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第二話 『渡良瀬純の古傷と現状』その2

綾の台詞を一部改変しました。

 その日、渡良瀬(わたらせ)(じゅん)は運がなかった。


 塾の宿題を忘れ居残り補習を受けることになったのだ。

 しかも忘れた宿題が、こともあろうに塾で一番厳しい数学講師の授業で出されたもの。

 授業ではたっぷり扱かれ、授業後の補習にも強制参加。

 補習を終えて塾がある雑居ビルを出た頃には、時計の針が午後八時をまわろうとしていた。


「何でよりにもよってあいつの宿題を忘れたんだよ。

 俺の馬鹿。俺のドジ。俺の間抜け!」


 自転車のペダルを漕ぎながら、純は自身に対する悪態を吐いた。


 中学二年生の春休み。

 高校受験対策の為に初めて塾に通うことになった。

 周りの友人たちが一斉に受験勉強を始めたからだ。

 一人気楽に遊んでいられる空気ではなく、せめて春休みだけでも通うことにした。

 有名な大手塾だ。

 広告やチラシの宣伝等でも名門高校合格をうたっている。

 クラスは成績順で分けていると、入塾する際に説明された。

 そういえば毎月塾内テストがあると、同じ塾に通っている友人がぼやいていたのを思い出す。

 とりあえず受付担当者の話は適当に聞き流し、申込書の「春期講習」の文字に丸をつけた。


 授業は春休み当日から始まった。

 朝の十時から机に向かい、昼休憩を一時間挟む。

 眠い頭を起こしながら午後五時まで授業は続く。

 更にその後、希望者――概ね、授業内容についてこれなかった者や宿題を忘れた者の強制参加――は居残り補習をしていくのだ。

 学校とは違う空間。成績だけが評価される世界。慣れない環境。


「腹減った……」


 アーケードが取り付けられた古い建物が立ち並ぶ商店街を自転車で駆け抜けた。

 活気があり人通りもそこそこあるので、注意しながら大通りを目指す。

 商店街を抜けて大通りに出て信号を渡る。そこから一本道を入るとすぐに住宅街だ。

 人通りはあまりないが、家から漏れる明かりやテレビの音、街灯が点っているため、それほど暗くはない。

 さらに自転車を走らせると坂道にさしかかる。

 その道を上っていくのだが、徐々に道幅が狭くなり傾斜もきつくなるので自然と息が上がってしまう。


「はあ、はあ。あと、ちょっとで、着く、から、なっ、と」


 自身を励まし、重いペダルを漕いだ。

 空腹で力が出ない。いつもより息が上がるペースが早い気がした。

 坂を上りきるとあとは緩やかな道が続く。緩やかな道に入り、呼吸が落ち着いた頃。


「着いたーっ」


 暗闇でもはっきり分かるほど薄桃色の桜の花びらが目に入る。

 自宅近くの鉄棒だけ置かれた小さな公園。

 その一角にどっしりと存在する一本の桜の木を電灯が淡く映し出していた。

 純は大きく息を吐くと、ペダルを漕ぐ力を緩める。


「ん?」


 異変に気づき、少し錆びついた音を鳴らしながらブレーキをかけて自転車を止めた。

 薄暗い公園。

 夜は人気がないその公園の中を覗き込むようにして見渡した。


 満開の桜の木の真下。

 呆然と佇む小柄な人影。

 柔らかな風が肩まである髪を揺らしている。


 純は自転車から降りるとそのまま公園に入った。

 入口横の空間に自転車を停める。スタンドを立て安定させると鍵もかけずにその人影に近寄った。


 白いワンピース。

 薄桃色のカーデガンを羽織った細い体。


 顔が見たい。そっと近づいてみる。

 心臓が激しく鼓動していた。

 柄にも無く緊張しているのだろうか。

 人影は純に気がつく様子もなく、まるで人形のように身動きせず、じっと桜の木を見上げている。

 相手との距離は二メートルほど。純は思わず立ちすくんだ。


 綺麗な横顔。

 大きな瞳に整った顔立ち。

 笑みと憂いを含む表情。


 ぞっとした。

 まるで造形したような美しさ。本当に人形なのではないかと、純が目を疑っていると、


「なぁに?」


 見上げた姿勢のまま、女性の唇が動いた。

 高音で少し舌足らずな甘い声。

 純の体が弾む。突然の女性の声に驚きを隠せなかった。


「こ、この公園に夜、人がいるのが珍しいから。桜、見てたんだ?」


 上ずった声になってしまった。恥ずかしい。

 女性の視線が純に向けられた。

 整った顔に見つめられ、純の心臓の鼓動が更に激しくなる。

 女性は薄く微笑む。淡い桃色の形の良い唇が開いた。


「私ね、あっちの世界を泳ぐ魚になりたくて何度もお願いしたんだ。

 あっちってね、すごく幸せな世界なの。

 私は囚われていて、身動きができない。

 でもね、お願いしてたら「天使」が助けてくれたんだ。逃げなさいって。

 だから遠くに行かなくちゃって必死に歩いたの。

 そうしたらこの桜が見えた。……まるで生きているみたい」


 言動はちぐはぐだが楽しそうな声。


「この桜と私は正反対。だからつい惹かれてしまったの」


 そうして女性はまた桜を見上げる。

 (いと)おしく桜を見つめる瞳。その瞳は光がなく淀んでいる気がする。

 その瞳を見ながら、純はあの事件を思い出していた。

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