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白降る夜よ、真夏の夢よ

作者: Iolite

 シリーズ五作目。前作「ローテート・エクセプテット」からそのまま続いています。

 色づけされた風が上空でワルツを踊っていた。

 朽葉と土塊、折れ枝の茶とビニルの透明、濡れた紙の滲んだ黒と濁った空を反射する雨の鈍色に、時折混じって若葉の緑、誰かから毟り取ったコートの赤、ステンレスらしき銀が舞っている。くすんでいて地味な色のなかに鮮やかな色が点滅する様はカーペットの裏を捲り上げたときのように、或いは気に入ってはいるが最近読み返していない本の上に積もった埃のように、危険なものというわけではないが見ていて愉快なものというわけでもない、はずだった。

 ワルツ、と形容したものの、それは果たして舞踏に分類できるのだろうか。だが踊っている当事者は心底楽しそうではある。周囲の大気はもちろん、地上の植物、それも草木というより根強い大樹を巻き込み、折れたこうもり傘、それどころか自転車、どこからかもぎ取ってきた看板、小屋か家の名残、そういったものをぐんぐん飲み込み、フラフープばりに腹で回している。

 見ている彼の倍以上生きているだろう樹々が、平伏するように母なる大地に身を投げだしている。反対側では同じような樹が、髪を引っ掴まれて引き摺られる乙女のように仰け反り、枝葉を振って許しを請う。彼が見ている間にも、耐えきれなかった樹の幹が弓形の頂点に亀裂を生じさせ、そこから稲妻のようにぎざぎざと線が奔ると、隙間から外皮よりも若い色を曝け出す。それは人の手で加工されたどんなものとも違う鋭さを備え持っていた。

 支えを失くした首のように、樹の半身は地に落ちた。しかし強欲なる嵐はそれさえ掻っ攫って上空まで飛ばす。弄ばれ、嬲られた樹はそう時間もかからず砕かれ毟られ、さらに砕けた。木端が吹雪のように上と下の彼方此方に舞い散る。夕餉の席で出された蟹の足を折ったときのような、身を食べる喜びとは違った、薄ら暗い達成感を伴う光景だった。

 彼の頭上にも木端は降り注ぐ。豪風に身体を持って行かれないよう、地に伏せているため、とっさに避けるためには方法は一つしかない。彼は丸太のごとく身体を横回転させた。目は見開いたままだった。

 嵐は、折ったものも攫ったものも奪ったものも毟ったものも犯したものも殺したものも総て喰らってその内に孕んで、勢力も速さも弱める兆しがない。生まれてから半年の赤子が繰り返す無邪気なでんぐり返しのよう。地をべちゃべちゃ潰して、天をぼかぼか殴って、暴君のように喰らっては逆巻く。吐き出しては壊す。繰り返す。踊る。跳ねる。奔る。駆ける。飛ぶ。伸ばす。

 それでも彼は、逆らった。服が裂け、骨が軋もうと。絶対にそれだけは、手放さなかった。やっと掛けることが許された眼鏡が、手に入れた視界が、吹き飛ばされてしまわないように。


“特別なことをするのは、特別な日でなくっちゃ”


 だからといってこんな嵐の日にしなくても、とは思った。しかし、いまはとても満ち足りている。生まれて初めての視界。いままでついてきたあらゆる呪いが遮断された風景。余計なものなど何も付加されない、自然のままのあらしのひ。

 雨粒に混じって大きな雫が彼の顔の周りを舞って頬を打った。何度か瞬きを繰り返して視界をクリアに保つ。しかし、やはり泣かずにはいられない。その剥きだしの美しさに。ありのままの逞しさに。種明かしのされない神秘に。それは夕立だろうが黎明だろうがなんでもない青空だろうが曇天だろうが同じだっただろう。しかし彼はこの嵐の日を生涯忘れない。

 自然の脅威とはまた違ったものの感動に打ちひしがれていたせいで、しばらく気づかなかった。乱暴な風のなかでもみくちゃにされる女性の姿に。彼女は箒に跨っていた。そして何か叫んでいた。凡そ世界中のアトラクションを漁ってもこれほど危険なことはないだろう。だから「たすけて~」とか言っているのかな。風音や他の音のせいで聞こえやしない。『眼で聴く』にしても、眼鏡を掛けたままだし。


 たとえ嵐が来ると判っていても行ってしまう人だった。つまりは無謀だ。浅慮なわけではない。むしろ頭は良いほうで、博識と聡明さを併せ持つ人だった。それでも嵐が来るぞ→飛ばないと! となる。なぜなら“特別な日には、特別なことをしなくちゃならないでしょ!”……わけわからん。

 身体は丈夫だから、嵐のなかで洗濯機のなかのブラウスよろしくぐるぐる潰されてもけろりとしている。そのせいで懲りない。でも常識は人一倍持ち合わせていた。倫理道徳に忠実でもあった。一方で背徳的なことに積極的に関わってもいた。好奇心旺盛で、よく笑いよく食べ、そしてふと冷徹なことをいう。残酷なことをずけずけ言って、人が注意反論すると逆ギレする。飲んだくれてはセクハラし、酔いが醒めて反省してはまた同じことを繰り返す。意地っ張りで泣き虫、だらしがなくてしっかり者。現実主義者でロマンチスト。彼――春秋冬(なつなし)朋尋(ともひろ)の師匠は、実に魔女らしい魔女だった。

 なぜ師の元を出て何年も経ったいま、彼女のことを思い出したのかというと……。朋尋とは違い、彼女はあらゆる魔法に精通した魔法使いで、特に支配・強制系統の魔法に優れていた。因みに、朋尋の使う『語りかける』魔法は、それとはやや系統が異なる。

 とにかく、彼女は人を意のままにする術に長けていた。長けてはいたが、妙に初心なところがあり、異性に対して彼自身の心から愛情を注いでくれることを期待していた。因みに、幸か不幸か、朋尋は異性として見られたことはなかった。

 そんな彼女の口癖が、先ほどの“特別なことをするのは……”の他にもう一つあった。因みに、朋尋の口癖は、……いや、くどいのでやめておこう。


“一度でいいから若くてハンサムな男に壁際に追い詰められてきゅんきゅんしたい”


 それが彼女の口癖である。だから朋尋の脳裏にはとっさに、過去がフラッシュバックした。


 なぜなら、朋尋は若いイケメンに絶賛壁ドンされているからである。


*      *      *

 大通りより遥かに人口は減るものの、それでもそこそこ人のいる裏通りの、さらに人一人がやっと通れるくらいの道とはいえない建物の隙間に朋尋を押し込んだところで、松見(まつみ)はようやく“悪魔”の拘束を解いた。息つく暇もなく壁際に追い詰めて逞しい腕によって退路を塞ぐ。

 その様子を、千織(ちおり)は気が気でなく見守っていた。松見は普段千織やふすらを相手にするときからは考えられないほど真剣な眼差しをしていて、しかもそれは友人に向けるというよりは尋問するときのものだった。対する朋尋もまた、本来なら竦み上がってしまうような朱の視線を受けてなお、眼鏡越しに睨み返している。一触即発。“事務所”のエージェント、超異の者と者との対峙。一つ間違えれば賑わう東京の街が別の種類の声に塗れる。

 そんな千織の心情を知ってか知らずか、松見は静かに口を開く。

「……数日前、上野で大掛かりな式が打たれてるのを見つけた。スエキチに調べてもらったんだが、どうやら品川にも同じ式が張られていたらしい」

 松見は懐から四つ折りの紙を取り出し、器用に片手だけで開いた。そこには円を基調とした、数種類の図形と文字が組み合わされた、複雑だが洗練された美しさを持つ図面が描かれていた。

「この形、このパターン、この文字の選び方……これを仕掛けたのはおまえで間違いないな、トモヒロ」

 あくまで仲の良い友人に呼びかける口調のまま、松見は問いかける。

「おまえ……いったい何を企んでる? 何を隠してる?」

 いきなり、松見は朋尋の口元を押さえつけた。当事者ではなく傍観者であるはずの千織の全身が鳥肌に包まれる。奏碧(そうへき)から貰ったばかりのストールが、染料が落ちてしまうのではないかというほどの汗で濡れていた。

「いまからマスクを外すから答えろ。余計なことを言ったり、“言葉”を使って逃げようとしたりしたら死ぬぞ。俺が」

 朋尋の瞳に初めて動揺らしきものが瞬いた。脅迫がうまい、と千織は感心する。

 朋尋の“全視全能”の力は一度解放すれば何人たりとも、生物だろうと概念だろうと、場所だろうと空気だろうと、神でさえ抗うことができない。松見なら眼鏡を外していない状態でも、視ることができなくても見れば充分だ。心情的なものではなく能力的なものでも、松見は朋尋に危害を与えることはできない。しかし。

 松見が松見を人質に取る場合、話は別だ。朋尋は眼鏡を外して視認したうえで状況を把握し、言葉を選びつつ慎重に世界を改変しなくてはならない。対して、松見は一瞬だ。敢えて“悪魔”に対する抵抗を弱めるだけでいい。それだけで人間・松見瀧弥(たきや)はこの世から消え去る。

「俺が死ぬのを阻止したらスエキチを殺す」

 松見はさらに逃げ道を完全に塞いだ。青年の握力でひしゃげたマスクが乱暴に毟り取られる。弾みで、耳に掛かっていたゴムが押さえつけられた若者の頬を叩いた。

 ……。

 解放された若者は一瞬虚空を吸い込んですぐ二酸化炭素に変換した。そして向かう、“悪魔憑き”に。


【タキヤの、いじわる】


 千織が盛大に吹き出す音と笑い声は大通りまで届いた。

 水下に彼女自身のキックをかまされたかのように少女は腹を押さえてげらげらと節操なく笑い転げる。使い方を間違えれば取り返しのつかないことになりかねない強大で危険な力で、よりにもよって。事実以外を述べたら世界を作り変えてしまう口でもって。だが、これほど端的に、的確に、松見を言い表した言葉はない!

「……あ?」

 目の前で拗ねたような眼をしている友人と背後で笑いの暴発を起こしている相棒への不機嫌を隠そうともせず、松見は最高に柄の悪い声を出す。こめかみに筋が立っている。

 一頻り、人の悪口で気持ちよく笑うという行儀の悪いことを敢行した千織は、ふと我に返って首を傾げる。依然、緊張的な状況に変わりはない。しかし言葉選びに関しては誰よりも慎重な朋尋がいま、この状況で敢えてそのようなことを言ったのには意味があるはずだった。

 朋尋は浅く溜息をつくと、言葉を選びつつ語り始めた。

【隠してたわけじゃない。ただ確信が持てなかったから相談できなかった。それにタキヤは……タキヤ達は……】

 朋尋は言葉を切った。

「はっきり言えよ」

 苛立った声で、松見が急かす。表面上は静かだが、内面では結構興奮しているようだった。自分達が生活している場所に、一般人には感知できない呪いか何かが仕掛けてあったことへの恐怖、ではない。友人が――松見にとって掛け替えのない、境遇を共有できる親友が隠し事をしていたことに、憤っているのだ。

【タキヤ……おまえ、“事務所”を敵に回す覚悟はあるか?】

「……なに?」

 朋尋はまるで犬がそうするように、興奮した自他を落ち着かせるために軽く首を振った。

【タキヤ、考えたことないか? どうして“事務所”がエネルギーを求めるのか。怪異から集めたエネルギーで、何をするつもりなのか】

 年若い魔法使いはまっすぐに松見の眼を見つめた。眼鏡に遠くの灯が反射して、彼の多彩な黒が躍る瞳を彩る。

【どうして石油や太陽光じゃだめで、わざわざ怪異発生の際に生成される特殊なエネルギーを集めているのか。そのために、敢えて“時計仕掛けの霊柩車”なんてものを放置している。この“事務所”のやり方に、何か思うことはないか?】

「……そんなこと」

 青年の、形の良い喉がくい、と動く。

「ずっと前から、思ってたさ」

 千織は目を見張った。まじまじと自らの相棒を見つめる。

「ま、松見! そんなことっ、あたしに何も」

「言えるわけないだろ」

 そこでやっと、松見が朋尋から視線を逸らした。彼の眼が見つめているもの、それは千織の首元、先ほどまでは紺色のマフラーで、いまは新品のストールによって覆われているその奥だった。それに気づいた少女の顔が青ざめる。

