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第二話 『渡良瀬純の古傷と現状』その4

残酷な描写がありますのでご注意ください。

 女性の瞳はあの時の兄の瞳によく似ている。

 瞳孔が開き焦点が定かではない。

 それは死にゆく者の瞳。


「君は、死んでしまうの?」


 (じゅん)の問いかけに女性はにっこりと笑った。

 胸が締めつけられる。

 女性の笑顔が亡くなってしまった兄の笑顔と重なる。

 一筋、頬に温かい滴が伝った。


「あれ?」


 手で頬に触れると、次から次へとあふれ出てくる涙。

 乱暴に腕で拭いさろうとすると、しなやかな指が伸びて頭を優しく撫でてくれた。


「いい子、いい子」


 兄が死ぬ直前に撫でた掌の体温を思い出す。無性に悲しくて辛くて、愛おしくて。涙が止まらない。

 女性がポケットからハンカチを取り出した。カーデガンと同じ薄桃色のハンカチ。

 純の流れる涙を丁寧にふき取っていく。

 空腹を忘れるほど、純は泣き続けた。


 あの頃と同じように。


 兄を亡くして暫くの間、純は兄の死を受け入れることが出来なかった。

 何度も何度も兄を呼ぶが応えてくれる声はない。


 あの時、兄に靴紐を結んでもらっていれば。

 あの時、自分の靴紐が解けていなかったら。

 あの時、別の道を通っていれば。

 あの時、兄が死ぬことはなかったのかもしれない。

 あの時、自分が素直になっていれば。


 兄の死を理解すると、戻らない過去を悔み続けた。

 自分のせいだと責め続けて、純は毎日泣いた。

 クラスメイトにからかわれて傷つけられた自尊心を守るために兄の手を振り払った。

 自分から離れようとしたくせに。

 馬鹿な弟は兄に焦がれて死のうと思った。


 ある日、母の目を盗んで台所から包丁を持ち出した。

 手首に刃をあてる。鋭い痛みが走ると傷口が熱を持ちはじめ、じんわりと沁みる。

 傷ついた箇所を見ると、まるで心の傷口を見ているようで落ち着いた。

 それから何度も何度も手首を切った。

 手首から腕へ。腕から首元へ。

 これで兄のもとへいけるのだろうか。自然と笑みが出てくる。痛みで、ぼんやりとしていた。

 血に染まる刃先。滴となって床に落ちると染みが広がっていく。

 赤く、広がる。

 アスファルトに広がる、血。あの時と同じだ。


「は、はは。ははは……あはははは、あははははははは!」


 笑いが止まらない。この苦しさから解放されるのであれば、どんどん血を流さなければ。

 首筋に刃を当てる。包丁の柄を握りしめて力を籠める。


「純? 何しているの、しっかりして!」


 母の声が聞こえる。

 そこで純の意識は途切れた。


 純は生死をさまよい三日間、目を覚まさなかったそうだ。

 目が覚めて最初に見えたのは見知らぬ白い天井と母の疲れ切った顔だった。

 母は大粒の涙をこぼしながら純の体に(すが)りつくように泣きじゃくった。


「純にまで死なれたら母さん、生きていけないよ」


 兄が亡くなってからも残された息子の前では気丈に振舞っていた母。

 その母が初めて見せた涙。


「ごめん。お母さん、ごめんなさい」


 母に辛い思いをさせた。親不孝者め。

 謝罪の言葉を繰り返し、母の手を握った。

 自分はこの(ひと)のために生きていくのだ。

 母を悲しませないために、もう泣くのは止めよう。

 そう思っていたのに……。



「純、いい加減に起きなさい」


 激しく肩を揺さぶられて目が覚める。

 目の前には、母の顔。


「母さん?」


「今、何時だと思っているの?

