6 再会
繭が振り向くとゆったりとした白い着物を纏った朱鷺の頭の獣人が立っていた。腰には赤い鞘に納まった刀を差している。
そこには確かに幼き日に見上げた母の姿があった。
「やはり母上、母上なのですか!」
繭は息を荒げて駆け寄った。およそ六年ぶりの母親の姿がそこにあった。
「繭。大きくなったな」
低く力強く通る声はなにも変わっていない懐かしい母の声だ。
「どうして母上がここに」
「お前が風水師になる年だ。龍脈からしてまずはここだ」
母は自分が風水師になるのを待っていたのか。しかし繭には聞かなければならないことがあった。
「母上、なぜです。なぜ封印を解くのです。民を守るのが風水師の使命ではなかったのですか」
繭はずっと疑問に思っていたことを率直に聞いた。母はやや間を置いた後話はじめた。
「おまえには伝えねばならん。愚かな話だ。我々は何も解っていなかったのだ」
「なんのことですか」
繭はなにやら不穏な空気を感じていた。
「獣化とは、自然の摂理だ」
母の口からでた言葉に繭は耳を疑った。
「そんな馬鹿な。獣化が自然。なら風水師とは何なのです。いままで邪気を押さえる為に厳しい修行を積み民を守ってきたのではありませんか」
「残念だが、我らは理に背くものだ。業を受け入れず大地に閉じ込めようなどと実に都合がいいことをやってきたのだ」
「都合がいいとはどういうことです」
邪気を大地に静めるのがそもそも風水師の仕事だ。そこに疑いを持ったことなどただの一度もなかった。先祖代々我が一族は己の人生の自由を捨てその為に技を紡いできた。
「邪気とは業。大地に染み込んだ人の業だ。殺生をした者は殺された者の魂に呪われ、その分だけ業を受け人は獣と化す」
人の業。殺生は繭も行っていた。兄と共に狩りに出ていた。今まで数えきれない程の命を奪ってきたのだ。
「しかし、それなら私もとうに獣化しているはず。小さい頃から野うさぎや鳥を殺しています」
動物の肉は山からの贈り物だ。しかし自然の営みとはいえ命を奪って生きてきたのは間違いなかった。
「殺したものを食べれば血肉となり、同時に魂は浄化される。それが供養だ」
自分の食べる分だけという条件で狩りの許しを得ていた。
それは村雲の里の掟でもあった。
「では殺して食べなければ獣化するということですか」
「そうだ。我々は里の掟より、殺したものは必ず食べろと教えられてきた。しかしそれは単に、命を粗末にするなというだけではなかった」
一度食べきれない獲物を置いてきたとき、母は激しく二人を叱責した。暗闇のなか松明の明かりを頼りに兄と二人で泣きながら捨てた獲物を探しに森へ入った。火に照らし出された鹿の死体はこちらを睨むように横たわっていた。
あの表情は今でも夢に出てくるほどに鮮明にまぶたに刻まれていた。
「そうでした。それで私はまだこの姿を保っているのですね。しかし、私はここに来るまでに何人も殺めました」
繭は既に四人の獣の命を奪っていた。
「そうか。人は古来よりあまりにも殺してきた。その屍はものを言わぬが、何もせん訳でもなかったのだ。無意味に命を奪われた者は殺めたものを呪う道理がある。業がある限り人は無益な殺生をやめるはずだった」
「殺生が邪気の原因だと皆は知っているのですか」
当然の疑問だった。民どころか限られた者しか獣化のことは不明瞭なままだった。
「里の者以外の者達も気づきはじめている。新たに国を攻め落とす度にその周辺から邪気が漏れていてはな。彼らは真実を掴んでいる」
「では、その上で争いをやめていないと言うのですか」
「あまつさえ獣の国は戦で財をなしている。もはや選ぶしかなかろう。人は人なのか、獣なのかを」
繭にはよくわからなかった。自らが人なのか、獣なのか。人に決まっていた。
「しかし、民は選べません」
「そんなことはない。現にお前がここにいる。風水師でなければ黙って獣化するというのか。それに繭、知らね者にはお前が語ればよかろう」
繭は母の言葉に頬を打たれたように目を見開いた。
「私が、語る」
「封印を続ければ噴出されない人の業は大地に溜まり続け、いずれ各地で火山のように噴火を起こし大陸中を包むだろう。そうなっては我々が封印できる規模を越える。とても間に合わん」
封印した後の邪気のことなど、繭は考えた事がなかった。邪気が表に噴出するのは大地に溜まり過ぎない為だったのだ。
「母上はどうやってその事に気づいたのですか」
「ここは私が封印を解いたのではない。噴火したのだ。私は黒煙を見たときただならぬものを感じた。誰も近寄らせずに試したのだ。噴火の後を封印し、ここで動物を殺したのだ」
「そんな、そんなやり方が許されるのですか」