「……“事務所”に、上の連中に疑問や矛盾を抱いてない奴が東京にいるかよ。いや、あの人の件(・・・・・)を知らない神奈川や埼玉の連中だって、本当は皆、大なり小なり言いたいことや聞きたいことはあるはずだ。けど抑えてる。抑えなくちゃなんねえ。なぜなら……」

 松見の瞳が揺れる。すっと、その手にしっとりと冷たいものが触れた。

 はっと気づき、再び朋尋と視線を交わらせる。

「トモヒロ、何を考えてる。何をするつもりだ」

【言えない】

 それは声ではない。飽くまで音の羅列であり、魔法の触媒に過ぎない。機械によって加工され一律化された音声のように意味以外のすべてを取っ払ったはずのそれが、まるで熱を帯びているようだった。

「……トモヒロ、自分が何を言ったのか判ってるのか」

【伝えないとは言わない。タキヤを死なせるつもりもない】

 その手は白く頼りない。重ね合わせた松見の、男性らしい逞しさを備えた手と比べると、朋尋の魔法研究に明け暮れるばかりで鍛えるということをしなかったそれは華奢といってもよかった。けれども、若者には意志があった。

 無言の空気が朋尋を代弁する。これ以上踏み込まないでくれと。ようやく千織にも判った。朋尋が一人で呪術の支度をしていたのは、彼にしか視えないものを視てしまったから。視界に入るものだけではなく、その背景さえもしかしたら見通してしまったから。だから懇願する、いじわるしてくれるな、と。

 松見と関わる者のうち、彼を下の名前で呼ぶのは朋尋だけだ。この二人の間には確かな絆があり、信頼があった。それ故に、朋尋は友人を巻き込むことを拒もうとする。松見を護ろうとする。

 しかし松見もまた、千織やふすらにつけるようなあだ名ではなく本名で友人を呼ぶ。信頼しているからこそ、友一人が危険なことをするのではないかと案じ、隠していることに憤る。

 東京を賑わす人々の声と車と放送とその他様々な音が大きくなる。否、この場が凍てつくように静かになっているのだ。まるで鏡のように凪いだ水面のように。それ故に、滴が一つでも落ちたら瞬く間に揺らぐ。


 ぐうううううううぅぅぅ


 滴は意外な形で訪れ、そして思ったよりも野暮だった。

 千織は埴輪のように目と口を丸くし、ぎごちない動きで辺りを見回す。二対の眼が自身に向けられていることには気づいていた。

 褪せた朱の眼は呆れて「よりにもよってこんなときになんで黙ってないんだよ。空気読めよスエキチっつーかスエキチの腹」と言って責めてくる。

 濃度の異なる様々な黒が艶めく眼は「ちーちゃん、お腹減ってるの?」と尋ねてきた。

「……ちっ」

 松見が壁から手を放し、朋尋を解放した。気勢が削がれたらしい。とはいっても逃がすつもりはないらしく、ちらちらと伺っている。

「……あ、あ~」

 ばつが悪そうに指を組む千織。上目遣いに青年を見る。

 松見は溜息をつくと、軽く肩を回した。

「言えない。伝えないわけじゃないが、言えない。そういうことか」

【まあね】

「わかった」

 松見はもう一度朋尋を見た。もうその眼に怒りの感情はなかった。

 なぜなら理解したのだ。朋尋の言葉は世界を変える。本人曰く“言霊”とは違うらしい。“言霊”と呼ばれる術法或いは言葉が世界に既に起こった事実を撤回、破却する質のものであるのに対し、朋尋の、舌の機能そのものを犠牲にして習得した魔法――“転界節”という。“宣言”の系統に分類される魔法らしい――は、世界の成り立ちそのものに干渉し、因果そのものを改変してしまう。“言霊”が死者を生き返らせる力であるのに対し、死んだという事実そのものを無かったことにする、反則。……まあ朋尋が魔眼持ちだからそれほど危険なのであって、並みの魔法使いが使っても略式詠唱の一種に過ぎず、たいした威力はないらしいが。

 だからこそ、朋尋は言葉を発するときは慎重に吟味する。たとえ冗談や憶測であろうと、彼が口に出した瞬間真実になってしまうから。その朋尋が「言えない」というのだから、ここからの話は怒りに任せて行うべきではないだろう。激しやすいようで実は冷静な松見はそう判断したのだ。

「……まあ、今日はいろいろあって疲れたし、長い話になりそうだからどっか店でも入るか」

【あ、おれ手持ちないから奢ってくれないか】

「「はあ!?」」

 ノルマ達成率万年最下位コンビの二重奏。

「うそつくなよ、てめぇ俺の倍以上の給料貰ってるじゃねえか、なんでそれで金がないなんて言えるんだよ」

【いや、実はこの前、世界最高峰の職人と謳われたフィアールカ=イワノワ作の菫水晶製の魔杖が競りにかけられてたんだよ。まあ、材質といい意匠といい杖というより魔法術の触媒として使う代物なんだけどね。とにかくとても稀少で次いつお目にかかれるか判んないから、有り金全部注ぎ込んで手に入れた】

「なっ……おまえなあ、魔法使いとして半端者のくせに、どうして一端の道具揃えようとすんだよ。っつーかそれ、まったく無駄じゃねーか。そりゃおまえの稼いだ金何に使おうが俺の口出しすることじゃないけどな、いくら稼ぐからってさすがに金銭感覚が麻痺してんだよ、それ」

【ふん】

 朋尋はそっぽを向いてしまう。

 かつて東京には十名以上の“事務所”員が配属されていた。しかし度重なる不祥事のために左遷され、いまでは六名、実行部員に至っては三名しか残されていない。それでも東京で起こる怪異に対処できてきたのは、偏に朋尋の眼と魔法を組み合わせた強大にして万能の力によるところが大きい。

 しかし、万能であるが故に逆に朋尋にはそれ以外のことができない。そういった意味では確かに、彼は半端者かもしれない。だが朋尋とてこの世の神秘を解き明かし自分のものにすることを生涯の命題とする魔法使いの一人である以上、暇さえあれば魔導研究に勤しみ、魔導を磨くためにはいかなる出費も惜しまない。その矜持と探求心だけは本物だった。

 が、魔法使いではなく、金も余裕もない松見にはその情熱の一片すら理解できないのだった。


*      *      *

 風が吹いている。

 そこはまるで別世界だった。

 眼下、まるで宝石箱をひっくり返したかのように色とりどりの、きらきらぼんやりした光が瞬き合い打ち消し合っている。しかしここにほとんど光はない。夜間飛行するヘリコプターや飛行機のための目印となる灯だけが仄かに光っているのみだ。

 風が鳴る。何かの音。まるで深海のように、静かそうでいて実は騒がしい場所だった。

 そこに、一つの影は在った。差している唐傘にすっぽりと覆われそうなくらいの小柄な体躯。闇のなかでも一際目立つ紅と金の着物。

 地上から遥か遠く離れたそこに吹く風は冷たくそして乱暴だ。いくら真夏の、深夜でもあらゆる熱に満ち満ちている東京都の中心とはいえ、涼を得るにしても極端すぎる猛風が容赦なく小さな身を殴りつける。だというのに人影は全く動じることなく眼下の街を見下ろしていた。……本当に、全く動じることなく。

 金糸と銀糸で刺繍を施された豪奢な着物の裾も、たっぷりと垂れ下がる袖も、後れ毛の一本すらぴくりとも靡かない。それどころか、本来ならすぐ萎んでしまうはずの傘を大きく開いて頭上を飾ってさえいた。

 それが足を載せているのは東京にいくつもある高層ビル、そのなかでも比較的高い一棟の頭頂部の尖塔の上である。さすがに針の先ほど狭いわけではないが、それでも人が昇り、しかも立ち上がり、極めつけに傘を広げれば一瞬で風に攫われてまっさかさまに落ちていくはずの場所である。普通の傘で、あったなら。常人で、あったなら。

 人影はまるで動じない。まるで空中に投射した映像であるかのように、動かないし、動かされることもない。風、音、熱、そして光。地上とそこにいる人々から遠く離れていようと隔離されているわけではなく、ここまで昇ってくるあらゆる「東京」を構成する要素に晒されているというのに、それは何の干渉も受けつけなかった。

「あ、あ」

 飛び交う風の音に、小さな呟きが混じり込む。

「溜まりました、ね。淵まで、溜まりました。あとは、零れる一方でしょう」

 この世界の広さに比べたら遥かに小さな人影は、頭上を仰ぐ。そこには何もない。本当に、何もない。

 東京は明るすぎて、もう星は見えない。たとえビルの一番上にいたとしても。頭上に広がっているのはただ、化学物質によって少し灰色がかった濃い闇だけだ。

 しかし、人影は微笑む。そこにあるはずのないものを視て。或いは……。

「それを見るも、一興」

 人影は微笑む。或いは、それにしか視えないものを観測して。

「しかし、若人達よ」

 人影は、微笑む。

 傘寿を控えた人のように満ち足りた笑みを。

 白寿を迎えた人のように達観した笑みを。

 千年を生きた魔女のように人離れした笑みを。

 おそらくは、あらゆる歴史と苦悩を識る者にしか浮かべることのできない、絶妙な笑みを。

 そのまま、人影は足を滑らした。地上数百メートルからの自由落下。頭を下に。頭から下に。当たり前のように重力に従いながら、されどもはや当たり前のように、着物も傘も髪もすべて動じない。

「私、は。私達は……、……」

 ただ、白いものが宙を舞った。白く細かい欠片は一瞬だけその場に残り、そしてすぐ、上空に吹き荒れる風に持っていかれてしまった。

 それでもなお、人影は白いそれを撒き散らしながら宙を落ちる。白いものは傘の隙間から。結われた髪の隙間から。

 頭蓋の隙間から。白くほどける。白がほどける。崩れる。飛び散る。


 空を降る、脳の欠片が。


*      *      *

 ハンバーガーショップのなかは閑散としていた。一応、二十四時間営業している店とはいえ、この時間はさすがに客が少なく、店内にいるのは松見達三人だけだった。

 普段の食事風景を思えば、好ましいことのはずだ。しかしいま、千織の心情は揺れていた。

 広々とした店内はいくらでも空いているにもかかわらず、三人が陣取っているのは隅の四人掛け席だった。トレーの上にはポテトのLサイズが載っているが、まだ誰も手を伸ばしていない。そして、減っていない。

 泳ぐ視線に気づいたのか、千織の斜め向かいに座ってチーズバーガーを頬張っていた朋尋が小首を傾げる。

 その向かいでは、テーブルに肩肘を衝きながら、松見が照り焼きバーガーを齧っている。

 慣れない光景だった、何もかも。

 千織にとって、朋尋は“事務所”の地区担当のエースであり、魔法使いというとんでもない肩書の持ち主であり、いつもマスクで口を覆っている、表情も思考も伺えない、計り知れない、遠い存在だった。しかし、マスクを外して普通に食事をしている目の前の人物は、拍子抜けするほど平凡な若者に過ぎなかった。彼の素性を知らない者が見たら、ただの眼鏡を掛けた目立たない大学生だと思うことだろう。普段“事務所”の仕事の関係で会うときは、朋尋があっさりと怪異を解決し、さっさと別れることが多い。食事を共にするのはこれが初めてだ。だからだろうか、松見や奏碧の手に負えない怪異をあっさり退治して去っていく朋尋と、いまチーズバーガーにぱくついている若者の落差に千織は戸惑っていた。

 そして、それ以上に驚いたのは、松見が普通に食事をしていることだった。普段、少なくとも千織と一緒にいるとき、松見が直接食事をすることはまずない。まず自分の食事よりも“悪魔”に餌を与え、満足させなければいけないからだ。松見が彼自身の口を、彼自身の食物摂取のために用いるのを、千織はいままで見たことがない。先ほどの“呪詛”との戦いによって、松見はだいぶ消耗しているが、しかし同様に“悪魔”も疲れているようだった。松見への侵攻を抑え、休んでいるようだ。だから松見は久々に、自分の食事に専念することができる。しかし、気を許している理由はそれだけではきっとない。

