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終わらない充電中

 蝉の鳴き声が聞こえる。もう、そんな季節になったのか。この間までは春だったのに。ふと、僕はカーテンの隙間から外を覗いた。家の前の道を一台の車が走っていく。自転車に乗るオバさんが横切る。補助輪付きの自転車に乗る小さな子供と、その背中を押すおじいさん。みんな、それぞれの毎日を過ごしている。例えば、ここにも引きこもりの小学生がいる。一人ぐらいいてもいいはずだ。誰も損をする訳でもない。

 ただ、何もしていないだけじゃない。安西さんなら、僕にそう言ったに違ない。僕は弱い人間だ。自分から外に出ようとした訳じゃない。親に命じられるまま、いやいや外に出ただけだ。あとは、安西さんの指示に従って動いていただけだった。自分では何も考えず、何も行動していなかった。

 結局、勝負を下りたのは自分だった。また外の世界から逃げ出した。安西さんならキツい一言を期待した。

 また、僕は自分の暗い部屋にいた。他に誰もいない。誰もいないので静かだ。静かなのは平和の証である。

「京介」

 ドアの向こうからノックに続いて、お母さんの声がした。

 僕がまた学校に行かなくなってから、父さん達は本当に諦めてしまったのか、何も言ってこなかった。息子をエリートに育てるのをあきらめたのだ。見限られたと言えば、それまでだけど。

「何?」

「あんたから電話」

「僕はいないって言っといて」

 束の間、平穏が戻ったと思ったら、またノックされた。

「今度は何?」

「あんたがいないって言ったら、『京介くんは居留守してますね?』って言われちゃった。恥ずかしいから出てよ」

 嫌な予感がした。相手は、通信教育の勧誘じゃないのは確かだろう。

「もしかして、女の子」

「うん。安西さんって人。とにかく出てよ」

 僕はため息を漏らすと、少し開けたドアの隙間から子機を受け取った。

「もしもし?」

「居留守の理由は下手だね」

「大きなお世話だ。何の用? 言っとくけど、学校は行かないからね。もう決めたんだ。僕はこれから世界に背を向けながら生きていく」

「そんな事ができるなら、君よりも私がそうしてる」

「用件を早く言ってほしいんだけど」

 僕はもう一度聞いた。彼女のペースにはまってしまう前に、会話を終わらせたかった。切ってしまえば、後は迷惑電話に登録してしまえばいい。二度と、安西さんから電話はかからないだろう。

「さっき、ケータイのメールに原稿を送ったの」

「明日の演説の原稿よ。読んどいてね」

 それだけ伝えると、安西さんの方から電話を切った。

「クソ!」と僕は子機を投げてやりたいほど地団太を踏んだ。こっちから先に切ってやろうと思っていたのに。まるで、ワン切りされたような悔しさがこみ上げてくる。

 しかも、こちらを説得してくると者と身構えていたら、演説の原稿を送ったから確認しろだって? 冗談じゃないよ。まるで、僕が選挙に出るような言い方じゃないか。

 僕はベッドの上に寝そべった。暗い天井を仰ぎながら、イヤホンで耳を塞いで、ポップ、洋楽、癒し、と音楽を片っ端に聞いた。自分の世界ほど居心地のいいものはない。

 以前はそう感じていたはずなのに……。今はなぜか、どうも落ち着かなかった。そわそわするというか、言葉では言い表せない焦りで、体がうずいた。

 ベッドから飛び起きると、部屋の周りをウロウロした。時にはゲームをしたり、ネットサーフィンをしたり、しまいには座禅までしたが、どれも数分と持たなかった。

 この、胸のあたりがゾワゾワする感覚は何なんだ。じっとしてはいられない。大声で叫びたくなるような衝動がこみ上げてくる。何もしない事自体、ものすごく嫌な気分だった。今のままでは、まるで蛇の生殺しである。えら呼吸のまま、陸に上がった半漁人みたいだ。どうすれば、この不快な気持ちを払拭できるのか考えた。

 時計を確認すると、十二時三十分。午前の授業が終わる時間だ。安西さんから連絡があったのは三十分前、ちょうど、正午……待てよ。

 ある事に気づいた。さっき、安西さんは授業中に電話をかけてきたのか。わざわざ忙しい時間にこっそり電話するほどの内容が、メールを確認しろというだけ。何から何まで自分が馬鹿にされている。どうして、休み時間でも給食の時間でもなく、わざわざ授業中の合間なんだ。