「他に方法はなかった。一刻も早く証明しなければ人のあり方に関わる。結果は見ての通りだ。一年後再び噴火は起こった。しかも規模は膨らんでいる」
大地が邪気を押さえきれなくなると地表に噴火してしまう。これでは封印はできない。
「では封印は諦め、人々が無益な殺生をやめるしかないのですか」
「そうだ。他に方法はない」
繭は下を向いた。全ての邪気を封印し民を救うという自分の目的は否定された。
「この話を聞いてなお封印を続けるのか」
心を見透かすように問われた。しかし繭はすぐにでも獣化を止めたかった。グレーテは既に獣化が進んでいる。完全に邪気を封印しなければ手遅れになるかもしれない。
「はい。私は今獣化に悩み苦しむ者を放っておけません。皆にこの事を話せばよいのです。そもそも無益な殺生をやめればよいのです」
「それでこの国の王が戦を止めると思うか」
「それは、わかりません」
ヴァリトラハンは戦で大きくなってきた。とうに後戻りができるわけはなかった。
「そうか」
暁は小さくため息をついた。
「では、お前にはここで沈んでもらおう」
思わぬ母の言葉に繭は反射的に身構えた。
「なっ、母上!」
暁はひらめくように刀を抜いた。深紅の鞘から、草薙の太刀がその波紋を光らせた。
「二人の風水師が封印と破壊を繰り返す訳にもいくまい」
信じられない状況だった。母と対峙するなど、夢にも思ったことはなかった。しかし、今はどうしても邪気を沈めたかった。繭は御霊の剣に左手をかけた。
「くっ、例え母上と対峙することになっても」
その時、背後で馬の騎士の穏やかな声がした。
「強くなったな、繭」
馬の騎士の割れた兜が地に落ちた。中からはかつての面影が残る人の顔が現れた。
繭は目を疑った。何処か見覚えがあったが自分が知る姿とはあまりにも違いすぎた。
「ま、まさか」
「繭、立派になったものだな」
以前より低いその声は、繭にとっては聞き覚えのある声ではなかった。
「あ、兄上なのか!」
繭の兄だった。毎日朝早くから共に剣を振った、共に狩りに出かけた幼い頃より兄を慕ってきた。
「悪いが試させてもらった」
「獣化したのか、兄上。なぜだ」
兄も繭と同じく殺したものは必ず食べてきた。ここまで急激に獣化するということは原因はひとつしかなかった。だが繭は兄の口から聞かないと納得できなかった。
「戦だ。人は殺めても食うことはない」
兄は淡々と言った。
「戦」
兄は盗賊退治の類いや個人的な決闘めいた闘いまで全て戦と呼んでいた。繭から見ても兄は剣を振るうのが好きだった。どれだけ母に叩きのめされても弱音を吐くどころか向かっていったものだ。その頭のなかは戦うことで一杯だった。
「ここ数年、新たな地に邪気が噴出すると必ず獣化を求める者との争いになった。俺はやつらを葬ってきたのだ。哀れなことだが獣に堕ちたがっている人間が増えているのは間違いない」
「馬鹿な。民を斬っただと」
繭には兄が民を斬ってきたというのが信じられなかった。獣化を求める者が現れるのはヴァリトラハンの状況を見れば仕方がない部分もあるが、斬り伏せることはないと思った。
「私には理解できない。信じたくもない」
「人は長く生きるとその在り方に疑問を抱く。これは仕方がない。だが獣化することでその疑問事態を忘れ去ろうとするのは、弱者の浅はかさだ」
兄は冷たく言い放った。そこには一切の同情心はなかった。
「その弱い者を我々が救うべきだ」
「どうやって救うのだ」
繭は兄の問いに目が泳いだ。
「それは、ともかく殺すことはない」
「それだけではない。獣化に賛成の輩は封印に来た母上の命をも狙いはじめた。獣の国とはヴァリトラハンだけではない。エッケの国に邪気の封印に行ったときだ。案内された宿で休んでいる最中、違和感を覚えた我らは出された食事に手をつけず眠ったふりをした。夜中に宿は、一瞬にして火に包まれた。外に出ると町中の男達が襲いかかってきたのだ。俺は襲ってきた村人達を一人残らず斬り伏せた」
繭はなにも言えなかった。
「こういったことは一度ではなかった。いつしか民を斬ることにためらわなくなった」
風水師の判断は国の行く末を決めてしまう。命を狙う輩も出てくる。兄はそんな火の粉を払う役割だった。そうすると獣化は必然と言える。しかし民までも斬り捨てたのは信じたくなかった。民はいつも母に感謝をしていた。
それが繭の誇りだった。
「さあ繭、剣を抜け」
「兄上!何故我々が争うのです」
「先ほど聞いた通りだ。それとも封印は諦めるのか」
「ば、馬鹿な、なぜこんなことに」
繭は強く唇を噛んだ。