「……」

 チーズバーガーを食べ終えた朋尋が、眼鏡をずらして松見を視た。僅かに眉を顰めるが、何も言わない。松見のほうも警戒することなく食事を続けている。

「……あのっ」

 堪えきれず、千織は呼びかけた。

【……今日、何があった】

 耳というより身体の芯に直接響くような声が尋ねる。

【環状線のアレといい、随分無茶をしたようだね、タキヤ】

「おまえこそ一人で何やるつもりだ」

「え、視えるんですか」

 松見が「口出しするな」と「何をいまさら」を混ぜた視線で千織を睨みつける。朋尋は頷き、そして少し、悲しそうな顔をした。ポケットを探って端末を取り出す。画面に手を滑らせるが、少し考えた後、せっかく打ち込んだ文章を消すような操作をしたようだった。二人に見せた、メモ用機能に書かれた文章は簡潔だった。


 前視たときよりもずっと、不安定になってる。▽


「……そうか」

 松見は短く言い、溶けかかった氷の浮くコーラを一口飲んだ。

「……あの……そのっ、春秋冬さん、何か……松見に……」

「無理だ」

 当人がぴしゃりと言い放つ。

 朋尋はまた、悲しそうに眉根を寄せた。再び端末に文章を打ち込む。


 けっこう初期の頃に視たけど、何もできないことに変わりはない。“悪魔”自体は視ることができるけど、タキヤと重なり合っているように視える。おれの力で“悪魔”を除こうとすれば、タキヤも巻き添えになる。▽


 千織が読み終わった頃を見計らい、文章を付け足す。


 タキヤのパートナーであるきみには言っておくべきだと思った。▽

 ……伊澄(いずみ)さんでも、無理だった。▽


「そんな……」

 “事務所”の優秀な、百戦錬磨の怪異のエキスパート達でも、松見の特殊な事情を打開することはできなかったのだ。それでは本当に、松見が“悪魔”と分離する方法は、まったく不明ということなのだろう。


 ちーちゃんは、優しいね。▽


 何もできない千織を励ますように、メモが言う。


 ツユクサはおれのことなんて、ちっとも心配してくれやしない。▽


「そう、それだ」

 バーガーを食べ終え、紙ナプキンで指を乱暴に拭いながら、松見が鋭く言う。

「俺とスエキチとは多少関係は違うかもしれねーが、アオはおまえの相棒だろう。そのアオにも、いや、東京組の班長、“事務所”上層部と直接接点のあるあいつには打ち明けられないことはいったい何なんだよ、トモヒロ」

 沈黙。

 千織は端末を取り出して、何気なくツイッターを調べた。いまだ、あの謎の光に関するコメントがリアルタイムランキングの上位を占めている。朋尋が言いたくない気持ちは判る。松見もまた、友人に負担がないようにと今回の件に立ち入らせなかったのだから。しかし、松見は何としてでも聞き出すつもりのようだ。

 朋尋も松見の頑固さはよく知っているはずだ。千織は詳しくは知らないが、松見と千織がパートナーになる前、松見が“悪魔憑き”になる前から、この二人は面識があったらしい。


 判った。▽


 だから、朋尋は結局、折れた。


 けどその前に、今日何があったのか、話してくれないか。▽


 松見が眉を顰め、千織を横目で見た。千織が掻い摘んで説明する。

【そうか……やっぱり……】

 朋尋は顎の下に指を添えて何やらしばらく考えた。そして、外した指で画面をなぞる。千織もまた、タッチパネルを操作した。

 入力が済んだ朋尋が画面を松見に向ける。


 憶測でものは語れない。不便だとは思うが読んでくれ。▽

 “事務所”がエネルギーを回収する理由について、賢いおまえならいくつか仮説はあると思う。おれの仮説を聞いてもらっていいか?▽


「いまさらだな」

 青年が形のいい口元を歪ませる。空席のテーブルを拭こうと通りかかった店員が彼を見て、そそくさと離れていく。美貌の青年にときめいたのか、それともそんなイケメンがあまりに危険な笑みを浮かべていて気圧されたのか。

 朋尋が端末を引っ込め、指をタップさせる。再び、狭い画面のなかの文字を二人に見せつける。


 おれは、そもそも“事務所”なんてないんじゃないかと思ってる。▽


「……はぁ!?」

 千織が声を上げる。対する松見はそんな安っぽいリアクションはとらず「……へえ」とだけ呟いて、また一口コーラを啜った。

 千織は端末に向き直り、しかしすぐ不安げに朋尋を見遣った。朋尋が画面を更新する。緊張しているのか、口元から漏れ出した熱い息が冷房のなかでたちまち白く変わる。


 “どこにもない事務所”。関東地方で噂になっている都市伝説の一つ。他の都市伝説に登場する怪異を成敗し、人々を保護する謎の事務所。……けど、その実態は掴めない。事務所といってはいるがそんな場所を構えてはいない。サイトもない。ただ名前だけが独り歩きしている……まるで、▽


「それこそ、ただの都市伝説のように、か」


 凛とした声が、店内に流れる落ち着いたBGMを掻き消した。

 朋尋は頷き、さらに文章を追加した。


 そもそも、おれ達“事務所”に所属する者ですら、“事務所”の実態を知らないっていうのはおかしくないか。顔も目的も判らない連中に言われるがまま怪異を退治し、エネルギーを回収して、毎月前年度の成績に見合った金をどこからか支給される。▽

 誰も“事務所”の内情を知らない。ツユクサでさえ、上層部との連絡方法はメールだけだという。……そんなものが、本当に実在するといえるのか。▽


「なるほどな」

 青年はテーブルの上に頬杖を突き、獲物を狙うネコ科の生き物のように朱い瞳を細めてみせた。無言で先を促す。


 最近、人禰さんから本業に戻る依頼が増えたと聞いた。けど本来、“有形師”が必要になるような事案はそうそう起こらない。少なくとも都心では。事実、ここ三年ほど、あの人は形のないものに形を与えるのではなく、怪奇現象解決の手段として習得した業を行使することのほうが多かった。▽

 でも最近は違う。原因は、多分、“黒い靄”の噂のせい。▽


「“夜人気のない道を歩いていると、いつのまにか形のない黒い怪物が追いかけてくる”っていうあれか。お粗末な噂だが、実際、ここ最近多いらしいな。……そうか。……でもな……」

 なにやらぶつぶつと呟く松見。千織がまた端末に視線を落とし、指を動かした。

「なあ、スエキチ」

 突然呼ばれ、千織がぴくんと肩を揺らす。その様子を少し不審に思いつつも無視し、松見は尋ねる。

「冬にさ、憶えてるか? ミカガチヅルとかいう、都市伝説を元にした儀式が発端の依頼があっただろ?」

「あ、ああ……」

 一瞬だけ相方の顔を伺い、千織は端末に向き直った。すぐに顔を上げ、今度ははっきりと口を動かす。

「よく憶えてたな。うん、あれ、確かに元はネット上の噂だったっけ。実際は都市伝説通りの結果にならなかったけど」

「ああ。……トモヒロ、お前が言いたいことはつまり、最近、ただの噂に過ぎなかったはずの存在や現象が、実際に起こり始めたってことだな?」

 若者は眼鏡の奥の瞳を煌かせた。普段は外部から見えない(魔法研究のために費用をケチり百均のマスクを使っているせいで、顔のサイズに合わず眼鏡がよく曇るため)瞳は艶やかで、淀みと上澄みのはっきりとした硯の中身のように黒く美しい。


 さすが、タキヤは理解が早いね。▽


 そして端末に向き直る。打ち込み終わるまで、しばらく時間がかかった。


 そう。最近、巷で口に上る話が現実になり始めている。▽

 人の心っていうのは、けっこう、力のあるものなんだ。そもそも、本来万物は自然に適応して生きていくものなんだよ。生き物だけでなく、大気も、法則も、星そのものでさえ、ね。人間だけだよ、自然に自分を、じゃなくて自然を作り変えて自分に適応させていくものは。▽

 人の思いは世界を変え、未来を作り、昨日さえ変更させてしまう。だから、人の思いそのものが、そもそもエネルギーを持っている。▽

 それを利用しようとする者がいても、おかしくはないだろう。▽


「ふむ」

 端末の画面に指を走らせる少女を横目で見つめ、松見が軽く相槌を打つ。

 朋尋はさらに文章を打ち込んだ。


 春先に、奇妙なことがあった。“七不思議”の一つなんだけど、“閉鎖ビル”ってところに、人の想念を餌にする怪物が陣取っていた。怪物自体は始末したけど、そのとき吸われた想念の行方は不明だ。四散したんだと思うし、そうであってほしいけれど……▽

 もしあのとき集められたエネルギーが外部に流れたとしたら、それを手引きした奴は、いったい何をするつもりなのか。判るか、タキヤ。▽


「言いたいことは判った」

 一旦、もうすっかり水と混ざり合ったコーラをまずそうに飲み下し、松見は言う。

「人の心には力がある。“在る”と信じるものを実際に存在させてしまう力……斯く在れと思うことで、実際に世界の在り様を一変させてしまうだけの力が。そのせいで最近、東京の住人の間で『もしかしたら実際に起こるかもしれない』と噂されていることが起こり始めている。で、同じく噂話の上でしか出てこない“事務所”も、そうやって具現化している、と?」

 朋尋は首を僅かに縦に振った。頷きが浅いのは特有の癖だ。

「暴論だな。そもそも“事務所”は、その体制自体は少なくとも本格的に噂になり出す前から在った。俺達が雇われ出したのはそう昔の話じゃないはずだぞ、トモヒロ」


 わかってる。けれど、だったらどうして“どこにもない”ことにするのか。本当に存在するんだったら、拠点を持っても別にいいだろう。“事務所”は、いや、“事務所”を運営している何者かは、あくまで《“事務所”というものがあると見せかけたい》んじゃないかな。▽


「そうすることのメリットは?」

 無言。

 朋尋は画面を自分側に向け、首を傾げる。しばらくしてから、また、打ち込んだ。


 共同幻想。▽


「は?」

 ちらりと千織のほうを見てから、松見は先を促す。


 より多くの人間が共有する物語は、一人が紡ぐ物語よりも強固で複雑になる。▽

 “事務所”の存在が多くの人々の間で噂になれば、さらに多くのエネルギーを回収できる。存在が確かなものになればそれはもう噂とは言わない。現実だ。▽

 虚構が現実を侵食する……端くれとはいえ《垣根の番人》としては見過ごせないことではある。けど問題はそこじゃない。▽

 人々の間で“事務所”が噂になる。同時に、他の都市伝説や怪異も拡散されていく。そうなれば必然、“事務所”への依頼も増える。依頼が増えればこんどは“怪異を始末したことによって得られるエネルギー”も増加する。“事務所”の本当の目的は、多分このエネルギーを使って《何か》することなんだと思う。▽

 ……それが何なのかは、まだ、わからないけど。▽


「なるほど、確かに憶測だ。それもかなりラディカルな」

 話を聞き終わった松見は、もはやコーラが入っていたのかジュースが入っていたのかも判らない色になった液体を呷る。

「……確かに、“事務所”は嫌な意味で謎だ。胡散臭い。相馬さんを追放したこと自体気に食わないが、あの人が何かを掴んでいたからこそ辺境に飛ばしたってのも、あからさまだしな」

 千葉県民が聞いたら抗議しそうな言葉ではあるが、実際、元東京担当者であり松見達の良き先輩であった相馬が配置されたのは千葉のなかでもかなり端の、本当にこんな場所で怪異など発生するのか疑問に思えるような長閑な土地だった。ともかく、松見も朋尋も“事務所”のやり方には反感を含んだ疑問を抱いていた。

「……だがな」

 松見の眼が細まった。さながら、悲痛を隠して仲間を庇う囚われ人のような瞳だった。

「どんなに矛盾に思おうが、いけ好かなかろうが、たとえこの先やってることが《悪》だと判明したとしても、俺達が“事務所”と対立する、という選択肢はない。俺がどれほどあの人の名誉を傷つけた上層部を恨んでも、おまえがどれだけ魔法使いとして人とそれ以外の境界線を護りたいと願っても、それを選ぶことはできない。なぜなら……」