 僕は頭を乱暴にかきむしった。

 落ち着かないといけない。彼女のペースに乗っていてもイライラするだけである。このままでは、相手の思う壺だ。冷静にならないといけない。余裕を持たなくては。

 ケータイの着信を確認してみた。メールが一件。案の定、安西さんからだった。どんな原稿か読んでやろう、やや上から目線の気持ちでそう思った。選挙に出るつもりは毛頭ない。


 こんにちは、皆さん。今回、児童会長に立候補しました五年一組の宮地京介です↓


 走り出しの挨拶としては、まあまあだろうな。というか褒めるほどではない。余裕の精神を保ちながら、文面をスクロールしていく。


 僕は引きこもりです。ですので、ニックネームはヒッキー京介でお願いします。僕が児童会長になった暁には、全校生徒に引きこもりの楽しさを奨励したいと思います↓


 毎日、勉強はしなくてもいいし、鬱陶しい教師やクラスメイトと顔を合わせる事もなく、日がな一日好きな事をして過ごせます↓


 本当に保障しますよ。二年間も部屋に閉じこもった僕が言うのですから、間違いありません。悠々自適、晴耕雨読なひきこもり生活のために、学校一のインドア派を誇る、この宮地京介に清き一票をお願いします↓


 ……この続きは夕方頃に送信するから

 

 震える手で携帯を放り投げた。悪運の強い携帯は壁にぶつかるより前に、ベッドの上にダイブした。そして、それを拾うと、震える手で電話をかけた。相手が誰なのか言うまでもない。

「メール読んだ?」

「あのふざけた原稿は何だよ! 僕に恥をかかす気なの?」

「今の宮地くんに一番合う内容を考えたの」

「舞台の上であんな原稿を読んだらどうなるか、安西さんでも分かるだろ。僕はもの笑の種にされるじゃないか」

「……よかった」

「何がよかったの?」

「その口ぶりからして、選挙をまだ諦めてないみたいだから」

 しまったと思った時には遅く、受話器の向こうからケラケラと低く笑う声が響いた。またしても、彼女の策略に乗せられてしまった。

「僕は言っただろ。もう児童選挙には出ない。君と僕の契約は無効だ。もう終わったんだ」

「まだ終わってないよ。契約書の文面を思い出して」

 僕はランドセルの底に仕舞い込んでいた契約書を読み直してみた。

「違約金だって。依頼金は五万円だから、その二倍……僕が十万円も払える訳ないだろ!」

 しかも、前金の二万円は戻ってこないのだ。

「そう、そんな大金は払えない。だから、宮地くんは私との契約を守るしか道はないの」

「無茶苦茶だ、そんなの! こんな契約書は無効だ」

「何度も言わせないで。一度交わした約束事を破れば、契約書の意味はないじゃない。ねえ、知ってる? 契約書というものが小さな文字で何枚にもわたって書かれている理由。それは、全部読むのが面倒になった相手が早くサインするように仕向けるためなの。肝心な記述をさりげなく潜り込ませて。今の宮地くんみたいにね」

「安西さんは卑怯だ。一体どれだけの人を泣かせてきた? 僕をこれ以上苦しめて何が楽しいのさ」

「私が卑怯なのと、あなたの引きこもりを一緒にしないでほしいわ」

「じゃあ、ほっといてよ!」

「宮地くんはどうしてイライラしてるの?」

「僕がイライラなんかしていない」

「理由を教えてあげる。宮地くんは今の自分が嫌いなのよ。引きこもったまま何もできない自分自身を死ぬほど嫌っている。また部屋に閉じこもった時からずっとそうじゃない?」

「僕が嫌いのは外の世界だ。それが嫌だから、部屋に閉じこもったんだ。自分が嫌いな訳じゃない」

「初めはそうだったかもしれない。でもすぐに、引きこもる自分が嫌いになった。外の世界よりもね。それが間違っていると分かっている。きっと、君の部屋にあるゲーム機や本、パソコンは新品同様にきれいなままのはずだよ。どれも君を現実から遠ざけてはくれない。あなたは気づき始めているの。自分が生きるべきは、嫌いなはずの外の世界にしかないって。だけど、それに怖がる自分がいるのも知っている。知っていながら、そのぬかるみから抜け出せない自分がいる。それを自覚しているから、いつもイライラする。何かに没頭もできずにすぐに投げ出して、部屋の周りとイライラしたり、眠ろうとする」

