10.完璧な犯罪者
「えーっと。遺体の写真も見るの?」
短髪の若い刑事が手に持った写真を掲げて、なれなれしい顔をして俺の方を向いた。俺は首を縦に振ると、事件の証拠品が乗っている机の上の脇を通って、刑事のほうへ歩き出した。
俺は流山が犯した殺人事件のことを調査するため、家から2時間ほど電車に乗り継いだところにある県警に来ていた。例のごとく、中に入るときは受付で1時間ぐらい待たされた。待っている間、受付の前の長椅子に座っていると、受付の奥では数人集まり、慌しくなっているのが見えた。前例のないことなのだから慎重になるのは仕方が無いが、法務省から連絡しておいて欲しいものだ。
俺は奥まで通されると、担当刑事の下で一緒に捜査していたという若い刑事を紹介された。今、証拠品を一緒に見ている男である。事件を良く知る担当刑事は外出で不在とのことで、証拠品を見せてもらうにした。俺は刑事が持っている写真を覗き込もうとした。すると、刑事は少し写真を俺から見えない位置まで移動した。
「本当に見るの? あまりお勧めしないよ?」
刑事が言いたいことは大体分かる。そこには普段は見ることの無い、凄惨な殺人現場や遺体、凶器などが写っているのだろう。そんなものを耐性のない人間がみたら、場合によっては吐き気を催すことだってあるのだろう。
「拝見させてもらいます。覚悟はできているつもりです」
「そうかい。後悔しても知らないよ」
刑事は写真を裏側にして俺の目の前に差し出してきた。俺は写真を受け取り、ゆっくりとひっくり返す。一枚目の写真は何が写っているか分からなかった。写真全体が赤黒く、良く見ても何なのか良く分からない。
「これは何ですか?」
俺は刑事に写真を見せた。
「遺体の写真だよ。これは父親、黒井博士だね」
赤黒くなっており、何だか識別ができない。一体、何をすればこんな状態になるのか。気持ち悪い以前に、どこをどう見ても何が何なのか分からない。
「それは流山によって刺された遺体の表面だよ。流山は体の表面を胸から腹にかけてこれ以上ないぐらいナイフを使って、滅多刺しにした。もはやどの傷が致命傷になったか分からないぐらい、徹底的に刺したようだ」
滅多刺しにする犯人の心理というのを以前テレビか何かで聞いたことがある。被害者に強い恨みがある場合に加害者は滅多刺しにするという話だった。流山は恋人の父親にそこまで強い恨みを抱いていたというのか。
束ねられた写真を一枚ずつめくっていくと、説明するのが憚られる、いや説明する言葉が見つからないほど状態の酷い、明らかに遺体と分かる写真が出てきた。気分が悪い。俺は咄嗟に目を背ける。
「ほらね。ここにあるのは、こういう写真ばかりだよ」
「いえ。大丈夫です」
俺は画面して写真をめくり続けた。遺体の形状が変わる。大きさが先ほどのものよりも小さい。女性のものと思われる遺体の写真だった。これも父親と同じく滅多刺しにされていた。
「それは母親、黒井道子だね。先ほどの父親のものと同じくナイフで滅多刺し。何もここまですることは無いとは思うんだよな。一体何の恨みがあるというのか」
写真を次々にめくっていく。やはり、何が何だか分からない写真が続く。何枚かめくった後、突然真っ赤ではない普通の写真が出てきた。目をつぶった女性の顔から首に掛けての写真だ。首筋には赤紫色の跡があり、どうやって殺害されたかが一目瞭然であった。
「それは流山の恋人である黒井綾香。両親とは違い絞殺されている。先ほどまでとは違って、きれいなもんだよ。一部を除いてはね」
「一部を除いて?」
俺は写真をめくっていく。すると、肩から下、両腕が上腕部から無い上半身の異様な写真が出てきた。
「両腕が無い?」