 プラスチックのコップのなかで氷がコロン、と鳴った。


「俺達は、ここでしか生きていけないから」


 松見瀧弥。“悪魔”と癒着し、分離のできない青年。時間の経過とともに“悪魔”と共融し、侵犯されていく。これを防ぎ元の身体に戻る方法は、異形を認める社会に身を置き、自ら異形と関わっていく上で手掛かりを見るけることのみ。

 人禰(ひとね)奏碧。“有形師”の名門、人禰家に生まれながら、類稀な才能を持つ弟に家督を譲ったために“有形師”の業界から弾かれた異端の者。他家への縁組や派閥入りを拒んだ彼女がそれでも“有形師”を続けていられるのは、“事務所”が彼女を必要としているからに他ならない。

 海麟堂(かいりんどう)ふすら。身内の呪いによって家を追われ、解呪と世間への弁明を済ませない限り帰ることができない。

 (せき)千織。貧しく教養のない環境で育ち、さらに追い打ちをかけるように複雑な因果を背負う。一般社会では生きていくことが困難になった彼女は、異常者を受け入れる異常な社会でしか生きていくことができない。

 “事務所”に所属する者は皆、それぞれに所属しなければならない理由がある。朋尋だってそうだ。

 生まれつき、人には見えないものが見えた朋尋にとって、魔法との出逢は必然だった。見た目や構造は他者の眼球と変わらない彼の“無差別の眼”は、科学や医療での究明が不可能なものであると定まっていた。誰も、朋尋も、見えているものが違うのを説明することができず。ただ「見えないものが見えると言いふらしている」おかしな子として扱われ、幼い頃から魔法の師を見つけるまでの間、朋尋は理解されず、孤独だった。常人よりも多くの情報を自動的に受け取ってしまう彼の脳は、いつ焼き切れてもおかしくない状態でさえあった。

◇◇◇

「……魔術とか呪術っていうのは、あ、一纏めにして『魔法術』って呼んでるけどそういったものはね、別に魔法使いじゃなくても、やり方さえ知っていれば誰でも使えるの」

 そのせいで半端者の呪術師が増えて困ってるんだけどねー、と彼女――朋尋の師匠は言った。だが実際、金儲けや利己的な目的のために魔法術を行使する連中に術を教えているのは彼女ら、現在では落ちぶれた魔法使い達だ。

「呪術や魔術を百個や千個使えたって、魔法が使えなくちゃ魔法使いとはいえない。魔法と魔法術の違いについては散々教えてきたからいまさら言わないわよ。逆に、一つでも魔法を使えれば魔法使いとして認定される。で、その眼鏡。君の眼を封じ、常人の視界と大差ない視界にすることができる唯一の物なんだけど、そういった魔導導具ってのは」

「魔法使いでなくては所持してはいけない、でしょう」

「そうそう。よく憶えてるわね、あたしの弟子なだけはある」

 彼女は続ける。

「君はその眼鏡が欲しい、だから魔法使いにならなくてはならない。だからあたしに弟子入りした。だけど……」

◇◇◇

 そんな彼に止めをさしたのが、彼自身にまったく魔法の才がない、という事実だった。“無差別の眼”という、反則といってもいいほど希少な霊的素質に恵まれているにもかかわらず、朋尋は魔法使いになることを諦めろとまで言われた。しかし、眼と付き合い、己の武器とするために、朋尋は努力した。一つだけ、習得することができた。使い様のない魔法だったが、眼と組み合わせることで他の人とは違った使い方ができた。

 しかし皮肉なことに、一般的な視界を手に入れるために通常の発声・伝達手段を犠牲にした彼はさらに「あたりまえの」社会から疎外されることになった。それでも魔法使いを辞めれば、朋尋は魔導導具である眼鏡を所持する権利を失う。眼鏡がなければ、彼の脳は焼き切れて廃人と化すだろう。さりとてたった一つ、それもかなりマイナーで限定的な魔法しか使えない彼が、競争が激しく目まぐるしく進歩していく魔法社会で生きていくのは酷だった。初めに契約していた期間を過ぎ、師匠の下を卒業し、ほうぼう彷徨っていた彼が最後に行き着いたのが“事務所”だった。

 居場所を失いたくないのは、誰も同じだった。だからこそ、多少反感を抱いても、従ってきた。

「それ、で」

 松見は面白さのかけらもない、と言いたげな顔で友人と相棒の顔を見比べた。

「はじめに言った、“事務所”を敵に回せるのかって話に繋がるってことか」

 そして朱い眼を、少し窄めた。


「ふざけるな」


 松見はテーブルの上のトレーを、載っている手つかずのポテトごとやや乱暴に脇に除けた。

「気に入らない。おまえが“事務所”を敵に回すかもしれないってことにじゃねえ。そんな大それたことをひとりきりで実行しようとしてたこと、アオや人禰はともかく、俺には、いや、俺だから隠していたこと、ついでにスエキチとSNSで俺の悪口を言い合っていること」

 千織の手の中でスマホのイヤホンジャックの飾りがしゃらん、と揺れた。画面にはいましがたまで行っていた朋尋とのチャットが表示されている……といっても、その内容は悪口に限ったものではなかったが。それでもいまだにガラケーである松見には腹立たしかったようだ。

 朋尋の力は万能だ。師匠の下で習った初歩的な魔術式や降霊の知識も依頼解決の役に立っているとはいえ、やはり“事務所”にとっての彼の価値とはその万能性だ。

 故に、稀有な存在である朋尋を手放すことは、実は考えられないのだ。もし彼を解雇ないし左遷した場合、東京はさらに混沌の渦に巻き込まれるだろう。しかも幻想が実体化しつつあるいまの東京では。

 だから、おそらくよほど大きなクーデターでも起こさない限り、朋尋は罰されない。

 一方、松見はいつ切られてもおかしくない立場だ。彼の状態は確かに他に類を見ないが、それはあくまで“患者・検体”としてであって、異能のエージェントとしての能力はそう珍しいものではなく、できることも少ない。おまけに、成績は組織全体を鑑みても下から数えたほうが早いだろうし、性格も表向きは上に従っているが、お世辞にも従順とはいえない。

 だから、松見には朋尋の行いが許せなかった。

 親友の身を慮り、自分一人で背負い込もうとしたことが。

 ……そうさせてしまう、自分自身の不甲斐なさも。


「ま、松見、落ち着いて」

 千織が窘める。先ほどのこともあってか、彼女は自分のパートナーに若干の恐れを抱いているようだった。

 しかし、千織が思っていたよりも、松見は冷静な男だった。ひとまずいまは、千織の制止もあり、朋尋のほうへ伸ばしかけた腕を引いてひとつ、溜息を吐いた。

「……とにかく、たとえお前が“事務所”にとってなくてはならない駒だとしても、好き勝手やったら心証悪いだろ。相馬さんのこともあるし、今後のことにも影響するはずだ。それに、お前はよくてもアオは別だ。もしお前が大っぴらに“事務所”に逆らったら、連帯責任、管理不届きでアオにペナルティーが科せられる。そこまで考えてやったのか、今回のことは」

【いままで打った式は焼け石に水程度のものだ。けど、これからさきも“同じ状況”が続くようなら、おれはもっと大掛かりな手に出るつもりだ。……たとえ】

 たとえ、“事務所”を敵に回すことになっても。

「……そんなに酷いのか」

 朋尋の逞しさのない首が、前に傾いだ。

【このままだと……もしかしたら】

 端末に指を走らせ、掲げる。のぞき込む千織を押しのけてみた画面には短い文が表示されていた。


 東京の人間が、全部死ぬかもしれない。▽


*      *      *

 泡が弾けた。

 薄暗いせいで正確な広さは不明だが、軽く見積もっても十二坪はある地下室を埋め尽くすように設置された幾つもの水槽のなかで、泡沫が生まれては消えて世の無常をよく象徴していた。

「……驚いた」

 声が響く。

「春秋冬朋尋、目的を履き違えてなどいない。それどころか、まさかここまで気づいているなんて……さすがに、“事務所”の目的……集めたエネルギーを何に使うか、そして、その方法までは判らないようだけれども……」

 暗がりに、ぬうっと人影が現れる。

 髪も服も、顔に落ちる影も、すべてが黒に染められていた。屋内だというのに黒い傘を差し、そして見る者などいないにも関わらず、深く頭と顔を隠していた。

 人影は一定の間隔を空けて並べられた水槽の間を滑るように通っていく。水槽に備えつけられたライトによって照らされるのを恥じているかのように、或いは恐れているかのように、身を縮こませ、傘の影に隠れるようにしながら。

「どうしましょうか、総裁」

(((((そう、ですね)))))

 どこからか、声がする。地下室のなかには人影が一個きり。いくら水槽に取りつけられた小さなライトしか光源がない部屋だとしても、生き物の気配があればさすがに判る。ここにいない誰かの声が届いている。しかしそれはスピーカーか何かから聞こえてきているわけではなかった。地下室全体を包み込む声は柔らかく、おぼろげだが肉声に近く、電子機器を通しているようには思われない。たとえるなら、ここは子宮で、胎児が聞く母親の声のようだった。

(((((もしこの先“事務所”の行いを阻むというのなら、早いうちに手を打ったほうが良いでしょう。さりとて、東京を手薄にするわけにもいきません。あヽ、困った))))))

 といいつつ楽しそうに声は言う。

「総裁、なぜ拘るのですか」

 人影が、その全身を使って首を傾げる。足首、膝、背筋、傘、丸々と逸らせた様は絵本に出てくるお化けのよう。やや大げさなリアクションだが、地下室には人影のみであり、誰に見られることもなかった。

(((((おもしろい、姿ですね)))))

 訂正。監視カメラでもあるのか、それとも他の装置ないし方法を用いたのか、どちらにしろ声の主はその様子を視ていた。

「春秋冬、松見といった個人。そしてあの、目障りな相馬でさえ。それだけではありません、東京という土地、“事務所”自体の体制そのものに。我らの目的は、それらを棄てても遂げられるもの。そして、それらを棄ててでも遂げられなければならないもの。どうして、そこまで拘るのですか。庇うのですか」

(((((ふ、ふふふ)))))

 人影の真剣な口調を、まるで子供の屁理屈でも聞くかのように嗤いながら、声は告げる。

(((((それはですね、我らの目的が遂げられるということは。我ら三名に限った話ではなく、彼らもまた)))))

 こぽこぽ、と泡が鳴る。

(((((無い世界へ、至ることだから。もとより境界線は、一つも在ってはならない。選ばれた存在など、居ない。すべてを、……すべてを)))))

「なるほど」

 人影はあっさりと姿勢を戻した。

(((((ところで、どうだね)))))

 先ほどの声とは異なる、されども同じ方法で響く声がした。

(((((新しい“脳畑”の具合は)))))

「ああ、順調だよ」

(((((そうか)))))

(((((それは、良かった)))))

 それきり、二つの声は聞こえなかった。あとにはただ、泡が音色を奏でるのみ。

 地下室中に置かれた水槽の中には桃色がかった物体が浮いていた。大きさは様々あるが、どれにも数本の細い管が繋がれている。その管は水槽の外に出、地下室の向こう側へと延びている。

 水槽のなかを泳ぎ回っているのは脳だった、おそらくは哺乳類と思しき。それが地下室いっぱいを埋め尽くすという四流ホラーのような、現実。

 人影もそう思ったのか、少しだけ首を、今度は首だけを傾げた。


*      *      *

「……で」

 松見は組んでいた腕の上で指をとんとん、と動かした。その視界が向かう先では、朋尋が年甲斐もなくベッドの上で跳ねている。

 いい加減ハンバーガーショップのなかに長居しすぎたと感じた一行は今夜の宿へと向かった。事前に千織が確保していたカプセルホテルである。“どこにもない事務所”はその名のとおり拠点を持たないことは前述したとおりだが、その構成員のなかにもまた、様々な理由で決まった住処を持たず、転々としている者も多かった。面倒な事情を持つ松見も、もしも“悪魔”のことが一般人にばれたときのことを見越して、日によって休む場所を変えている。松見と千織にとってはもう、当たり前のことだった。

 朋尋もまた、関東圏で身を寄せられる者などおらず、アパートなどを借りても魔導導具や触媒などでいっぱいにしてしまい生活できなくなるので、本人は根無し草である。しかも、いまは大きな買い物の後で根どころか文さえなくなっていた。上野でホームレスのお世話になるというとんでもないことを……言うよりもずっと難しくおっかないことを口にした朋尋を放っておくわけにもいかず、松見にとっても話の続きをしなければならなかったので連れてきた、というわけだ。まだ若いとはいえいい歳した男は、久々に屋根のあるところで、しかもベッドの上で休める、とはしゃいでいるが、話を先延ばしされたうえ余計な出費を負わされた友人は苛立っていた。

