どうにも様子がおかしかった。
荷下ろしをしている気配がない。乗組員も少なく、税関長は異常を察したが何も言わない。武装も見えないため海賊船ということはなさそうだが、まともな交易船でもない。
なるほど、と税関長はつぶやいた。この船の積荷に、何やら特殊な事情があることは、明白だ。
職員たちを埠頭で待機させて、税関長は船へ乗り込む。大柄な男が税関長を連れていったのは、ごく普通の船室だ。クエンドーニ王国が禁止する『奴隷』という存在がいるようには思えない。
薄い木の扉を開けると、一人の浅黒い肌の少女がベッドに腰掛け、俯いていた。
大柄な男が、甲斐甲斐しく近寄って心配する。
「おい、まだ起き上がるんじゃない。寝ていろ」
浅黒い肌の少女はうんともすんとも言わない。税関長の目から見て、少女は長い髪の手入れもしていないほどひどく疲れている様子だが、身なりはさして悪くなく、とても『奴隷』の風貌ではない。ワンピース状の綿の衣服はともかく、肩にかけた汚れている真紅のマントは光を照り返し、絹が入っていることすら見てとれた。
税関長は浅黒い肌の少女の前にしゃがみ、少女のうつむいた顔を捉えようと、見上げる。
「大丈夫か、お嬢さん」
浅黒い肌の少女は、じっと税関長を見た。
少女は、掘りの深い目鼻立ちのくっきりとした、いかにもな南の大陸の美人だ。まだ少々幼いが、十分に北の大陸でも通用するほどだと税関長は値踏みする。ただの労働力としてではなく、姿形の整った人間を奴隷とすることは珍しいことではない。そのために着飾らせて、高く売れるようにすることもあるが——どうにも、大柄な男を見ていると、そういう事情ではないと税関長は感じていた。
実に甲斐甲斐しく、大柄な男は浅黒い肌の少女へ水の入ったコップを渡し、サイドテーブルの粉薬の包みを開けてやっていた。それを浅黒い肌の少女は礼も言わずに受け取り、さっさと飲み干して突き返す。堂々と、まるで主従関係は逆で、浅黒い肌の少女こそがこの大柄な男の主人であるかのようだ。
そして、浅黒い肌の少女はやっと、口を開いた。
「心配ない、ただの船酔いだ。それより早くオルフェオ家へ行かないと」
税関長はため息を吐いた。困った顔をしている大柄な男の説明は、どうやら相当に欺瞞だらけだったようだ。
まず間違いなく、浅黒い肌の少女は奴隷ではない。これは荷物である奴隷の荷揚げの問題ではなく、正規ルートではクエンドーニ王国へ入れない、もしくは必要書類の提出が叶わない、検疫などをすり抜け早急に入国しなければならない人間のための密入国だ。そのために、わざと税関で騒動を起こし、責任者である税関長を呼び出したのだろう。
であればことは簡単で、税関長は仕事に取り掛かる。
「部下を通じ、オルフェオ家へ連絡した。だが、君を入国させるわけにはいかない。どんな人間であれ、正しい手順を踏んで入国してもらわなくては困る」
それは人と物の出入国を管理する役人としての正しい主張だ。法律と規則を守らない者は、税関を通すわけにはいかない。
しかし、浅黒い肌の少女は何も言わず、ベッドの枕の下に手を突っ込み、じゃらりと音を立てて引き摺り出したものを、税関長へ突きつける。
黄金の鎖と飾り細工を散りばめた、まばゆいばかりの首飾りだ。首から肩、胸元にかけて黄金で覆い尽くすような、南の大陸でその有する財を示すかのように使われている象徴的なアクセサリーは、税関長へと差し出され、その意図を税関長は口にする。
「賄賂か」
「たかが税関長には十分なはず。これ以上を望むなら、交渉は決裂だ」
高圧的な少女の物言い、その手の黄金の首飾り、浅黒い肌の少女の出自は間違いなく、高貴な身分だ。しかし、急ぎクエンドーニ王国へ入国を果たさなくてはならない切迫した事情を抱え、賄賂で解決しようとしている。