「そう。絞殺後に方法は不明だが両腕を切断している。なぜ、こんなことをしたのか分からないけど、とにかく切断して両腕をどこかに捨てた。腕はいまだに見つかっていない。罪状に遺体損壊があるのは、それが理由だよ」
「恋人だけ殺害後に両腕を切断し、隠した? なぜ、そんなことを……」
「さあ。恋人だけ殺し方が異なるから、特別な嗜好でもあるのかもね。それだけではなく、その遺体にはおかしなことがまだあるんだ」
「おかしなこと?」
「先ほどの顔を見て何か気がついたことはないかい?」
俺は写真を何枚か戻し、黒井綾香の顔のアップの写真を見た。顔色が悪いぐらいで、特におかしな部分は無いように見える。
「分からないかい。彼女は年頃の女性なのに、化粧をしていない」
「化粧をしていない?」
「そう。実はその遺体だけ、殺害後に洗った形跡が見られる。化粧はそのときに落ちたものだろう」
「洗った? 遺体をですか? 何のためにそんなことを……?」
「理由はわからない。その遺体を解剖した結果から、殺害後にその遺体が洗われたというのははっきりしている。腕を切り落としたときに汚れて、血を落とすために綺麗にしたのかもしれない。彼女の両親の遺体をあれだけ滅多刺しにしておいて、恋人の遺体はご丁寧に洗った上で下着や服まで着せるとは、どういう神経の持ち主なのか良く分からない」
流山は確か殺したときのことを覚えていないと言っていた。殺したことを忘れてしまうような心理状態で、遺体の腕を切り落とし、綺麗に洗い服を着せるなんてできるものなのか。切り替えが早いというレベルの話ではない。刑事の言ったとおり、どういう神経をしているのか本当に分からない。
「殺害した凶器はどれですか?」
「ああ。ここにあるね。これとこれかな」
机の上にある袋に入った二つの証拠品を指差した。ごついナイフと細い女物のベルトの様だ。ごついナイフの方は現物を今まで見たことが無いが、サバイバルナイフと言われるものだろうか。刃の反対側は鋸のような形状をしていた。
「犯人はこんなごついナイフを持ち歩いていたのですか?」
「いつも持ち歩いていたかはわからないけどね。殺害直前に流山が購入していたことが分かっている。そのナイフは流山の家から出てきたものだ。そこから被害者の血液が出てきた。これが決定的な証拠になった。ベルトの方は被害者の部屋にあったんだが、そのベルトを強く握った跡が流山の手のひらから検出された」
「そこまで決定的な証拠が出てきたのに、無実を主張していたのですか?」
「ああ。自分は無実だ、はめられたの一点張り。それだけじゃない。奴は黒井家のありとあらゆる場所から自分の指紋を拭き取って、証拠隠滅までした。恋人なんだから流山の指紋はあってもおかしくはないのに、なぜかひとつも出てこなかった。おかしいだろう。もちろん、奴が彼女の家に訪れていたことは聞き込みで確認済みだよ」
刑事の話をそのまま受け止めると、流山が完璧な犯人なのは明白だった。死体損壊の件など一部不明な点はあるが、証拠が完璧に揃っており、疑う余地の無い黒。どとめは余りにも分かりやすい、間抜けな証拠隠滅。ここまで完璧だと、無実の理由を思いつかないほどだ。これでは、控訴を諦めても仕方がないような気がした。
「まだ調べるかい。ここまで疑いようが無いとね、弁護士が可哀想だよ」
「そうですね。刑事さんの話を聞いていると、疑う余地が無いですね。ただ、私はこの事件に関して誰よりも理解しようって決めたんです。刑事さんの話を聞いていると、まだ分からない点があります。なぜ、恋人の両親を滅多刺しにして、恋人は絞殺なのか。なぜ、恋人の遺体を洗ったのか。なぜ、両腕を切断したのか。調べても大したことは分からないかもしれませんが」
確かに流山が犯人なのは疑いがないのだろう。だが、刑事の話からも流山と直接話をしたときに感じた違和感と同じものを感じるのだ。俺はその違和感の正体がどうしても知りたかった。