悩みなき、人生!
中学生の怜菜は、幼い頃から非常に悩み多き女の子だった。
周囲からどう思われているのか、嫌われていないだろうか、といった人間関係の悩みはもちろん、ラーメンを一通り食べ終えたあと、最後に水を飲んで口の中をスッキリさせて締めくくるか、はたまた最後にスープを飲んで、口の中でしばらくラーメンの味の余韻を残しておくか、といったささいな悩みまで。
とにかく大なり小なり様々なことで悩んでは、ここまで苦しい人生を歩んできた。
怜菜は趣味で書いている小説にそうした悩みを反映させ、ストレスを発散させていたが、それでも、この胸の苦しみから解放されることはなかった。
ある日いつものように部屋で小説を執筆していた怜菜は、突然ペンを置き、ついに自分の性格に我慢できなくなって、声を大にして叫んだ。
「あぁ!わたしはどうしていつもウジウジ悩んでいるのかしら!一度でいいから、悩みのない人生を送ってみたい!」
「その願い、叶えて差し上げましょう」
突然、天井から声がした。
怜菜はびっくりして椅子から転げ落ちた。
「だ、誰!?」
すると何ということだろう、天井に白い人影のようなものがうっすら浮かんだかと思うと、またたく間に羽の生えた美しい女性が姿を現した。
「驚かせてごめんなさいね。わたし、天使のヴィルヘルミーナ。偶然、空を散歩してたら突然大きな声が聞こえてね。ついお邪魔してしまいましたの。素敵なお部屋ね」
怜菜は目を丸くした。
「て、天使? 嘘でしょ?」
「本当よ。いまフッとあなたの前に現れてみせたでしょう?わざわざ神様っぽく登場してあげたってのに」
「知ったこっちゃないわ。とにかく、勝手にわたしの部屋に入ってこないでよ。あんたのやってることはあれよ、家宅侵入罪ってやつよ」
ポピンズは肩をすくめて笑った。
「人間がこのアタシを裁けるわけないでしょ?だってアタシ神様なんだから」
「ぐぬぬ……」
「何がなんでもわたしが天使だと信じないおつもり?」
「ええ」
「じゃあ、これでどうかしら?タッタカタ♪」
ポピンズはステッキを取り出し、怜菜に向けて呪文のようなものを唱
えた。
「どう?」
「どうとは?」
怜菜は首をかしげた。
「自分の中で、何か変わった気がしない?」
「変わっただって?うーん、そういえば何だか胸元がスッキリしたような…あ!」
怜菜は再び大声を挙げた。
「な、悩みがなくなっている!」
「そう。今わたしがあなたに掛けたのは、悩みがなくなる魔法。これであなたは今後いっさい悩むことはないわ」
「ほ、本当なの?」
「ええ。どう、これで信じてくれるかしら?」
「信じるとわ、信じるわ!」
その日から、怜菜の人生はバラ色だった。なにせ悩むことがなくなったので、やりたいことを大いにやって、良い高校・大学に入学し、最終的には作家になった。そして次々に本を出版した。それらは飛ぶように売れ、怜菜はあっという間に金持ちになった。
悩まなくなった怜菜は、お金の使い方も当然派手。稼いだお金で家を大きくし、それでもお金が余るので宝石を買い、服を買い、毎日おいしい料理を食べた。
いくら浪費しても、本を出せばまたお金が入ってくる。
何も心配はいらない。苦しむ必要はない。
しかし、幸せであるはずの怜菜は、何か奇妙な感覚にとらわれていた。
いくらモノを買っても、いくら遊んでも、いっこうに心が満足しないのだ。
「うーん、これは一体どういうこと?」
「怜菜は、だんだん毎日の生活に飽きるようになっていってしまった。
「こんな退屈な気分になるのは、もしかしたら、毎日同じ家にいるからかもしれないわね。気晴らしに旅行でもしてみようかな」
怜菜は、さっそく南の島へ一週間滞在する計画を立てた。
有り余るお金で船を買い、当日は船にたくさんの荷物を積んで、南の島へ出かけた。
「何だか船の進む速度が遅いなぁ……」
船を操縦しながら怜菜は思った。
「そうか、荷物があり過ぎてノロノロとしか進めないんだ。荷物の中には特に大切なものも入ってないし、島に着いたらまた買えばいい。荷物を海に捨ててしまおう」
怜菜は早く島に着きたい一心から、自宅から持ってきた荷物を大なり小なり、次々に海へ捨てていった。
「さぁ、これで船は軽くなったわ。島まではあっという間に着けるはずよ」
ところが、怜菜の考えとは裏腹に、荷物を失った船は不安定になってしまい、前にうまく進めないではないか。
船は同じ場所をいつまでもグルグル回っている。
「これじゃ堂々巡りだわ」
怜菜は船の体勢を立て直そうと思い切り舵を切った。しかし、それがまずかった。
「うわあああ」
急な操縦をしたせいで、荷物を積んでない軽い船はあっという間に転覆してしまった。
海に投げ出された怜菜は近くを漂う丸太に掴まり、かろうじて溺死を免れることができた。
それから三日三晩、怜菜は飲まず食わず海を漂流し続けた。
いい加減に喉が渇き、我慢できずに海水を飲んでみる。塩辛い。喉がかわく。だから余計に海水を飲もうとする。塩辛い。さらに喉が渇く。
「誰かー!誰か助けてー!」
怜菜は必死に助けを求めた。
「全く、見てられないわね」
怜菜の頭上に、ヴィルヘルミーナが現れた。
「ヴィルヘルミーナ、助けて!このままじゃ死んじゃう!!」
「怜菜。わたし、あなたにひとつだけ嘘をついたの」
「え、なに!?」
「わたしがあなたの部屋にやってきたのは、偶然じゃないの。あなたの人間性に惹かれたからよ」
「そ、それはどういう…ゴボゴボ」
体力的に限界だった怜菜は話の途中で力尽きて沈んでしまった。
「あぁ、そうか。こんな状態じゃ話を聴いてる余裕はないわね。タッタカタ♪」
再びヴィルヘルミーナがステッキを取り出しあの呪文を唱えると、次の瞬間、海水は消え、怜菜は懐かしい場所に戻っていた。
かつての自分の部屋。身長も縮んでおり、中学生の頃の自分に戻っていた。
怜菜は椅子から転げ落ちており、何もかもヴィルヘルミーナと出会った時の状態に戻っていた。
家も元の大きさに戻り、宝石も、服もなくなっていた。そして、胸の奥には、あの重々しい“アレ”が渦巻いていた。
「悩みなき人生はどうだった?」
ヴィルヘルミーナが尋ねた。
怜菜はもう一度椅子に座り直して、苦笑いを見せて応えた。
「もういいわ。あんな味気ない人生は」