13.黒井家
黒井家は高級住宅が立ち並ぶ閑静な住宅街の奥の方にあり、一目見て金持ちの家という感じがあった。黒井家の主人であった博士は、いわゆる会社役員と呼ばれる高所得層の人間であり、その娘、綾香と付き合っていた流山は将来を約束された人間といえるだろう。流山は博士が会社役員を勤める会社でエリート社員と呼ばれる人間だったらしく、綾香と交際を許されていたのも納得がいく話だ。当然付き合うとなればそれなりの覚悟はしていただろうし、結婚が嫌になったという理由で一家全員を殺害するのはどう考えても不自然といえた。
黒井家での捜索に関して警察に相談したところ、予想通りなんだかんだと先延ばしにされた。長いようで短かった夏休みが明けて10月となり、夏の熱気も冷め比較的過ごしやすい日々が続いていた。俺は警察から許可が下りるまで時間が掛かると踏んで、大学へ行って休学の手続きをした。大学では学長に呼び出され、この休学は公休扱いとなり、大学生活の不利益にはならないし、その間の学費も免除となるという説明であった。事前に法務省から根回しがあったらしい。まさか学生の執行人活動に関して、学長自ら説明があるとは思ってもいなかったが、学校側も前代未聞のことであり対応に苦慮しているのだろう。
警察には何度も連絡し、特に他意はなく自分自身が納得したいとの理由で黒井家の捜索を懇願した結果、10月も半ばに入った頃にようやく松戸というこの間不在にしていた担当刑事と現場へ同行することとなった。松戸は40台半ばのベテラン刑事という風格があり、この間の若い刑事と比べ素人から見ても只者ではないといった印象があった。俺と会っても変に動揺することなく疑っているようにも感じられないが、きっとそのような感情を殺して悟られないようにしているのだろう。世間話も自然で現場慣れしている感じがした。
「しかし、あんたも物好きだねえ。学校まで休んでもう終わった事件を調査するなんて」
黒井家の玄関の鍵を開けながら松戸はちょっと低めの声で俺にそう言った。
「特に何かがあるというわけではないのです。刑の執行に先立ち、この事件をよく知りたいと考えました。流山死刑囚にも会ってきました」
「ほう、流山に会ったのかい。何か言っていたかな?」
「この事件は自分がやったと言っていました。調べてもそれ以上のことは何も出てこないと」
「あの流山が自分でやったと言ったのかい?」
玄関の鍵を引き抜くと、松戸は俺の顔を見た。少し、驚いているようだ。
「ええ。自分がやったと。動機は結婚するのが嫌だったということでした」
松戸は両目を右側に寄せて、ほんの少しだけ考えていた。
「そうかい。取調べでも裁判でも全く証言しなかったあいつがねえ……」
松戸はドアを開ける。少し広めの玄関は静かで、綺麗に靴が並んでいた。すぐ正面の右側には階段があり、階段のすぐ横の通路の左側に扉がある。
「現場は片付けたので、殺害の痕跡は無いよ。私は1階のリビングで待っているから、自由に調べるといい」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
俺は靴を脱ぐと、左側の扉に入った。リビングルームのようだ。続けて松戸が入る。
「ここがリビングルームで、両親の殺害場所であり遺体の発見現場。で、その奥がキッチン。こちら側の奥は夫婦の寝室。娘の遺体が発見された本人の部屋は二階だ。ちなみに階段横の通路の奥がバスルームやら、トイレだな。他に調べたいところがあれば遠慮なく聞くと良い。俺はこのソファーに座って待っているから」
松戸はソファーに座ってくつろぎ始めた。犯行現場でくつろぐなんてどうかと思うが、この刑事にとって犯行現場は普段の生活スペースと大して変わらないのだろう。
俺は綾香の両腕を切断した道具を探すことにした。
リビングルームは殺害現場とは思えないほど綺麗に片付いており、血の一滴も見あたらない。高そうな花瓶や大きいテレビなどが置いてあり、いずれも高級品で一般人が手にすることがないようなものばかりだ。高級そうな木材を使った棚の中にはアンティークの食器や英語ではない文字で書かれたラベルのワインがびっしりと並んでいるが、特に事件に関係しそうなものは無い。警察が調べているのだから、そんなものがあればとっくに証拠品として押収されているだろう。
俺はキッチンに入った。キッチンの引き出しや扉を片っ端から開ける。まな板、フライパン、鍋、おたま、アルミホイル、ラップ、どこにでもありそうな調理器具が出てくる。だが、俺の家にあるのにこの家に無いものがあった。料理をする家には必ずあり、切断するのに適した、料理人の命と呼べるもの。
無い……、包丁が。包丁は証拠品の中には無かった。切断した道具は包丁?
