お名前教えて
「先輩」
「なんだね」
「この名前読めます?」
僕は向かいに座ってポテトをつまんでいる先輩にスマホの画面を見せた。
メモ帳を開いて、「己優斗」と打ち込んである。
「ふむ」
流石の先輩でも読めないだろう。いや、先輩だからこそ読めないだろう。そう僕は信じていた。
「やや難しいが、恐らくみゅうと君だろう」
僕は唖然とした。
「なんで読めるんですか、こんな……みょうちきりんな名前!」
「偶々さ。推測が偶然当たっただけだ。落ち着き給え」
「だからって、普通読めないですよこんなの。えー、先輩なら読めないと思ってたのに」
「然程難しくはないだろう。この手の名前は無秩序に見えて意外と法則性が在る。いや、違うな。法則性と云うほど大したものではない。傾向だな。こうした名前を付ける親は名前の音を重視する傾向がある。そこから推察した訳だ」
先輩は指についたケチャップを舐める。一般的には下品な動作かもしれないが、先輩が行うと不思議と様になって見えるのがなんとなく悔しい。
「しかし、一体どうした。突然謎々をしたくなったようには見えないが」
「これ、甥っ子の名前になりそうなんです」
「なんとまあ。成程」
「どう思います? 僕としては絶対にやめさせたいんですけど……」
こんな名前を付けられてはまだ見ぬ甥っ子があまりに可哀相だ。子供ができて頭がハッピーになっているというのはわかってはいても、後三ヶ月以内に正気に戻らないようならなんとかして説得しなければならない。そのために先輩という味方が欲しかったのに。
先輩は毒々しい色をした野菜ジュースを口に含んで何やら考えているようだ。そのじれったい反応に、僕はこの理不尽さを訴えかける。
「これ己ですよ。みって読まないでしょう。しかも、ゆうのゆを勝手にちっちゃくしてるし、だいたいミュートってなんですか。消音ボタンですか。そんなのを我が子の名前にするなんておかしいじゃないですか」
「君の主張に対して大方異論は無い。が、一つ訂正しておくならば、己はみとも読む。所謂名乗りだがな」
「名乗り?」
「そうだ。やあやあ我こそは、という方ではないぞ。名乗り読みのことだ」
知らない。なんだろうか。
僕が不思議そうな顔をしていると、先輩はにやり笑った。
「そうか。なら説明してあげよう。折角だからいろはのいから行こう」
「長くなるヤツですか」
「なに、ほんの四、五分だ」
嘘くさい言葉だったが、今回の話を始めたのは僕だ。騙されたと思って聞くことにしよう。
「まず、人名の命名に関する規則を説明しよう。日本に於いて人名に使用できるのは、常用漢字、人名用漢字、平仮名、片仮名だ。常用漢字は分かるな? 人名用漢字は常用漢字に含まれない漢字の中から人名に使用されることを許可された漢字だ。不定期で追加されている。平仮名、片仮名は言うまでもないだろうが、ゐ、ゑや長音、踊り字なども使用することが可能だ。意外と知られていないことだから憶えておき給え」
「うぃってや行のいですか?」
「そうだ。長音は所謂伸ばし棒。踊り字は繰り返し符号とも言われたりするあれらのことだな。金子みすゞのずと言えば流石に分かるか?」
「はい。……って伸ばし棒もありなんですね」
「条件付きではあるがな。ゆーじとかゆーまと名付けることは可能だ」
驚きだ。じゃあゆーきとかゆーたとかいう名前の人も実際に居るかもしれないのか。僕は出会ったことないけども。
「以上」
え。
「他に規則はない。以上のことを守っている限り自由に名付けが可能だ」
「流石に冗談でしょう。読み仮名のルールとか、使っちゃいけない文字とか。ほら、常用漢字の中には殺とか悪とかあるじゃないですか。まさかこれらも使えるっていうんですか」
そこまで自由だと色々と問題が出てしまいそうだ。
「ふむ。では少し例題を出そう」
先輩は鞄からサインペンを取り出すと、机の上に紙ナプキンを五枚広げた。そして、その一枚一枚に何やら漢字を書きこんでゆく。
「五人の人間がいる。四十三歳主婦・佐藤凛。小学生女児・鈴木檸檬。農家の三男坊・高橋太郎。生粋のキリスト教徒・田中強姦魔。自称魔法使い・渡辺一(げんしょにしてぜんちであるいだいなこんとんのしょうちょう)。この中で偽名を使っていると考えられるのは誰か。尚、五人とも生まれた時から日本人であり、日本の法律に則って命名されたものとする。又、改名は行っていないものとする」