浅黒い肌の少女の黒い目には、明かりが灯っていた。比喩ではなく、目の中で火が揺れているように、光が動いているのだ。
税関長はそれを見逃さなかった。分かりやすいほど力素の溢れた目、強力な魔法の使い手だという証拠だ。
税関長は浅黒い肌の少女へ尋ねる。
「君は魔法を使えるのか?」
「そうであれば待遇は変わるか?」
「いいや。だが、もし『魔法によって脱走された』なら、私はあまり責任を問われないんだが、どうだ?」
浅黒い肌の少女は一瞬きょとんとして、それから税関長の言葉を理解したと示すために、強く頷いた。
よし、と税関長は口にして、黄金の首飾りを受け取って立ち上がる。浅黒い肌の少女を船から連れ出し、税関の裏口を通ってイフィジェニアの都市へ入れるためにだ。
浅黒い肌の少女も少しふらつきながら立つ。大柄な男が手を添えようとして、少女は制した。少女が「心配いらない、ここまで助かった、感謝する」と言葉をかけると、大柄な男は丁寧に頭を下げていた。
埠頭から足早に税関の建物の裏口へ向かいつつ、税関長は浅黒い肌の少女と会話を試みる。背負った事情は口にしないだろうが、せめて少女の人となりを見ておこうと思ったからだ。
「大昔、魔法の使い手によって盛大に税関が破られることがあってな。それもあって、税関職員の免責事項に『魔法の使い手による事件』がある。もっとも、魔法の使い手自体の数が少なくなった今は形骸化した一文だ……と思われていたが、まさか役立つとはな」
「そうか。いい抜け穴だ、知っていれば楽ができたのに」
「ちなみに、君の魔法はどんなものだ?」
「炎。その気になれば、どんなものでも燃やし尽くせる」
「なるほど、それで鎖は燃やしたと」
「初めからなかったものを燃やせはしない」
「道理だな。こちらだ」
少女はぶっきらぼうだが、ユーモアがないわけではない。今は少し、余裕がないだけだろう。税関長の娘も浅黒い肌の少女と同年代で、何かと親に反抗する年齢だが、そこに愛しさはあっても憎しみはないと知っていた。
入り組んだ税関の建物の暗がりを通り、都市へ入る裏口に、錆びた鉄の門があった。長年潮風を受けて、どんな塗料を塗っていてもすっかり錆びてしまう。おかげで鍵はかかっておらず、重たい門扉を税関長は少し開け、少女へ外へ出るよう促した。
するりと門扉の隙間を通った浅黒い肌の少女へ、税関長は先ほど受け取っていた黄金の首飾りを押し付けた。少女は咄嗟に受け取り、税関長を見咎めるように睨む。
「これは返しておくよ」
「どういうこと?」
「売れないからさ。たかが税関長には過ぎたものだ、たかが異国人の少女にもね」
浅黒い肌の少女は当然ながら奴隷などではなく、黄金の首飾りは彼女の身分を表す数少ない品だろう。
税関長としては、賄賂を受け取ったという醜聞を作りたくないことはもちろん、話せないような身の上を抱えた少女から宝を奪い取る真似はしたくない。このあと、都市で何かが起きるかもしれないが、それが悪い方向へ向かわないよう、祈るばかりだった。
浅黒い肌の少女は、黄金の首飾りをマントの内側に忍ばせ、上目遣いに税関長を見た。
「恩に着る。あなたの名前は?」
「サンティだ。君は?」
浅黒い肌の少女は、名乗る。
「カンディール・アルシャムス。炎の魔人の末裔、シャムス王族の最後の一人だ」
職業柄、税関長はその国の名を知っていた。
シャムス王国、南の大陸にあるその国家は——一ヶ月前に、アルバラフィ王国との戦争に敗れ、滅んだ。王宮も都も何もかもが破壊され、国民は
長い黒髪と炎揺らめく瞳の少女カンディールは、振り返らず、朝日差すイフィジェニアの都市の中へと走っていった。