「松戸さん、すみません」
俺はソファーに座っている松戸に声をかけた。松戸は背中をこちらに向けたまま、顔だけこちらを向けた。
「何だい? 何か見つかったのかい?」
「キッチンが変なんです」
松戸は立ち上がると、キッチンへやってきた。
「何か変に感じませんか?」
松戸は引き出しや収納棚の奥など、俺が開いた場所を丹念に見ていった。
「無いね。包丁が」
「そうです。包丁が無いのです。警察で押収したりはしていませんか? 私の記憶では証拠物件の中には包丁が無かったと記憶しています」
「証拠物件として包丁は押収していない。刃物は犯行に使われたサバイバルナイフだけだ。そうだとすると、包丁が消えたのは何故だ…、と言いたいのだね? なるほど。いや、恐れ入った。君は両腕の切断にナイフが使われていないので、他に切断した道具があると考えたのだね。あいつに見習わせたいぐらいだよ」
「仮に包丁で遺体を切断したとしても、なぜナイフと一緒に包丁を隠さなかったのか。または、包丁と一緒にナイフを処分しなかったのか。犯人は流山で確定しているとは思うのですが、細かいことが気になって……」
松戸は俺から背を向けると、少し上を見た。俺は松戸の背中を見る。
「君はまだ若いのに、非常に優れた観察力を持っているようだ。だが、これ以上の調査は止めておいたほうが良い。生きていくとどうにもならないことはこれから先きっと沢山出てくるだろう。これもそのひとつなんだ。調査し続ければ、きっと君にとって不幸なことになる。知らないということも時には大事なことなんだよ」
松戸は何かに気がついたようだった。これ以上調べるなという警察からの警告にも聞こえるが、その声は警告というよりも、本当に俺を案じてそう言っているようであった。
「これ以上は警察は協力しないということですか?」
「いや、そういうことを言っているのではない。この件をこれ以上調べても誰にとっても良い結果にはならないということだ。私も真実を知りたい気持ちがあるんだ。だけど、好奇心というのは時に身を滅ぼす。これは警告というより、人生の先輩としての忠告だ。執行人として君がするべきことは、事件を再調査するのではなく、事実が何であれ刑を執行することだ」
「忠告ありがとうございます。でも、私はこの事件を誰よりも知ろうと決めたのです。松戸さんが案じていることは何だかわかりませんが、調査を止める気はありません」
「そうか。もう止めはしない。勘違いしないで欲しいのは決して警察として協力を拒むために言っているわけではないんだ。必要であれば協力はする。包丁に関しては最初はそれが殺害に使用した凶器と思われていた。しかし、後から決定的な証拠であるサバイバルナイフが見つかったので、包丁が無くなった件が捜査上から消えた。殺人の件がほぼ決定的になったので、死体損壊の件はほとんど捜査していない」
「新しい情報ありがとうございます。私のことならば大丈夫です。私は自分が調査した結果がどうであれ受け入れる覚悟はできています」
松戸は後ろを振り返らずにソファーに戻った。俺は松戸が言った、好奇心が身を滅ぼす、ということの意味を考えていた。口ではああ言ったが、身を滅ぼしかねない事態になったときに、本当にそれを受け入れることができるのだろうか。自分の選択に対するわずかな不安を拭い去ることができないでいた。




