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第二話 『渡良瀬純の古傷と現状』その3

残酷な描写がありますのでご注意ください。

 もう七年も前になる。


 (じゅん)には三つ年上の兄がいた。

 面倒見の良い兄は出来の悪い弟を可愛がってくれた。

 兄が弟の手を引き、兄弟はいつも一緒だった。


 あれは学校の帰り道。

 いつも通りの通学路。いつもの様にたわいない話をしながら純は兄と一緒に帰路に就いた。

 途中、横断歩道の手前で兄が純の靴紐が解けそうになっていることに気がつく。


「結んでやるよ」


 優しい兄はしゃがんで純の靴紐を結び直そうと手を伸ばした。


「い、いいよ。自分で直すから」


 だが純は兄のを押しのける。


「俺、出来るから」


 いつもなら素直に兄に直してもらっていた。

 だが、その日、学校でクラスメイトにからかわれたのだ。

 何でも兄貴に面倒を見てもらっているから、お前は何もできないのだと。

 囃し立てるクラスメイトの声を思い出して怒りに顔が赤くなる。

 純はしゃがむと解けた靴紐をぎゅっと握った。


「大丈夫か?」


 いつもと違う様子に心配そうな顔で覗き込む兄。


「大丈夫だよ」


 とは言うものの不器用な小さな手はなかなか結ぶことが出来ない。

 もどかしそうに見ていた兄が手伝おうとする。その手から逃れるように純は兄に背を向けた。


「良いから先に行っててよ。すぐに結んで追いかけるから!」


 意地になっていた部分もあった。

 兄が居なくたって自分だけでも出来るんだ、と。

 不機嫌な純の声に兄は暫く黙って様子を見ていたが、


「分かった。頑張れよ、純」


 と純の頭を撫でて、立ち上がった。兄の気配が遠ざかっていくのが分かる。

 何とも言えない後味の悪さに後悔した。


 早く追いかけて謝ろう。


 しかし急げば急ぐほど上手く結ぶ事が出来ない。何度も何度も結んでは解き、結んでは解く。

 上手くいかない苛立ちと不器用な自分に腹が立ち、目から涙が溢れてきた。


「大丈夫かー?」


 遠くで兄の声がした。


「大丈夫だよー」


 俯いたまま返事をする。

 その声とほぼ同時だった。


「危ないっ!」


 誰かの叫ぶ声がした。

 激しいブレーキ音。堅い鉄の塊と何かがぶつかる鈍い音が聞こえた。

 音を立ててガードレールが跳ね上がり、欠片が足元に落ちてきた。

 煙がたちこめて視界を奪う。

 一瞬の出来事だった。


「何があったんだ?」


「凄い音がしたぞ!」


「男の子が……」


「誰か、誰か、救急車っ」


 喧騒が耳に留まる。

 ガソリンの匂いと煙が鼻につく。腕で顔を覆い何度か咳き込む。


 灰色の世界。そこから見える断片。

 横転するトラック。

 歪んだガードレ―ル。

 窓ガラスが細かく割れて、中から血だらけの男の姿が見えた。意識が無いようで半分放り出された格好をしている。


「兄ちゃん」


 煙が喉に絡みつく。かすれた声で兄を呼ぶ。

 そこにいる筈の兄の姿が見えない。

 恐怖からもう一度兄を呼ぶ。


「兄ちゃん?」


 視界の片隅、靴が片方だけ落ちているのが見えた。

 震える足を立たせて近づいた。落ちていた靴を拾い上げ、さらに辺りを見渡す。

 煙が薄くなり、視界が回復してくる。徐々に色を取り戻す世界。

 サイレンが遠くから聞こえてきた。

 集まっている人々が一点を見つめていた。純もその視線を辿っていく。


 アスファルトに広がる血だまり。

 歪んだ方向に曲る肢体。

 人とは思えない奇形。

 真っ黒く濁った、大きな瞳。


「……にい、ちゃん?」


 理解が出来なかった。脳が現実を受けつけようとしない。

 気持ち悪い。

 胃の中の物が逆流しそうになる。胃酸が喉に引っ掛かり激しく咳込んだ。

 足がふらつき、結べなかった靴紐に滑り尻餅をつく。

 誰かが、純の存在に気がついた。


「純ちゃん、見ちゃ駄目!」


 誰かの手が純の視界を塞いだ。掌の体温が伝わってくる。

 理解をしたくない脳と五感が与える現実がごちゃ混ぜになる。


 これは、何だ。

 これは、何だ。

 これは――……


「あ、あ、あ、あああああああああああ!」


 暗闇の中で、ただ泣き叫ぶしかなかった。


 小さな手に握り締められた靴。

 自分の靴よりも少し大きい靴は少しだけ温かかった。



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