 22時過ぎても帰って来ないから塾に電話したら20時には帰宅したって言われて。

 慌てて飛び出して来たんだから」


 あの後、泣き疲れて公園のベンチで眠ってしまっていたようだ。

 母はため息をつくと純の頬をぎゅっと(つね)った。


「痛っ」


「なのにあんたは公園のベンチで、のうのうと寝ていて。

 親の心子知らずっていうけれど勝手気ままね。

 どれだけ母さんが心配したと思ってるの?」


 母の説教を上の空で聞きながら、目線を動かし辺りを見渡す。

 桜の木の下にいた女性の姿はなく、いつも通り人気のない寂れた公園に戻っていた。

 説教がひと段落したところで、純は母に尋ねた。


「他に誰か居なかった?」


「あんた一人だったわよ。

 まったく。無防備すぎるにもほどがあるでしょう。何かあったらどうするの。

 それに、暖かくなってきたとはいえあんな所で寝ていたら風邪引くんだからね。

 分かっているの、純?」


 まだまだ止まりそうにない説教。母の姿を横目にゆっくりと起き上がる。

 そうか。いなくなってしまったのか。

 恥ずかしさがあったので、女性が居たとしてもどのような顔を向けていいかわからないけれど。

 まるで狐に化かされた気分になる。

 傍らに置かれていた薄桃色のハンカチを見るまでは。


 数日後。

 朝刊の地方版の記事にひっそりと載っていた。


『昨日未明に××市内の病院に入院中の女性が病院の屋上から転落死。亡くなったのは、秋庭(あきば)(あや)さん(18)。この女性は二年前に発生した強盗殺人事件に巻き込まれており、治療のため入院中だった。病院側の管理体制を問題として警察側は捜査を進める意向を示している。』



 あれから一か月半。

 純は今日も塾に通っていた。

 春期講習の後も継続し、休日まで勉学に励む日常。すっかり受験生だ。


 汗ばむ陽気の中、自転車のペダルを漕ぐ。

 こんな晴れた日に室内に篭りっきりで勉強なんて勿体ないと思いながら塾に向かった。

 大通りの信号機が青に変わり、一斉に人々が動き出す。純も歩行者を避けながら横断していた。

 休日のせいか家族連れや私服姿が多く見られる。

 その中に見知った人影を見つけた気がして、急ブレーキをかけた。

 何人かが純を一瞥した。中には不審そうに見つめる顔もあったが純は構わず声を上げる。


「あのっ!」


 黒い日傘。黒のタイツ。黒のプレーン・パンプス。

 黒いワンピースの袖から少しだけ見える細い腕の白さが目立つ。

 立ち止まり、振り向く。


「何か?」


 首を傾げる女性。その顔立ちは桜の下で一度だけ出会った彼女によく似ていた。

 驚きと戸惑いが入り混じり、唇が震える。

 言葉が喉につかえて出てこない。

 信号機が点滅し始める。女性は一礼すると横断歩道を急いで渡っていく。


「待って」


 自転車の向きを変えて女性を追いかける。信号機が赤に変わり車のクラクションが鳴らされた。

 危険な行為をしている自覚はある。けれども今を逃してしまったら……、


 二度と、会えない気がする。


 女性の足はけして早いわけではない。自転車ならすぐに追いつけるはずだ。

 姿はまだ見える。近づいている筈なのにこの距離がもどかしい。

 女性に追いつき、追い越して自転車を止める。サドルから降りて自転車を道の隅に置いた。


「突然、すみません!」


 純は背負っていたリュックを下ろし、中から袋を取り出す。


「あの、これを」


 袋を差し出すと、女性は不思議そうに袋を見つめ、ぎこちない手で受け取ってくれた。


「これは?」


「ずっと返したくて、ずっと持っていたから」


 袋の中に女性のしなやかな指が入り、薄桃色のハンカチを取り出した。

 女性は一瞬、目を見開くと、大事そうにハンカチを胸に抱いた。


「――綾ちゃんっ」


 誰かの名前を呟く。祈るように目を閉じてハンカチとともに拳をかためた。

 ゆっくりと瞼を開けてハンカチを丁寧にたたみ袋の中に戻すとそっと鞄にしまう。

 そして代わりに黒いハンカチを手にして純に差し出した。


「よければ代わりに使って。新しいから」


 純は黒いハンカチを受け取った。

 女性が微笑む。あの桜の木の下で出会った彼女と同じ顔。しかし瞳は真っすぐに純のことを見ていた。

 視線が重なり合う。純はその瞳から目を離せなかった。


「名前、聞いてもいい?」


秋庭(あきば)(あい)。秋の庭に、藍染の藍。……あなたは?」


「俺は――」


 遠くからシャッターが上がる音がした。遅刻確定。

 でも今はまだ、もう少しこの女性と居たい。

 盛夏を迎えた青空の下。

 ふたりはこうして出会った。

第二話終了です。

二重の言い回しをしたり、誤字の多さに辟易した第二話でした。過去の自分を殴りたい。

改変した際に、誤字脱字がありそうな気はします。

何度か読み返したのですが、なかなか気がつけないものですね。


引き続き第三話も手直し次第投稿します。

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