「そろそろ話してもらおうか、東京の人間全員が死ぬかもしれない脅威ってやつを」

 部屋のなかにはベッドが一つしかなく、千織はやはり一脚しかない椅子に座り、松見は立っていた。ちなみに、他多くのペアがそうするように、千織はいつもは松見と別行動を行って依頼や情報を得、泊まるところも別々だが、今日は同じホテルの部屋を二つとった。

 ぽよよん、と跳ねるのを止めると、青年はいきなり真面目な顔になった。

【さっき、人の想いは世界を侵食するって言ったけど、それは願いを持った想いだけなんだ】

「は?」

 マスク越しでなかったことを抜いても当たり前のことを言われて、松見は眉を顰める。

【けれど、願いを持たない想いに力がないわけじゃない……そして、想いとは想われた後すぐ消えるわけじゃない。しばらく留まるものなんだ】

 それもまた理解できた。子々孫々まで続く呪いや、残留思念によるデッドスポットなどは珍しくない。そういったものは願い……多くは負の願いから生まれるものだが、同じように、願いのない、たとえばただの感想などもその場に残留するらしい。

【それで、】

 朋尋は自らの眼を指さしてみせた。

【視たところ、そういった目的のない想いが、いま東京の上空に停滞、蓄積している。おかしいことじゃない。東京は人が多いからその分思念も多いし、ここ最近地震や台風で地脈や霊脈が不安定だから、思念がなかなか消えないのは。……おかしいことじゃない、けれど、危険かもしれない。いや、】

 朋尋は言葉を切った。端末は枕元にあったが、それを取るより先に松見が言葉を継いだ。

「このままじゃ確実に危険、か」

 朋尋は頷く。

【地脈や霊脈が回復してもすぐに拡散する量じゃなかった。それに……、……、】

 朋尋はベッドの上で、わずかに姿勢を変えた。

【……ただの吹き溜まりってわけじゃない。“飽和”だ。容量を超えて、淵まで溜まって、溢れ出す。そうなれば、東京は……】

 人の想いは世界を変える。それが臨界を迎えるということは、つまり……。


「“なんでもあり、何が起こってもおかしくない”状態になる、ってことか」


 松見の頬に一瞬、黒い影がよぎった。

「で、でも」

 それまで黙って聞いていた千織が手を挙げた。

「それって、そんなに危険なことなんですか? 目的のない想いなら、どんなに溜まってもそんなに害はないんじゃないかなあって思うんですけど」

「おい、俺の相棒のくせにどうしてそんなに鈍いんだ、ニブキチ」

「あんだとっゴルァ」

【まあまあ、ちーちゃん、落ち着いて】

 立ち上がりかけた千織の顔から血の気が引き、すとんと椅子に腰かけた。それを見て、朋尋が「しまった」の顔をする。

【ごめん、わざとじゃなかったんだ】

「いえ、あたしこそごめんなさい」

「……はぁ」

 松見が溜息を吐いた。相棒が魔法にかけられたせいか、いつも血気盛んな千織がしおらしいせいか、話が進まないせいか。とにかく、先ほどの疑問に答えてやった。

目的(・・)がないからこそ(・・・・・・・)厄介(・・)なんだ。方向性のない想いっていうのは、一旦矢印を与えられたら一気にその方向に突っ走る。無色透明の水に墨を一滴垂らしたら、あっというまに水全体に広がるようなもんだ。だから厄介なんだよ。しかも“飽和”だ。多くの人間に共通する……方向性を持った願いなら、どんなにくだらないことでも実現されちまう。しかも、気づいてるか? いまは七月だが、一か月後には……」

 千織は頭の上に駄菓子のように鮮やかな色の?マークを浮かせる。

「……夏休み明けだ」

「あっ」

 曜日感覚のない生活を送っているせいで失念していた。八月が終われば、人々の多くが負の願いを抱くようになる。

 このまま夏休みが終わらなければいいのに。

 死にたい。

 学校なんか爆発しろ。

 そしておそらくは、多くの人が同じ願いを。……方向性を持つ願いを。

「……それに、別に夏休み明けに限った話でもない。もし明日大きな地震とか電車の事故とか起きて、大勢が死んだとする。その家族が皆『死んだ人が生き返ればいいのに』って願えばその通りになる。この世の秩序が簡単に崩れる瀬戸際なんだよ」

「でも、春秋冬さんにはどうにかする方法があるんですよね」

「あー、調子狂うな」

 普段の彼女なら「って、やべえじゃん、どうすんだよ、ああっ」とか言って取り乱して部屋中走り回っていただろう。

「……まあ大丈夫だろ。俺ら三人でよく頑張ってきたし、今回だって」

【は】

 朋尋の目が一瞬丸くなり、それからじとっと潰れた。

【やっぱりお前、手出しするつもりか。しかも、人禰さんまで巻き込んで】

「あたりめーだろ。仲間外れにしたら可哀想だ」

 朋尋は目を閉じ、鼻から静かに息を吐いた。目を開けて、その眼差しだけで語る。


 “事務所”は共同幻想の力を利用しようとしているかもしれない。

 そうでなくても、巨大な力を集めて何かをしようとしているのは確かだ。

 もし今回の“飽和”のエネルギーも利用するつもりなら、“事務所”との対立は現実のものとなる。


「別にいい」

 しかし、松見はそれでも友に協力する道を選んだ。

「お前一人が悩むな、見てていらいらする。それに、まだ“事務所”上層部からのストップサインは出てないんだろ? だったら『何も言われなかったから勝手にやっちゃいました』って言えるじゃねえか」

 そのとき、枕元の端末が鳴った。

 三者三様に振り返る。千織は魔法の効果によって汗一つかいていないが、それでも少しだけ首を傾げた。

 朋尋が、恐る恐る手を取り、画面に指を滑らせる。

【……ツユクサからだ】

 唾を飲み込む。露草(つゆくさ)から、ということは、“事務所”上層部からの命令かもしれない。それが“飽和”に関すること、という可能性もゼロではない。朋尋が密かに考えていた七不思議への調査に先回りしたことさえあるのだ、計画が知られていたとしてもおかしくない。どんな方法を使っているのかは知らないが、上層部は東京に、関東に、広く深く根を張っている。

 意を決して、SNSの画面を開く。


9☆ミ:総武線っすなう。しばらく東京を離れるっす。晩御飯はチンして食べて、強く生きてほしいっす。


 そして、相次いでメッセージが更新される。


9☆ミ:っすなう、っておかしいっすかね? なうっす、のほうが自然でしたか?


 松見に画面を見せると、一瞬眉を顰め、それから「くっ」と笑った。

「決まりだな」

 軽やかに言う青年の顔に、再び影がよぎった。影は朱い眼の周りをなぞり、嗤いながら首筋へと降りていく。それに気づいていないはずがないのに。

「明日朝一番に人禰と合流する。もう一人で抱え込むな」

 青年の笑みはどこまでも美しく、優しかった。


 平日の朝早くから、その店はそれなりに混雑していた。程よく陽が入り込んでくる店内に、翅を持った妖精が飛び回るように黄金色の甘い匂いが漂っている。

 一人のギャルソンが、看板メニューである塔のように積み重なった上にアイスクリームとメイプルシロップをたっぷり載せたパンケーキを運んできたテーブルには、五人の男女が座っていた。

 ふすらは厨房からパンケーキが出現したときから目を輝かせ、それがテーブルの上に載ったときには可愛らしい歓声を上げさえした。だが、彼女のパートナーは形のいい眉を顰めて周囲を見回している。

 話が話だけに緊張しているのだろう、と千織は思った。

 昨日の今日で呼びつけて早々、松見と朋尋は奏碧に東京の現状を語った。奏碧は黙って聞いていた。

 傍らで、ふすらがパンケーキタワーにフォークを突き立て始める。奏碧は周囲を見るのを止め、正面に向き直り、そして溜息を吐いた。

「やれやれ、年々喫煙者に厳しくなるなぁ」

 その一言に、一同が少し目を張る。

 確かにこの店は全面的に禁煙だ。主な利用者である若い学生や親子連れからしたらありがたいことだろう。何となく、あくまで千織のステレオタイプに過ぎないが、こんなおしゃれなパンケーキ屋に来る客で煙草を吸う者はいないように思われもした。そう考えると話をするのにこの場所を選んだのは彼女には申し訳なかったかもしれないが、いまはそんなことに拘っている場合ではないはずだ。

『この店を選んだのは、都合がよかったからだ』

 朋尋がスケッチブックに書き込んだ。昨日うっかり千織に魔法をかけてしまったことを気にしているらしく、今日はいつも以上に肉声を発することに慎重になっている。端末の画面に表示するよりも皆に見易いということで、人禰・海麟堂ペアと合流する前に百円ショップで買ったのだ。

『おれは“事務所”に監視されているかもしれない。だから敢えて、普段利用しない、人の多いところを選んだんだ。ここなら、盗聴されていても周りのざわめきがノイズになるから』

「いや別に、吸えないことを気にしているわけではないよ」

 パンケーキをがしがし崩しながら食す相棒の様子を見守りながら、奏碧は言った。今日の彼女もいつも通りおしゃれだ。少し余裕を持たせた緑のシャツにロングスカート、腰には飛ぶ蝶をモチーフにしたチェーンベルトを巻いている。彼女もまた松見達と似たような生活を送っているだろうに、いつどこで服を着替えているのだろう。

「まあ、話は大体判ったよ。私も最近の東京は少しおかしいと思っていたことだしね。“黒い靄”の件もそうだが、噂話が独り歩きしているような依頼が、いささか都合がよすぎるほど増えたとは感じていた。そうだね、ふすらくん」

「むぐ、むぐ、むぐ」

 両の頬にパンケーキを詰め込んで栗鼠のようになったふすらは答えられず、代わりに首を縦に振った。

「で、相馬さんから東京を任された者としてどうにかするのはあたりまえだが、具体的な策はあるのかね?」

 朋尋も頷いた。スケッチブックの、予め書いておいたページを捲る。

『“飽和”のエネルギーが怪異になる前に、消滅させる』

「どうやって? 地脈や霊脈が傷んで、よそへやることができない状態なんだろう。たとえるならば排水溝の栓が詰まって水が流れない状態かな。では、その溜まった水を柄杓で汲み出しでもするのかい」

 首を横に振り、スケッチブックの下の空白に書き込んで見せた。

『蒸発させる』

「ほう」

「ふむ」

「へ?」

「むぐ」

 四人の視線がスケッチブックに集まる。ページを捲る。

『人命やライフラインを失うような甚大な被害が出る前に、前もって適当な噂をばらまき、溜まったエネルギーを消尽させる』

 テーブルの間をしばらく沈黙が流れた。

「ちょっと、いいかい?」

 奏碧が代表して手を挙げた。

「まあ、確かに、手遅れになる前にエネルギーの底をつかせるというのは判ったが……人を傷つけない話が、その話のまま伝わるものだろうか?」

 奏碧はつい癖で口元に手を遣り掛け、そして今日は煙草を吸っていないことを思い出した。

 初めは些細な噂話が元だったとしても、人から人へと伝わるうちに独り歩きして、まったく別の形に変わっていく。そして、そういった噂は大抵凶暴性を持っていくものだ。単なる目撃談が人の口を経ていくうちに「出会ったら追いかけられる」になり、「追いつかれたら死ぬ」になる、そういった噂話はこれまで幾つも語られてきた。スリルのある噂であるほうが人は面白がって広めていくものだし、そういった要素を含まない話にはすぐ飽きる。

 しかし朋尋はその反論を予測していたようで、スケッチブックをぺらりと捲った。

『人間、特に日本人が持っている“信じない心”を利用する』

『ここ最近東京で起こっている怪異は噂や怪談、伝説などが二人以上の人間に共有されたとき、その共有された想いが具現化されて発生したものだ。その共通認識を共同幻想と呼ぶ。共同幻想を共有する人間が増えれば増えるほど発生する怪異も強大で複雑になるけれど、同時に、齟齬や不信感も増大する』

