序章
序章
繭は霧の中を歩いていた。三途の川のような砂利道を既に一刻ほど踏みしめている。もう夕刻だというのに橙色の空が見えないほど辺りは霞んでいた。龍脈を辿り半日ほど緑の繁った山道を歩いたが、まだ漆黒の大岩は見当たらなかった。
封印の石碑は一見するとただの岩にも見えるが風水師の目から見れば強力な怨念を放っている。注連縄が巻かれた黒い大岩が姿を現すはずだった。
繭はまだお下げを垂らした十六になったばかりの少女だが自然を感じる力は強かった。黒い狩衣を身に纏い腰には家宝、御霊の剣を差している。
「邪気はこの辺りか」
大きな目を凝らしながら繭は呟いた。
破壊された封印の大岩を元に戻す。それが繭に課された試練だ。
大地から溢れだしている邪気は人間の獣化に深く関わりがある。大陸各地にある大岩が何者かに破壊されはじめてから再び人が動物のような姿になっていった。
この世には人と動物とそれが混ざったような獣人が存在する。獣化の原因はその邪気だといわれている。長期間邪気を吸うと体の一部が何らかの動物に変化していく。一度そうなれば二度と元に戻ることはない。
そして繭の母も獣人だった。
風水師である母は大陸各地を渡り歩き噴き出た邪気を封印し皆に称えられていた。朱鷺の獣人である容姿と相まって一部からは神とまで呼ばれていた。
その姿を見て育った繭はいつか自分も当然のように獣化するものだと思っていた。幼い頃は自分は何の獣と合わさるのか暇さえあれば夢想していた。父は物心つく前に亡くなり母から全てを教わった。
特に口を酸っぱくして言われたのは殺した獲物は必ず食べろということだった。母は命を粗末にすることを何よりも禁じた。
しかし母は繭が十のときに訳も言わずこつぜんといなくなってしまった。
その時から一時も母のことを忘れた事はなかった。
砂利道を歩き続けると霧が少し薄くなり茂みに出た。風化しかけ頭が削れた板碑が立ち並んでいる。そこからぼんやりと見えた草地にどす黒い紫色の煙が小さく地面から漏れ出していた。
「あれはまさか」
繭が煙に駆け寄ると辺りに黒い石が散乱しているのに気がついた。膝をつき石の破片を手に取った。
間違いない。封印の岩が砕かれている。岩を壊したり修復できるのは風水師だけだ。繭は辺りに気配を感じた。
四人の狼の獣人が崩れた岩を囲うように霧の中から現れた。
「そなた達はここで何をしている。はやく邪気から離れるんだ」
繭は立ち去るように促すが獣人達は地鳴りのようなうめき声を出すばかりで話にならなかった。
もう言葉も解さないほど獣化が進んでいる。こうなると獣と呼ばれ討伐の対象になる。
獣化が進むと人間より強靭になり訓練を積んでいないものは太刀打ちできなかった。獣の一匹が繭に飛びかかった。
「くっ。やはり手遅れか」
繭は牙をかわしながら左手を柄にかけた。獣とは元々人間だ。風水師は討伐を依頼されることもあるが退治とは殺すことだ。
「やるしかないのか」
繭は大きく息を吸い込み目を見開くと、覚悟を決め御霊の剣を抜いた。再び襲いくる牙と交差するとその喉を斬り裂いた。真っ赤な血しぶきが舞い狼の獣は絶命した。
「還るがいい。母なる大地へ」
繭が念を込め剣を逆手に地面に突き立てると、残りの獣の真下から鋭く尖った岩の刺が突き上げ、その腹と背中を一斉に刺し貫いた。獣達は断末魔を上げ流れる血と共に絶命した。蝋燭の炎のようにその命は容易く吹き消された。
繭が剣を引き抜くと獣達を串刺しにした岩の刺は砕け散り、その骸は地に叩きつけられた。
転がる骸を見ながら繭は激しく揺れる心臓の音に強く耳をすましていた。胸に手を当て早くなった血の流れと呼吸を静めた繭は、懐から霊符を取りだした。人の怒りや怨み、悲しみを抑えるとされている。繭は目を閉じ片手で印を結びながら祈りを込めると獣達の額に貼っていった。
「どうか安らかに眠ってくれ」
そして足元の石を拾い地面に呪文を書き込むと、その石を他の石にぶつけて砕いた。その砕けた石を獣達の側に置き呪文を唱えると低い爆発音と共に獣達の下に大きな穴が開いた。
繭は獣達がそこに落ちたのを確認すると土を被せていった。
「すまない。こうするしかないのだ。許してくれ」
拝むように手を合わせた後、立ち上がると試練の仕上げに取り掛かった。懐から皿を取りだし地面に置くと一本の枝を乗せた。