これは先輩なりのボケなのだろうか。すっとぼけた顔して突っ込み待ちとは。
「とりあえず最後のはおかしいですよね」
「ああ、渡辺一の名前は一という漢字だ。長音ではない点は注意し給え」
「で、田中さんもおかしいですよね」
「田中強姦魔?」
「その人です。その頭のおかしい人です」
「失礼な。可笑しいのは彼の名付け親だ」
「つまり先輩の頭ですよね」
「中々笑わせてくれる」
こちらの台詞だ。
「で、まあ、最初の二人は問題ないとして、最後に高橋さんは、まあ、大丈夫でしょう。イチローだって次男ですし」
「ファイナルアンサー?」
「ネタが古いです」
先輩はふっと鼻で笑った。
「では、佐藤凛、鈴木檸檬、高橋太郎は本名。田中強姦魔、渡辺一は偽名ということだが……残念ながら四十点だ。単位はやれない」
「嘘でしょう!」
そんな馬鹿な。渡辺さんは常識的に考えて認めたくないからあえて偽名にしたけども、他はまじめに考えた結果なのに。四十点ということは、二人しかあっていないということで、つまりは佐藤さんか鈴木さんは偽名? いや、高橋さんは本名? あれ?
混乱する僕の目の前にポテトが差し出される。反射的に咥えようとしたら、ポテトは逃げてゆき、先輩の口の中に吸い込まれていった。
先輩と目が合う。
「答え合わせをしよう」
「え、あっはい。お願いします」
先輩が紙ナプキンの二枚を右手側によせ、三枚を左手側によせた。
「此方は本名。高橋太郎と渡辺一。彼らは法律的に全く問題がない。それ故、偽名とは断定できない。しかし、此方の三人は違う。佐藤凛、鈴木檸檬、田中強姦魔。この三人は明確に法律に反している。その為、偽名であると断定できる」
「解説おねがいします」
「当然だ。まず、高橋太郎これは言うまでもないだろう。普通だ。例え三男に太郎と名付けようが長女に長介と名付けようが個人の自由だ。というわけで合法」
「はい。そこまでは大丈夫です」
「次に、渡辺一。この名前は常用漢字に記載されている漢字のみで構成されているため、合法。そして、常用漢字表には漢字に対応した音訓が表記されてはいるが、命名に関しては読みは自由に決めて良い。と云うよりは、戸籍に読みを記述する箇所は無い。その為、漢字に対してどう読んでも良く、渡辺一は問題ない。此処まで理解できているかい?」
「まあ、納得はできないですけど、大丈夫です。漢字の読みは自由なんですね」
先輩はまじめな顔をして頷く。けど、渡辺一を連呼するのはやめて欲しい。さっきから先輩の後ろの席に座っているカップルが僕たちの方を見ている。
「分かりやすい方から行こう。鈴木檸檬。これは一見問題ないように見えるが、檸檬という漢字は常用漢字にも人名用漢字でもない。そのため、人名には使用できない。どうしてもれもんという名を付けたいのならば、平仮名、片仮名、または当て字をするか、まったく関係ない漢字を書いてれもんと読むかだ」
先輩は紙ナプキンの「檸檬」という字に二重線を引き、横に「一」と書いた。いや、それでレモンとは読ませませんよ。さすがに。
「次に、田中強姦魔。彼も同じだ。姦という字は常用漢字でも人名用漢字でもない。使用不可だ。以前一度人名用漢字に追加されそうにはなったが、審議の末却下された。惜しい。因みに田中殺人鬼なら大丈夫だ。田中強かん魔でも大丈夫だぞ」
ぐりぐりと「強姦魔」を塗りつぶし、「殺人鬼」と書きなぐる先輩。田中さんに何か恨みでもあるのだろうか。生粋のクリスチャンに対しこの仕打ち、神をも恐れぬ所業とはこのことか。
「最後に佐藤凛。凛という漢字は人名用漢字だ。しかし、追加されたのは二〇〇四年。さすがに四十三歳の主婦が平成生まれということはあるまい。改名はしていないものとすると前提を用意したのは、これが理由だ」
先輩は「凛」という字を消すことはしなかった。代わりに横に「年齢詐称?」と書き加えた。やめてあげましょう。四十代の主婦名乗る少女とか、何があったのか気になってしまう。
「納得して頂けただろうか」
「……まあ、一応は」