「と、言うと?」

『人間は「こうだったら」という可能性を信じると同時に、「そんなことは起こり得ない」と、自分からその可能性を潰す心も持っている。ある程度の年齢以上の人間なら共通の常識を持っているからね、そうそう怪異を信じない。事実、いまも潜在的に多くの人に共感される想念は東京中に漂っているけれど、それらは怪異の域まで昇華されていない。想念が怪異になるのは、非日常が日常を凌駕したとき、人の信じたい気持ちが、信じない気持ちを上回るほどの要素が追加された場合だ』

『これからおれ達で、ある一つの噂話を広める。多くの人々に共有され、“飽和”したエネルギーがその噂に集中するよう仕向ける。そうして広まった怪異の種……噂話に「そんなこと起こるわけない」という意識を上書きする。そうすれば怪異は起こらず、怪異を起こそうと準備していた共同幻想は霧散する』

「……それだけ?」

「なるほど、宇治拾遺物語の『猿沢の池の竜』みたいなものかな」

 頷いた拍子に眼鏡がずれた。

『量が多くなって手に負えなくなったとはいえ、もともと方向性を持たないエネルギーの塊だ。なら、「やっぱり何も起こらない」という方向に導いてやれば、何も起こらず、空っぽのまま消費される』

 朋尋は自らが書いた文字列を追い、少し肩を落とした。春先のことを思い出した。あのとき彼は、生まれる前に命を殺した。仕方がなかったこととはいえ、残虐であったことに変わりはない。

 首を振って気持ちを切り替える。それでさらに眼鏡がずれ、片方の蔓が瞼を抑えて予想外の痛みがあった。

「なにやってんだよおまえ」

 松見がひょいと眼鏡を直す。そういうことを自然体でやってのけるタキヤはやはりイケメンだな、おれはモテないのに、などとどうでもいいことを考えつつ、スケッチブックをさらに捲った。

『ちょうど広まり始めた噂もある』

 そして予め端末に用意していた画面を表示する。全員の視線が今度は小さな端末に集中し、大きなパンケーキの陰にいたふすらが見えにくいのか、ぴょんぴょん跳んで覗き込もうとする。

 表示されたのは都市伝説専用の掲示板だった。いまそこでは、ある一つの噂話で持ち切りのようだった。

「……天の鉾?」

「ネーミングセンスの欠片もないな。日本の語彙力が心配だ」

「いや、元ネタは日本神話ではないのかね? それならばむしろ原点回帰のような気がするが」

 片方の手で端末を支えつつ、もう片方の手だけで器用にスケッチブックも捲って見せた。

『昨日のあれ、おれ達は正体を知ってるから地から湧き出たってわかるけど、世間だと天から降ってきたって認識のほうが強いみたいだ。悪しきものを裁く光の鉾だと。まあ、間違ってはないかもな』

「この噂を拡散すればいいわけか」

『見た目も派手だったししばらくは世間も飽きないと思う。タキヤのお陰だな』

「ふん」

 松見はそっぽを向いた。こういう子供のような態度をとるのも、親友の前だからだろうか。

『本当にやるのか?』

 捲られたページを見て、二組がそれぞれの相棒と顔を見合した。

「いまさら何言ってやがる」

「そうですよ、水臭い」

「ここで断ったら和泉(いずみ)おじ様に叱られちゃいますよ」

「うむ」

 その返事を確認し、朋尋は息を吐き、そして、くすぐったそうな、安心した青い笑みを浮かべた。しかしそれはマスクと曇った眼鏡に隠されて、四人に見られることはなかった。

 スケッチブックをぱらぱらと捲る。

『ちーちゃんとふすらちゃんは噂を拡散してほしい』

「「任せてください(むぐっ)」」

 得意分野を任され、やる気満々の娘達。

『人禰さんは、最後に人々の意識を書き換える術の事前準備を手伝ってください』

「待て、そういえば、共同幻想を共有する人々の意識の書き換えには、リスクがないのかね」

 朋尋は空いているページに素早く書き込んだ。

『ありません。人が元から持ち合わせている「ありえないという思い」を増大させるだけ、しかもおれがやることはきっかけに過ぎない。儀式にはおれの魔法を応用した“宣言”の術を使います。人ではなく環境に干渉する術ですから、人体に影響はありません。「やっぱり何も起こらなかった」と思ってしまえばもう怪異が起こることはない』

「そうか、それはよかった」

 そして朋尋は、最後に松見のほうを向いた。

『タキヤにはバックアップを頼む』

「は?」

 僅かにマスクが跳ね上がる。スケッチブックの最後のページが捲られた。

『どんな不測の事態が起こるかわからない。おれは儀式に集中しなくちゃならないし、人禰さんにはサポートしてもらいたい。おまえにしか頼めないんだ』

「……そうか、わかった」

 そう言って、松見はひょいとスケッチブックを奪い取った。自然な動きで、羽織っているジャケットのなかに押し込む。一見、脇に抱え込んでいるような動きだが、手を放すと、もうスケッチブックはこの世に存在していなかった。

 後にはただ、微かに咀嚼音が聞こえるのみ。

「では、善は急げ、だな。早速取り掛かろう」

「先生、わたし達もしかしたら(小声で)“事務所”を裏切るかもしれないんですよ」

「では、悪事千里を走れ、かな?」

 透き通った笑い声が、店内を風のように駆け抜けていった。


 朝の空気は糊づけされてぱりっとしている。

 夜の酔ったような、狂ったような、疲れ果てた空気は淀んでいるが、朝はそれほどでもない。東京である以上、排気ガスなどで煤けてはいるし、大勢の人の声で姦しいが、それでも卵黄色に塗られた風は爽やかで円やかな心地がする。死気から生気へ転じるのは零時だというが、やはり一日が死んで生まれ変わったことを感じ取れるのはこの時間帯だった。

 朋尋は陸橋の上に佇みながら、マスクを外して、そんな朝の清々しさを堪能していた。下の道路では早くも働き始める人々が仕事場へと車を走らせている。いや、それとも夜勤が明けて帰るところだろうか。

「やあ」

 振り返ると、いつのまにか奏碧が立っていた。

【よくここがわかりましたね】

「倶生神に聞いた。けど、私も大概だが、きみの行動はまるで予想がつかないな。ふよふよ~、と風で飛ばされて、そのまま地球の裏側まで飛んで行ってしまいそうだよ。露草くんは毎度こんな思いをしているわけか」

 奏碧は夜の残滓のように黒く艶めいた髪をかき上げる。

「高尾までの魔法陣の設置は完了したよ」

【それをわざわざ言いに?】

「いや、きみと話がしたくてね」

 橋の手すりに背を預けながら、奏碧は空を仰ぎ見る。よく晴れていて、日本らしい青さが広がるばかりだ。

「今夜だね」

【ええ】

 この数日間、ふすらと千織はよくやってくれた。持っている情報網を駆使して噂を広め、人々が噂に飽きず、それでいて準備も整うという絶妙の日時に再び光の鉾が出現するという情報を人々に信じ込ませていた。ネットの力は偉大というか、そんなに人々は話題に飢えているというのか、噂はあっという間に東京中に広まり、それどころか日本全域、世界にまで拡散していた。先日のニュースで合成写真を見たり、東京在住の知人から当時の様子を聞いたりした人も今夜東京に集まってくるようだ。……だが“飽和”しているのは東京に限った話なので、東京にいる人間の意識さえどうにかしてしまえばどうということはない。

 新しく流れた噂では、天の鉾は一人の罪人めがけて落ちてきて、それに触れたりかすったりした者は蒸発したように跡形もなく消えてしまうらしい。触れた者が罪深ければ地獄に落ち、罪がなければ素晴らしい世界へ行けるそうだ。その素晴らしい世界というのが主に二次元ということになっているのは、現代の若者らしさの影響かもしれない。

 東京の住人は一度アレを目撃しているため、噂も信憑性が高い。一方で、一度しか見ていない、しかも出現している間は僅かな間、写真など一切の記録に残らなかったため、猜疑心も強い。まさに好都合な噂だった。

「上野と品川の魔法陣も確認してきたけれど、綻びはなかった」

【そうですか】

 朋尋が真っ先に魔法陣を張った上野と品川は、東京の鬼門と裏鬼門に当たる。人間でない存在が出入りする場所だ。奏碧風に言うのであれば、排水溝の詰まっているところに穴を開けて水を逃がそうとしたわけである。

 二人の下を、少し大きめのトレーラーが通過した。どこかで蝉が恋を歌っている。

「……うむ」

 奏碧は身体をのけ反らせる。ハイヒールに包まれた足がぐー、と延びて橋の幅を占領するが、いまのところ通行人はいない。

「全然見えないな。想念の塊が台風の雲みたいに上空を覆いつくしているなんて。……けれど、きみには視えているんだろう。どのように視えるんだい、それは」

【俺の眼には、ドドメ色の綿あめみたいに視えますよ。絡み合って、もう解くことができなくなった糸みたいに複雑です】

「ぞっとしないね。こんなにきれいな青空なのに」

【普段でも……肉眼だと、空の色よりも、これからの天候だとか、飛ぶ鳥の種類だとか、飛行機雲の軌跡だとかが情報として視えているんで、よくわからなかったりします】

「そうかい」

【だから、初めて空をまともに見られたときは嬉しかった。稀に見る嵐の日でしたけど】

「あはは」

 身体全体を撓らせて、高らかに笑う。弾みで靴が片方脱げて転がった。

「いやあ、いいねえ。若いって素晴らしいよ」

 まだ充分若い女性は、自分より年下の青年を労った。

【その若造の言葉を、よく信じられましたね?】

「そりゃあ信じるさ」

 そう言って、姿勢を正す。

「目に見えないから、形がないから信じられない、信じない、というのは、視野が狭く、形を感じ取る力がない、と暴露しているようなものだ」

 扇を取り出す。日に翳すとそれは仄かに香った。

「生まれつき、形のないものを視ることができた。話すことができた。それは私にはあたりまえのことだったし、家族にもあたりまえのことだった。……けれども、それがあたりまえじゃない人達だっているわけでね。小学生のときなどは、けっこう気味悪がられたよ」

 この見た目がまたね、幽霊みたいだとかね、と、語り出す奏碧。

「けれども私は“有形師”で、形のないものを救うことができた。それが嬉しくて、誇らしかった。いまだってそうだ」

 朋尋は奏碧の横顔を眺めやった。きめの細かい肌。形の良い鼻。まっすぐな眼差し。

【どうして家を継がなかったのか、訊いても?】

「ああ、別に隠すことでもないしね」

 煙草を取り出して火をつける。

「単純に、“有形師”同士での派閥争いや縄張り争いが肌に合わなかったんだ」

 咥えた煙草から、煙が空に昇っていく。

「偉い人に媚びを売って仕事を選んで、家同士で争って足を引っ張り合う、そんな世界はごめんだったよ。“有形師”の本分は形のないものに形を与えて救ってやること。だというのに、皆自分のことばかり考えて、弱いものたちはいつも後回しにされる。それが嫌だから家督は弟に譲ったんだ。これで私は救いたいものを救うことができる、と思ったのだけれどね、フリーは思っていた以上にきつかった。それでね、恥ずかしいことだけれど、親に内緒で弟に助けてもらうこともたびたびあったんだ。私と違って天才だから、あの子もあの子で優秀な“有形師”になった。きっと、十年後には業界も新しい時代の考え方になっているんじゃないかな」

 ふぅ、と息を吐く。吐いた息は狐のしっぽのように丸まりながら転がり、大気中に溶けていった。

「まあ、そういうわけだよ。私は東京に居る、すべての居場所のない者達の居場所を作り、見守りたい。……きみは?」

 話を振られて朋尋は肩を揺らす。

「きみは、なぜ東京を護りたいんだい。故郷でもないこの街を」

 奏碧は艶めかしい仕草で煙草を指の股に挟んだ。煙管ならますます艶めくのだろうな、などと思いながら、朋尋は口を開いた。

【好き、なんだと思います】

「ふむ」

 再び煙草を咥えながら、奏碧は続きを促す。

【おれも人禰さんと同じで、小さい頃は気味悪がられて、構ってほしくて嘘を吐く痛々しい子みたいに扱われていたんです。おれの場合は、親も理解してくれなくて……】

 僅かに、交通量が増えてきた。本格的な朝の始まりだ。

【師匠と出会って、いろいろ考えて、結局、魔法使いとして魔法社会で生きることを止めて。目的のないままなんとなく、同じくらいの年の子がそうするみたいに漠然と、東京に来たんです。初めは散々でした。ぶつかっても謝らないし、赤信号でも平気で渡る人もいるし、なんて心が冷たいんだろうって、思ってましたよ。で、当然なんですが、おれはもう魔法使いで、普通の生活を送れないようになっていたから、そのときは何もできなくて。何がしたいのかもよくわからなくて】