繭は封印の神咒を唱えると親指の腹を浅く噛みきり、流れる血を皿に垂らした。そして印を結ぶと枝が燃え盛り火の粉が飛んだ。
さらに呪文を唱え続けると、炎は天に伸びだし蛇のように空中を泳ぎだした。そして崩れた岩は宙に浮きはじめ、少しずつ集まると元の漆黒の岩になった。
繭は小さく息を吐いた。この大きさなら漏れ出ていた邪気も大したことはなさそうだった。
「ふう、なんとか上手くいった」
実際に封印の術を行ったのはこれが初めての事だった。
気がつけば日が沈んでおり山のほこらで夜を越すことにした。繭は適当な枝を拾い集めると二本の指を擦り合わせ片手で火を起こした。この程度の炎なら呪文も必要ない。山で夜を越すことも慣れっこで、腰を下ろすとパチパチと燃える焚き火をしばらく見つめていた。
物心ついた時から修行漬けの日々を送ってきた。山から出たことは数えるほどしかなく基本的な祈りや瞑想、断食や滝行などあらゆる鍛練を積んできた。
これで自分も風水師だ。誇らしさで胸を満たせるはずだった。しかし繭は狼の獣を斬った感触が手から離れずそれどころではなかった。
しばらく干し肉をかじったあと眠りについた。
喉に透き通るような空気を感じ繭は目を覚ました。自然のなかで眠り、目覚める。広大な緑は何度見ても神秘的で、山を這うように立つ朝霧はまるで龍のようだった。
繭は微かに焦げた匂いを感じながら焚き火の始末をすると、ゆっくり立ち上がり衣をはたき里への山道を歩きはじめた。心地よい谷の風が吹き抜けると二本のお下げが揺れた。
轟音を奏でる大きな滝の前を通り飛び石を踏みながら川をまたぐと、遠くに猪の親子が水を飲みに来ていた。この山には自然の恵みの全てがあった。
びっしり苔が張った石階段を下っていくと、ようやく村雲の里に着いた。深い木々に覆われた小さな村だ。至るところに注連縄が張られており木造の家屋が点々と建っている。
その奥に門が建っており一際大きな茅葺き屋根の拝殿が見え、隣の庭に背の低い年寄りが手を後ろに組ながら待っていた。結った髪は真っ白で顔のシワは木の皮のようだ。繭は小さく微笑み軽く頭を下げた。
「お婆様、ただいま帰りました」
「上手くいったようだね、繭。まだ仕上げが残っている。夜に向けて支度をしなさい」
「はい」
春の涼しい風が吹く満月の夜、本殿の中央で護摩壇に炎が巻き上がっている。角には赤いろうそくが何本も並び、闇のなかに人影を浮かび上がらせていた。
壇の回りには八人の僧が並び座し、繭は壇に向かい合いあぐらをかいで瞑想に入っていた。太鼓を叩く音とブナを振る音が鳴り呪文が唱えられていく。線香の匂いと響き渡る経で、意識が煙のように揺らめいていく。
目の前に飾られてある小さな鏡には誰も映っていなかった。蓙と部屋の中だけだ。護摩壇に供物をくべ、その炎が大きくなっていくと、鏡のなかが陽炎のように揺れはじめ次第に繭の姿が現れた。
婆が目を見開きゆっくり立ち上がると、両手ですくうように鏡を手に取り頭上に掲げた。呪文と太鼓の音がピタリと止み部屋のなかは静まり返った。
「今宵、新たなる風水師が誕生した」
婆が繭の首に鏡を掛けた。
封印の際にこの鏡を見せ身分を名乗ることになっている。繭は首に掛かる重さに一瞬息を止めた。
「繭よ」
「はい」
「風水師の使命は邪気を封印し民を獣化から守ることじゃ。我々は代々粛々とこれを全うしてきた」
「はい」
かつてより獣化は呪いと忌み嫌われ人々は恐れながら生きてきた。人が獣になるのだ、恐ろしいに決まっている。その兆候が現れると即座に風水師が封印していった。
代によってはほとんど村に帰ることがなかった程に、大陸中を渡り歩いた風水師もいた。
「が、お前も知っての通り近年異変が起こっている」
繭は口を結びうなづいた。
「嘆かわしいことに、自然の理に背き封印を解いている風水師がいる」
風水師が封印を解く。本当に信じがたいことだった。人が獣となることに力を貸していることになる。
「ヴァリトラハンが獣の国と呼ばれているのもそのせいじゃ。そして、その封印の社に暁がいるはずじゃ。おまえは奴を討ち、再び邪気を封印するのだ」
婆は鋭い目を白く光らせた。
「わかりました。お婆様」
風水師は女系一子相伝だ。封印を解いている者は一人しかいなかった。
私が母上を止めるしかない。