「長々と知った事を言うなよ。僕の何に分かる?」

「気にしないで。さっきの話は、私の体験談だから」

「安西さんの?」

「人の心は弱いの。正しい行いをしても裏切られたら、簡単に折れてしまう。私もそうなの。前の学校で、皆に裏切られて自分の殻に閉じこもった。そんな自分が嫌いだから、今の自分に変わった。表は大人しい生徒を演じて、裏ではこうやってあこぎな事ばかりしてる」

 安西さんの場合は悪い意味で変わり過ぎている。

「宮地くん、いつか言っていたよね。僕は人生のレールから脱線したって。でもね、実際は違う路線に乗り換えようとしているだけなんだよ。人生のレールから外れるなんて、誰にもできない。重要なのは、新しいレールが前より走り心地がいいかとか、景色がきれいなのかどうかだと思う」

「分からないよ……僕はどうするべきなの。学校に顔を出して児童会長を目指すべき? それとも、転校して一から再出発するべき?」

 僕の頭は混乱していた。本当になりたい自分の姿が分からないでいた。

「正直怖い。また同じ目に遭うような気がする。立ち直ったと思ったら、また同じように傷つけられたら、どうすればいい」

「引きこもっていた事はさして重要じゃないのよ。学校に出てきてから君が試されているのよ。私達がどんなに策を弄しても、最後は君が壇上に上がるかどうかで決まる。少しでも、自分を変えたいのならドアを開けてみたら?」

「ドアが重くて開かない。」

「窓から飛び出せばいいわ。じゃあね」

 そして、彼女は電話を切れた。


 三年生の一学期――ゴールデンウィークを目の前にして、誰もが連休に心躍らせていた時期、クラスに一人の転校生が入ってきた。遠い県外から引っ越してきたらしい。

 その頃、僕のクラスでは、他愛もないルールがあった。誰が決めたか定かじゃない。連絡事や面白いニュースはLINEで報告して、もらったら逐一に既読にする。連絡網は全てLINEで行われた。

 結論から言うと、その転校生はそのルールを最初に破ってしまったのだ。もちろん悪気はなく、親の手伝いをしていて忘れていたというのが理由だった。クラスの中にも忘れる人やできなかった人もいたのだが、翌日までに謝ったらセーフだった。

 ところが、転校生の女子生徒はそれさえもしなかった。口で「ごめんなさい」と伝えて済ませたのだ。後で知った事だが、グループの一人がそのルールを伝えるのを忘れていたのだという。

 知らなかったとはいえ、転校生は二度もルールを破ってしまった。彼女にきちんと教えていなかった伝言役は皆に謝ったか? 

 答えはノーだ。そいつは事もあろうに、転校生には伝えた。あの子がルールを破ったのだと吹聴したのだ。転校生の言い分か、クラスメイトの言い分か、皆がどちらを信じるかは明らかだった。

その日から、転校生の女の子はクラスから孤立した。

 誰もが彼女を無視するのはもちろん、プリントを配る時もわざと彼女のところで足りなくしたり、教科書や机に落書きしたりした。元々笑顔の絶えなかったその子は、日に日に元気を失っていった。

 いじめていたのは数人に過ぎなかったが、他の皆はそれを見て見ぬふりをするしかなかった。誰一人、僕も含めて巻き込まれたくなかった。

 当時、学級委員だった僕は、最初は傍観しようと思っていた。けれど、ある時、自分の机の落書きを泣きながら消している彼女を見てしまい、急に自分が恥ずかしくなった。胸が燃えるような感覚を覚えたまま、愚かな行動を取った。思えば、その時から、僕の日常にヒビが入るきっかけとなった。

 担任に事情を話して説得した僕は、終礼の際に彼女のいじめを題材に上げた。これは皆の問題だ。このままほっていいのか。

 僕はいじめ解決を訴えた。

「ありがとう」

 帰り際に彼女からそう言われた時は、恥ずかしいような嬉しいのか分からない達成感で満ち溢れたのを覚えている。いじめていた女子達は、彼女に謝った。これでいじめはなくなる。この時ばかりはそう信じて疑わなかった。