「なるほど、散々だったね。……なら東京は、嫌いではないのかい」

【いいえ。嫌いではないですよ。直してほしいところは多々ありますけれど、それすらいまは愛おしい】

 朋尋は目を閉じた。車の排気音が聞こえる。蝉の声が聞こえる。友達に挨拶をする小学生の声が聞こえる。

【そういうふうに思えるようになったのは、恩人と、友人に出会えたからですね】

「ああ、そうか」

 陸橋の向こうに見える信号が黄色に変わり、すぐ赤くなった。一拍おいて、別方向の信号が青に変わり、車が動きだす。

「松見は、不思議な男だな」

 空を仰いで、奏碧が呟く。

【ええ】

 別の空を見ながら、朋尋が相槌を打つ。

【あいつは、おれとはまったく違う生き方をしてきました。当然おれとは違う考え方をするし、おれとは抱えているものも、視えているものも違う。比べることもできないほど異なっている】

 自らの柔らかな、男にしては弱々しいと気にしている白い手を翳す。太陽に縁どられた手はますます白みを帯びて透き通った。

【けれど、おれ達は出会って、友になって、いまもこうやって、同じ東京にいる】

 まるで自分の身体が正常に動くのが奇妙だとでも言わんばかりに、朋尋は手を伸ばし、振り、握ってを繰り返す。

 出会った頃の松見は、“悪魔”憑きではなく、友達もたくさんいて、いまの彼が持つ暗さや危うさともまだ無縁の存在だった。それはつまり、本来であれば朋尋のように青春を“異常”に費やさなくてはいけなかった、冴えない若者とも関わり合うべき人間ではなかった、ということだ。

 しかし、二人は出会った。この広い、多くの人が行き交いすれ違うだけのこの街で。東京の片隅で戸惑っていた春秋冬朋尋を、松見瀧弥は見つけ出した。そのときはただそれだけだった。それからここまで長い付き合いになるとは、二人とも思ってはいなかった。

【そう考えると、この街は……】

 朋尋は軽率に口に出すべきではないと思ったのか、それともただ気恥ずかしくなっただけか。言いかけてから一旦、口を閉ざし、代わりに別のことを述べた。

【……この街で誰かと誰かが出会ったり、別れたりする。そのなんてことのないことが、おれは好きです。だから、守りたい。タキヤや相馬さんと出会えたこの街を。おれがかけがえのない人達と出会えたように、誰かが誰かと出会う、この街を】

 そのとき、橋の上をジョギングする壮年の男性が通りかかった。男性は夜を擬人化したように黒く美しい女性が、冴えない眼鏡の若者とともにいることを勝手に惜しみつつ、二人の間を通り過ぎる。この何気ないすれ違いもまた、朋尋の尊ぶ縁なのだろうな、と思いつつ、奏碧は煙を盛大に吐き出した。


*      *      *

 夏も盛りを過ぎたとはいえいまだに暑いのはヒートアイランドとかいうものなのだろうか。

 こんなに暑くて蒸して汗がだらだら垂れる夜だというのに、街にはいまだに若者を中心とした人の影が途絶えることはない。皆喫茶店や大型百貨店の店内などで涼を得つつ、来もしないその時を待っている。いや、もし彼らが失敗したら、そうしたらその時は訪れるかもしれない。

「ツイッター、すごい人です」

 ノートパソコンを操りつつ、ふすらが半ば独り言のように報告した。

 街の様子を眺めつつ、千織は背後を伺った。まず人の立ち入ることのないとある建物の屋上いっぱいに、いまは儀式の魔法陣が描かれている。朋尋の魔法によって人払いは完全になされているし、保険として関係者に金も握らせたが、それでもどこかに綻びがないかと不安になる。というよりも、本当にこの作戦でいいのか、やはり上層部に無断で大掛かりなことをしてもよいものか、など不安の種は尽きない。だったらいっそ女は度胸である。

「……よしっ」

「なにが『よしっ』だ。お前が何かするわけじゃねーだろ」

 ぴんと張った背中を相方に叩かれる。

「いってーな、何するんだよっ」

 そう言いつつも肩に入っていた力が抜けたことを感じる。

 あまり使われていないのに古くなったドアが軋む音を立てた。

「……わぁ」

 ふすらが素直な感嘆を上げる。

 屋上に入ってきた朋尋は、足元まである白いローブを羽織り、手には薄ら紫がかった透明の杖を持っている。確かに普段の野暮ったい恰好よりもさらに錯誤した格好ではあるが、今夜の衣装としてはこれ以上ないほど相応しく思われた。

「馬子にも衣裳だな」

【ほんとタキヤは意地悪だな】

 言いつつ魔法陣の様子を確かめる。

「図形は完璧だよ。今日はお天気もいいし、ここは見晴らしもいい」

 紫煙をけぶらせながら、奏碧が太鼓判を押した。

 朋尋は礼を言い、半眼になった。

「随分大掛かりな儀式にしては、準備も道具も足りませんか」

 手持無沙汰気味に魔法陣の上をうろつきながら、ふすらが呟く。

「東京にいる、少なくとも噂を信じている人全員の意識を書き換えるんですよね? これで大丈夫なんですか」

 この日のために二十三区のあらゆる場所に魔法陣を設置した。しかし逆に言えば、行ったことはそれくらいである。しかし朋尋は頷いた。

【全員に魔法を掛けるというより、集合的無意識を揺らすイメージかな】

 窓口担当組は姉妹のように揃って首を傾げた。奏碧が説明する。

「人間の意識というのは独立したものではなく、根底で一つに繋がっている、という考え方があるんだ。今回の魔法陣もそれに則り、一つの地点、つまりここに集約するイメージで配置されている。もちろん個人差があるけれど、いま、東京にいる人間の多くの意識では噂を信じる気持ちと信じない気持ちが共有されている。問題はその、集合的無意識に干渉する方法だけれど」

【大丈夫です。視えていますから】

「……だそうだ」

「相変わらずチートだな」

 朋尋は魔法陣の中心に立ち、杖を突き立てた。眼を閉じる。杖に触れている両手の血管を感じる。杖の先端の触れているコンクリートの壁の、下の地面の、さらに地下まで筋が伸びている。伸びていく。伸びる線は枝分かれし、細かい支流となってさらに伸びる。朋尋の意識を載せて。

 一つの流れが繋がるのを感じた。次いで、一つ、さらに一つ終着点に辿り着く。ここ数日、奏碧と手分けして設置した一つ一つの魔法陣に意識を繋ぎ、魔力を注ぎ込んでいく。すべての魔法陣に等しく魔力が注がれたのを感じ取る。同時に、魔法陣を通じてその土地にいる人々の意識と繋がったのを確認する。ゆっくりと、眼を開く。

 朋尋は魔法陣の中央で眼を半眼に開いたままだ。人々の意識の“波”――噂の信頼や、人々の共感の流れ――を観測し、その幅が最大のときに発動できるよう見計らっているらしい。もし“波”が半端な状態で発動すると不完全燃焼となり、後々禍根が残ってしまう。

 屋上に吹く風が不意に止んだ。ツイッターの更新がにわかに緩やかになる。眼下の人々がさざめく様がここから見えるよう。

 そして、


 不意に大きな、うねりが起こった。


「!」

「なっ」

「え」

「きゃ」

 ふすらが肩を抱いて蹲った。うねりは一般の人間には感じ取れない。しかし、この屋上にいる五人にとってはまるで叩きつけるような衝撃だった。何者かが、霊的、或いは魔的な大規模行動を起こしている。

 朋尋は頭上を仰いだ。数種類の黒が息づく瞳が異常を映しとる。

【想念が……漏れ出してる】

「なっ」

「なん、だと……」

 とっさに千織の元に駆け寄ろうとした松見の足が止まる。この土壇場で、自然のこととは思えなかった。

「誰かが、溜まった想念を横取りしてるってことか」

 朋尋はそれには答えなかった。無言で明後日の方向に振り返った。松見にはそれだけで充分だった。


 青年は屋上からダイブした。


「――松見っ」

 千織が屋上の縁に駆け寄る。下を覗き込むと、黒い光沢のない尻尾のようなものがコンクリートの壁を叩きながら徐々に下降していく最中だった。

 後ろから肩を抱かれる。首だけで振り返ると、奏碧が美しい顔を青ざめながら立っていた。

「千織、くん」

「人禰さん……」

 千織は女性の手に自らのそれを重ねた。

「千織くん、私は春秋冬くんのフォローに回る。その間、ふすらくんを頼む」

「……わかりました」

 内心では動揺しつつも、朋尋は冷静に対処しようとしていた。想念を奪っているのが何者であろうと、止めなくてはならなかった。これだけの量の人の想い、いくらでも悪用できる。だからこそここで儀式を中断するわけにはいかなかった。

 一度眼を閉じ、開く。“波”はバラバラだ。あちこちに設置した魔法陣から魔力が零れださないように集中しようとするが、繋がった感覚が鮮明過ぎて引きずられそうになる。このままでは計画そのものが破綻しかねない。

 そのとき、頭上から光が差した。

 とっさに振り仰ぐ。先ほどまで晴れていたはずが、いつの間にか雲が出ていた。雲は見る間に膨れ上がって渦を巻く。普通ではありえない速度だ。

「まずいな、これは」

 奏碧の囁きが遠く聞こえる。

 判っている。判ったのだ、目に見えずとも人々には。

 頭上で何かが起こっていることを、理屈ではなく感覚で知った。故に、信じた。多くの人々から、それが起こることを疑う気持ちが低下した。

 雲の中心が割れ、黄金に輝く巨大な何かが、姿を現そうとしていた。

 思っていたよりもきれいな形ではなかった。やはり、人々の根底には信じる気持ちよりも疑う気持ちのほうが大きいのだろうか。それとも皆が皆てんでバラバラなものをイメージしていて、形が統一されていないのだろうか。横から力が漏れ出しているせいで不完全なのか。しかしそんなことは些末な問題だ。問題は、あれほどの質量を持ったエネルギーの塊が落ちてきたら、大惨事なんていう言葉では到底足りない事態が訪れる、ということだ。

「どうする、あれを消すか。いや、手を出したら却って共同幻想を加速してしまうか」

 扇を取り出しつつ、焦った声で空と朋尋の顔を見比べる奏碧。もう“無差別の眼”がなくても判る段階にまで幻想が現実を侵食しているのだ。いまはまだ厚い雲に隠されてその姿を見ることはできないが、霊感の鋭い人間には感じ取れる程度まで来ているだろう。このままさらに多くの人々が知覚できる段階まで浸食が進めば、もう打つ手はなくなってしまう。

(どうする……)

 朋尋はいま、魔力の流れを切れない状況だ。一瞬でも気を緩めればせっかく均等に行き渡った魔力のバランスが乱れてしまう。そうなればもう儀式は遂行できなくなる。かといって、このままでは儀式を再開することも不可能だ。

 奏碧はとりあえず少しずつ雲を増やして発覚を遅らせているが、そんなものはしょせん焼け石に水程度だ。いつまでごまかせるかわからない。

 朋尋の額を汗が伝う。汗が眼に入り、たまらず眼を瞑った。


 そこからわずか二百メートルほどしか離れていない、ちょうど朋尋達がいる高さと同じくらいの場所に屋上のあるビルの上だった。

 真っ黒い、縁にポンポンの飾りのついた傘を差した人影が、朋尋達のいるビルの屋上に顔を向けていた。人影は傘と同じ飾りのついたワンピースを身に纏い、黒いストッキングを履き、黒い靴を身に着けている。半分ほどが傘で隠された頭髪は肩口で切り揃えられており、黒いレースのドレスハットが載せられている。服も靴も顔さえ黒い人影の、その部分だけが僅かに白かった。