そういう法律だということは理解した。なんとも大雑把で適当な法律だ。
「あれ、で、名乗りって結局なんですか? 今の問題には出てきてないですよね」
「そうだな。今のは少し極端な例だ。整理しよう」
先輩はコップを口に運び、中身がもうないことに気付いた。僕のコップも空だったため、二人でドリンクバーに向かう。
「まず、常用漢字表というものが在る。これには漢字とそれに対応する音訓が載っている。そして、人名用漢字表がある。これには漢字は載っているが、読みは載っていない」
「そうなんですか?」
「ああ、これは言っていなかったか。すまない、酔って少し思考力が落ちているようだ。人名用漢字には正式な読み方は無い。人名用だ。人名には読みの規定は必要ないのだから用意する必要がない。明快」
先輩はコーラと野菜ジュースしか飲んでいない。つまり多分酔ってはいない。
「で、名乗りというのはだ、音訓表には載っていない常用漢字の読み方だ。常用漢字が戦後日本語を整理しようという理由で定められたというのは周知の通り。その際に使用頻度が低いからとある程度の漢字や読みが切り捨てられるのも或る意味当然のこと。少しでも読みやすくしようとしてあぶれた読み方がある訳だ。そう、皆に読み方を認知されながらも正式ではない読み方が、名乗り読みと呼ばれている」
「正式には定義しなかったわけですね」
「その通り。結果、漢字の読み方は三種類に分けられた。正式に常用漢字表に載っている読み、一応読めはするが正式ではない名乗り読み、それ以外の読み方の三つ」
なんとも面倒なことだ。平仮名片仮名漢字だけに留まらず、漢字の読みにも種類がある。げんなりしたのは先輩も同じらしく、眉を顰めてため息を吐いている。
「言葉など時代と共に移ろうものだからな」
「己も昔はみと読んでいたんですね」
「いや、それは恐らく誤記と誤読の合わせ技の結果だ。已己巳己という熟語も或るくらいだ」
というか、うえむらなおみが。と先輩が言いかけ、難しい顔をして口を噤んだ。
「兎に角、己をみとして読むことは名乗りとして認知されてしまっている。つまり、己と書いてみと読んでも胸を張れるわけだ」
そう言って、メロンソーダをぐいっと飲み干した。
「なんか、引っかかる言い方ですね。それだとまるで言ったもん勝ち、認められたもん勝ちって言っているみたいですよ」
「その通りだ。結局名乗りと当て字――と云うよりは、無理な読みだな――の違いは、認められているかどうか。歴史が在るかだけだ。知っているか? 美しいという字は常用漢字ではあるが、音訓表にみと云う読み方は載っていない。だが、なんたら美という名前に拒否感は一切無いだろう? 結局はその程度の違いさ。長いものに巻かれて常識に従って読みやすい名前を付けるも良し、自分が歴史を作るんだと独創性を出すんだと奇抜な名前を付けるも良し。そんなのは結局親の勝手だ」
そうなのか。そうなのだろうか。
でも、みゅうとはない。流石にない。学校でいじめられたらどうするんだ。起こりうる悲劇を止められるのは今しかないのだ。
「己優斗は嫌かい」
「まあ、それは」
「似たような名前の人は居るぞ」
「知合いですか?」
「知り合いではない。只の有名人だ。飛雄馬と云う」
コップを持ったままずっこけそうになってしまった。確かに有名人だけども、似ているけども。
なんとも言えなくなってしまった僕を見ると、先輩は伝票を持って立ち上がった。どうやら帰る気らしい。僕もそうすることにする。
「まあ名付けの心境など他者には分らんさ。どんな心境かもな。当事者にしか分からん」
「その割には詳しいですね」
「まあ、体験することは可能だからな」
「そうなんですか?」
先輩はにやりと笑った。
「ああ、簡単だ。興味あるのか?」
「今の話を聞いていたら少し興味が出てきました」
「そうかそうか。ならば取り合えず我が家に招待しよう。多少時間は掛かるが、大した苦痛ではない。寧ろ楽しいぞ。快感だ」
「そ、そうですか」
先輩の目が一瞬獲物を見つけた肉食獣のものになった。気がする。なぜか背筋に冷たいものが走った。嫌な予感がする。
しかし、上機嫌な先輩の誘いを断れるはずもなく、僕は先輩の家について行ってしまった。