兄は母の為に生きていた。幼い頃より風水師の守り手として鍛練を積んできたのだ。それが何故自分と戦うことになるのか、繭には納得できなかった。
「俺もいずれ獣となる。ヴァリトラハンの連中と変わらん」
「兄上は母上を守る為に剣を振ってきた。獣とは違う!」
他国を攻め落として領土を拡大しているヴァリトラハンの連中と、母親の盾になっている人間が同じとは思えなかった。
「繭。俺は最初から戦いを楽しんでいた。これは獣化のせいではない。俺の性分だ。俺は戦いの中にすべてを見いだしてきた。他のことに興味はない。獣化はその報いだ」
「しかし、母上を守ってきたのは確かだ」
その時正殿から声がした。
「どうした、戦わないのか」
繭が振り向くと暁が歩み寄ってきた。
「母上!兄上ですよ!」
繭は手拭いを取りだし兄の頭の傷を拭おうとしていた。
「おまえはそうやって身内だけを贔屓していくのか。この世の在り方すら変える力がある身でおまえは自分の都合を優先するのか」
暁は低く刺すように言った。
「いま兄上と戦う理由がどこにあるのです!」
繭は目を見開いた。
「我らは今、はっきりおまえと敵対している。それに殺さずにすんだ命も我らは摘んできた。話し合う余地を感じながら斬り捨てたことが幾度もあったのは事実。もはや我らは民の味方ではないのだ」
民に寄り添わない風水師など、何の価値があるのか。自然の力を読み操る術は一体何のために生まれたのか。
太古より人は自然の前には無力だった。広大な大地は無限の命を与えそれを自由に奪うことが許されてきた。しかし、途方もない時をかけてその神にあらがう術を人は模索した。その最たるものが風水術だった。
しかし皆が納得いくまで話し合うことなどできるだろうか。できないのならばどうすればいい。
だが兄まで死なせて平気なはずがない。そもそも家族が特別でなにがいけないのか。
母は間違っている。それが繭の出した結論だった。
「目を冷ましてください。母上!」
繭は左手を地に叩きつけると地面が裂け、身の丈ほどもある巨大な岩のトゲが出現した。そして津波の如く流れるように走り、暁に襲いかかった。
暁は微動だにせず迫り来る岩の津波を眺め、左腕を顔の前にかざすとひらめくように真横に振った。
すると岩の津波はその方向に進路を曲げ崖に激突し消滅した。
「なっ」
いつか見た母のマナだ。腕を振るだけでいかなるものもその方向に飛ばされる。繭の術などむかし里で起きた山の地滑りに比べたら小さなものだった。母はそれを片手で吹き飛ばした。
「社を破壊するつもりか。いたずらに術を使うなと教えたはずだ」
「くっ」
繭は柄に手をかけ間合いを詰めながら剣を抜いた。素早く踏み込みながら暁の肩口に斬りかかった。
暁はその一撃を目を閉じながらかわした。
その後も繭の放つ白刃が幾度も弧を描くがその全ては空を切った。
物心ついた頃には既に剣を握っていた。刃は既に体の一部だった。風で舞落ちる木の葉を全て両断できるまで寝かせてもらえない日もあった。
母が真剣で稽古をつけてくれた日のことは今でも鮮明に覚えていた。繭はついに母に剣を向けることができなかった。泣き出してしまった繭を尻目に兄は最初から何のためらいもなしに母に斬り込んでいった。稽古とはいえ普通のことではないと子供ながらに感じていた。しかし兄がどれだけ打ち込んでも造作もなくかわし続ける母を見て、繭もやっと剣を向けることができるようになっていった。
「私を斬る気があるのか」
もうほとんど獣化している暁の右手が頬をはたき、繭は吹きとばされた。繭は再び昔の修行を思い出していた。あのときは兄との二人がかりだった。当時は素手の母に全く歯が立たなかったが今はあのときとは違うと思いたかった。しかしその差はほとんど埋まっていなかった。母は武道の達人だが、こと剣の腕で母より強い者など見たことはなかった。里の者が何人でかかろうが雷鳴の如くひらめきで大人達は倒されていった。
まともにやっても勝負にならないのは初めからわかっていた。
「くっ、母上!」
右手で印を結ぶと山の風が吹き荒れ、つむじを巻きながら繭を包み込んだ。さらに繭は気をこめ呪文を唱えた。
「唵!」
繭を包み込んでいた風が勢いを増していくと回りの空気を切り刻むほどの刃の玉と化した。
「母上。いきます」
繭は唇を結び突撃した。
暁は右手に握った草薙の太刀を鞘に納めた。
「答えを見つけてくるのだ、繭」
そう呟きなから左手を振り上げると繭は空中に跳ねあげられた。暁を大きく飛び越え正殿がみるみる小さくなり、そのまま崖の淵を通りすぎると山から落ちていった。
暁は息を吸い込むと大きく咳き込んだ。
「時か」
そう言うと手の甲で口元の血をぬぐった。