 翌日、教室に自分の机がいつもの場所になかった。

『宮地京介はうらぎりもの!』

 裏切り者――黒板に書かれた言葉が胸に刺さり、世間知らずの脳みそを揺さぶった。ここに至って、自分の甘さを思い知ったのだ。

 不登校になるまでの数日間一番辛かったのは、ガキ大将の竜田にトイレに閉じ目こられた事でも、上履きや靴を切り裂かれた事じゃない。

 いじめから救ったはずの彼女は怯えたように目をそらした事だ。あの子は保身に走った。それが間違っているかどうかもどうでもいい。とにかく、この時点で、自分の中でスイッチが切れた。何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。

 過去に思いを巡らしていた僕の頭に何かが当たった。

床に紙飛行機が落ちていた。どうやら、窓から入ってきたらしい。

「たく……」

 僕は紙飛行機を外へ飛ばした。すると、また一機飛んで入ってきた。

「何なんだよ」

 紙飛行機を拾い上げて、丸めるとゴミ箱へシュートした。しかし、縁に当たり床に落ちた。本当にうまくいかないものだ。

 紙クズを捨てようとした時、ある事に気がついた。

 紙飛行機に何かが書かれている。文字のようだ。丸い紙クズを広げた。そこに書かれていたメッセージに心臓が凍った。

『たすけて』

 SOS。紙飛行機の持ち主が助けを求めている。

 ……いや、待てよ。熱い頭を落ち着かせて、僕は冷静に考えてみた。きっと、また、安西さんの仕業に決まっている。僕に外へ出させるための作戦に違いない。さすがに、こんな幼稚な手にかかるほど馬鹿ではない。

 僕は窓から外を眺めた。彼女がいたら、こう言ってやるつもりだった。こんなもので外に出ると思っているのか。

 ところが、家の前に安西さんの姿はない。池沢くん達すらいない。担がれたのか? そう思った矢先――。

「たすけてっ! 誰かぁ!」

 家の向かいを流れる堤防、その下を流れる川に浮かんで、低学年ぐらいの女の子が両手をばたつかせていた。僕は唖然としたまま、立ち尽くしていた。

「だれかあ、だれか助けて!」

 僕は部屋を出ようとしたが、窓の方が速いと思い、窓辺に手をかけて屋根に出た。無我夢中で梯子を滑り降りると、裸足のまま門を走り抜け、堤防に飛び降りた。川面にゴミが少ないのは、最近、自治会の人達が掃除したばかりだったが、深さはかなりある。

 浮輪を持ってこなかったのを後悔したが、考えている暇はなかった。僕は泳ぎながら溺れかけた少女に近づいた。

「もう大丈夫だ! お兄ちゃんに捕まって」

 振り向いた女の子は僕を確認すると、頭上に向かって大声をかけた。

「助けに来てくれた!」

 その時、頭上からロープが落ちてきた。

「それに捕まって」

 頭上から声をかける主には見覚えがあった。

「安西さん?」

 茫然とする僕をよそに、女の子は縄梯子を登っていく。僕も仕方がないので後に続く。上がりきると、やはり、安西さんが目の前にいた。

「ほら、外に出られたでしょ」

「こんなの詐欺だ。この子は誰なんだ?」

「俺の妹のあかねだ」と、彼女の横に立つ仲上くんがタオルを寄こした。「こいつはな、自分の計画のためなら、オレの妹まで利用しようとするんだ。とんでもない、極悪な奴、ぐわぁ!」

 最後の悲鳴、安西さんに足を踏まれたせいだった。

「ごめんなさい。だますつもりはなったの」

「思いっきりだまされたけど」

「あれぐらいでひっかからないと思って」

 目の前に溺れている人がいて、芝居をしていると思う人間がどれだけいるだろうか。

「これで僕を外に出せて満足なんだろ」

「いいえ」

 安西さんは首を振った。

「どうしてこんな悪ふざけをしたんだよ。悪趣味が過ぎるじゃないか」

「宮地くんが、人を助けるかどうか確かめたかったの」

「人を助けるのは当然だと思うけど」

「宮地くんは引きこもりなんだよ。人を助けては駄目なの。世間に背を向けているんだから。引きこもるというのは、そういう事なの」

 安西さんはそう言うと「帰るわよ」と仲上くんと彼の妹を呼んだ。

「おい、いいのかよ? 京介を説得するんじゃなかったのか」

「こんなのナンセンスよ。馬鹿げた猿芝居で出てこられても何の意味もないの。でも、宮地くんが人助けをしてホントによかった。それを喜ぶ人もいる。明日、楽しみにしとくから」

「期待しないでよ」

「じゃあ、勝手に信じとく」

 そう言い残して、安西さん一行は帰っていった。

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