「あーあ、やばいっすね。控えめに言ってもやばいっす」

 傍らの低い位置で声がした。

 なぜか足元にトロンボーンケースを置いた露草が、双眼鏡を覗き込んでいた。その先では出現しかけた幻想が、いままさに雲を食い破る瀬戸際だった。

「……の、わりにはきみ、落ち着いているようだが」

 屋上に声が響き渡った。深みのある低い声だ。小柄な人影の方向からというよりは一、二メートルほど上から降ってきたような声だったが、当然屋上には他に誰もいない。

「だって、死ぬときは皆一緒っすから」

 へらへら笑う露草。

「と、言うわりには寂しそうだね、きみ」

 少年の笑顔が凍りついた。一瞬、何も表情の浮かばない仮面よりも仮面らしい虚無が暁天のように昇りかけた。が、それは結局引っ込み、代わりに「ははっ」という乾いた笑みが転がった。

「まあ良い。そろそろお願いしたいのだがね」

「はーい」

 露草はトロンボーンケースの蓋を開けた。なかに入っていたのはもちろん楽器ではなく、彼には抱え上げることさえ困難であろう細長いものを取り出す。色はシンプルな黒金色で、見た目だけなら何の変哲もないただの筒に見える。それを、苦労しつつも肩に担ぎ、片膝になって態勢を整える。

「それが……」

「はい。“霊砲”。弾の代わりに精神力を打ち出すバズーカっす」

 ちらりと彼方を……朋尋のいる辺りを見てから、筒を構え直す。

「和泉さんの精神力と伊澄さんの精密さが組み合わさらないと、本来の威力を発揮する“鉄心錬砲”にはならないっす」

「ああ、相馬イズミは二重人格者……ではなかったな。双子が一つの肉体を共有している、だったか」

「僕も詳しくは知らないっす。和泉さんは和泉さん、伊澄さんは伊澄さんっすから」

 交互に片目を瞑りながら、露草が説明する。

「けど、今回は的が大きいプラス、貸す前に和泉さんがたっぷりチャージしてくれたので、多分大丈夫っす。それに……」

 そこで露草は押し黙った。

 空は怪しい色になっている。押し出そうとする力と押し戻そうとする力が鬩ぎ合い、力に引き摺られて空そのものが千切れそうになっているかのようだ。

「それに?」

 声に合わせて、人影も首を傾げる。その拍子にドレスハットのレースの隙間から、白いものがはらはらと零れ散る。

「それに、何だね? 死ぬときは皆一緒だから怖くないと?」

「いいえ」

 露草は珍しく、凛と声を張り上げた。

「たとえ外して大惨事になっても、そのときはきっとあの人が、あの人達がなんとかしてくれる。そう思っているから、大丈夫っす」

「おや、信頼しているんだね」

「あたりまえっすよ」

 発射された。

「……え?」

 響く声は随分間が抜けていた。それほどまでにあっさりと、何の前触れもなく“霊砲”は中身を空に打ち出していた。

「君、勿体ぶらなかったね」

「あたりまえっすよ、信じていますから」

 振り向いたその顔は、まるでチョコレートの原料を訊かれてカカオ豆と答えたら破格の称賛を受けた子どものように戸惑ったものだった。


 視線を感じて、朋尋はとっさにそちらを視た。同時に、白い光の塊が螺旋を描きながら向かってくるのを眼が捉えた。しかしそれだけだった。視て、支配する暇など与えられなかった。

 光は早く、速く、疾く。

一つの線にもう一つの線が合流し、さらに一つの線が合わさり、無数の線が寄り集まって一つの輝きを磨き創る。

 八卦は四象に、四象は両儀に。

 清も濁もない、純粋な一となって。

 混沌さえもなかった原初の無へと還元される。

 悲しいほどまでに無色で、神々しいほどまでに純然な一なる想念が、百の、千の、万の繋ぎ合わさった有象無象と真っ向から激突した。

【これは……】

 懐かしい、尊敬する人物の、その二つ名の所以。

 しかしその光景がいまここにあることを疑問に思う余地も、感動する余裕もなかった。その光に、力に、「成すべきことを成せ」と急かされているように思われた。

 朋尋は眼を閉じた。行き渡った魔力の流れの感覚はまだある。そして、人々のざわつく想い、多くの考え、纏まらない思考、相反する気持ち、その一点がなぜかとても近くに感じ取れた。それに触れることはたやすいように思われた。眼を開く。

 東京に生きる人々の、この街に息づく多くのいのちの想い。それの中心に、朋尋はいま、いた。

 そして、視た。世界の隅々まで視た。視界に映るだけ映して、抱きしめるように。

 流れる空が映り込むほど凪いだ海面のように平坦に、言葉を吐いた。




 その言葉が世に放たれた瞬間、朋尋の握った杖に罅が入った。罅は一つ、また一つと増えて細かく割れていく。

 軋みを上げる菫水晶が遂に限界を超えた瞬間、上空で鬩ぎ合っていた二つの力もまた相殺されて粉微塵に砕け散った。

 二つの想いの塊は綯い交ぜになって金とも銀ともつかない色を撒き散らしながら細かく、細かく散ってやがて下降する。

 降りながらさらに小さくなったそれの一部を、朋尋は掬い取った。掌に一瞬載ったそれはすぐ風に撒かれていく。きっと地上に降り立つ頃には目に見えないほど小さくなって、明るすぎる東京の景色のなかに僅かな屈折を残して溶けていくだろう。

 そっと息を吐いた。吐く息は当然、白くはない。

 白いのは、雲も千切れ飛んだ晴れた藍に浮かぶ薄い月だった。


*      *      *

 話は少し遡る。


 松見は奔っていた。

 “悪魔”を解放し、鋭敏になった感覚がエネルギーの流れを追う。複雑に入り組んだ街中を縫うようにしてその軌跡を辿る。どこをどう行ったかも判らぬままただ想念の吹き溜まりに不法に水路を引いた何者かに近づいていく。

 朱く色づいた瞳が前方に何かを捉えた。そのときにはもう“悪魔”はそれに迫っていた。実体を持たない、形を持たない、命があるのかさえさだかではないものがただただ黒く伸びて広がって襲いかかる。

 が、次の瞬間。

 咢を開けて駆けた黒が刹那膨らみ、鋏を入れた影絵の切り紙のようにばらばらに、形も方向もめちゃくちゃになって飛び散った。

「あぐっ」

 当然、“悪魔”と融合している松見も無事ではない。透明な壁に全速力で突っ込んだかのように、身体の前の頂点から爪先まで満遍なく打ちつける衝撃によって後方に押し出され、赤く新鮮な血液を吐いて尻餅をついた。とっさに受け身をとるだけの余裕はあったが、激しく咳き込み黒と赤と薄ら黄色が混じった体液を喉から捻り出す。

 それでも“悪魔”はそう簡単にやられはしなかった。実体がないということはダメージを受けるべき本体がないということ。故に“悪魔”は廃品回収に出された黒く色づけされた硝子板のような状態から再び自己を形成し、落書きのような顔を憤慨に歪めて何らかの方法で自分を阻んだ存在に威嚇する。ダメージがないのは飽くまでそれだけで、繋がっている松見には到底耐えられるものではないのだが、彼への配慮などもちろん顧みない。幸いなことに、当たり前のようにひとけのない路地だった。少なくともしばらくは、周囲への被害は考えなくてもよさそうだ。

 エネルギー泥棒は、そんな“悪魔”の様子を面白そうに見遣っていた。おそらくは人の形であろう身体に、今日朋尋が着ていたのとよく似た、ただし色は濃紺のローブを纏っている。フードのせいで顔はよく見えないが、長い袖に覆われた腕を口元らしき場所まで持ち上げ、僅かに肩を震わせている仕草から、面白がっていることは窺えた。

 湶から顎にかけての鈍い痛みに顔を歪ませつつも、松見はそいつを冷静に観察しようとした。人間のように見えるが、確証はない。たとえ人間であったとしてもただの人間ではないだろう。朋尋のように魔法使いか、或いは……。どちらにしろ、“悪魔”しか武器がない松見ではおそらく正面からぶつかっても勝ち目はない。ならば、自分にできることは何か。

「……“悪魔”は珍しいか? そうでもないか?」

 努めて平静に、松見は呼びかけた。痛みに内心顔を顰めつつも、表立っては余裕があるように振る舞いながら立ち上がる。顔も胸も、身体の前側にある皮膚が等しく痛かった。太腿の筋肉や下腹の辺りにも引き攣りを感じる。しかし、たとえ内臓が傷んでいたとしても庇うわけにはいかない。隙を見せればどんなことになるか判然としない。

「他の奴は知らんが、こいつは大食いな上に悪食でな、食事の邪魔をするとめちゃくちゃ怒るんだ。いまはまだ静かだが、相当頭にきてるらしい」

 松見は話をしつつ、どうすれば相手の気を逸らせるか考えた。

 朋尋はきっと儀式を遂行する。ならば自分にできることは少しでも時間を稼ぐこと。僅かでもこの盗人を、盗むべきものがなくなるまで妨害すること。

「見たところあんた、こっちの界隈には詳しそうだが……もしかしたら、俺の知りたいこと知ってんじゃねーか?」

 相手を会話に引き込む方法の一つに、真実を語る、というものがある。嘘やその場しのぎの世間話では、相手の興を誘えなかったり綻びが出たりする。まず自分が興味を持っていることを語らなければ、相手も話に乗ってはこない。

「“悪魔”祓いの方法を知らないか」

 そっと相手の様子を窺う。時代錯誤のローブ姿は、いかにも怪しい。姿を晒したくない理由があるのか、朋尋のように魔法使いとしては未熟でも形から入る、或いは道具で補うことで力を底上げするタイプか。

「どんなことでもいい、知ってたら教えてくれ」

 話を振ることで、強制的に会話を成立させようとする。相手が何か答えれば時間稼ぎが楽になるが、無視されればそのときは、実力行使しかないかもしれない。

 相手は果たして、口を開いた。

「貴公、“どこにもない事務所”に属しているのか」

 男とも女ともつかない声だった。中性的というより、変声器か何かを通しているような、無機質で無個性な声。

「訊いてどうする」

 松見ははぐらかし、相手の出方を待った。松見が“事務所”に属しているか訊いてくるということは、目の前のローブ姿は上層部ではない可能性が高い。もちろん、上層部が一々末端の者まで憶えておらず、自分の立場を判らせるために問いかけてきた可能性もあるが。

 ローブ姿はくつくつ、と笑った。

「おかしなことを訊く。貴公が“事務所”の先兵であるならば、“悪魔”祓いの方法など幾らでも調べがつこう。尤も、貴公の事情は聊か込み入っている様子」

 どうやら、上層部ではなく第三者のようだ。ならば容赦する必要はあるまい。……もっとも、それができるかは松見にも不明だった。少なくとも先ほど“悪魔”が阻まれたことの種が判らない限り、迂闊に突っ込むわけにはいかない。

「奇妙である。唯の憑依ではなく、融合とは。“悪魔”は飽きるほど見てきたが、貴公のような者は稀だ」

「あっそ。で、知らねーのか、これを剥がす方法は」

「ますます妙なことを訊く。他者と異なる力、他者を圧倒できる優れた力を自ら放棄したいとは」

 松見は朱い眼を細めた。先ほどよりも痛みは薄れてきている。“悪魔”と融合しかけて以来、傷の治りが常人よりも早くなった。以前、まだ普通の人間だった頃は感じることなどなかった霊や魔物の気配を感じ、視認し、干渉できるようになったのも“悪魔”憑きになってからだ。

「……たしかに便利な力かもしれない。でも、俺は人間に戻りたいんだ」

「滑稽だ。その力があればこそできたこともあるであろう。その力でもって貴公が救われ、救い、出会えた幸福もあったであろう。力を棄てることはその過去を否定することに他ならぬ」

「そうか」

 松見は肩の力を抜き、一度目を閉じた。

「確信した。あんたとは判り合えない」

 そして目を開く。寂しそうに伏せられてはいるが、どこか割り切ったような、満足げにさえ見える眼差しだった。

「確かに、“悪魔”がいたからできたこともあった。けれども、“悪魔”がいたからってできないことも、救えない人もいた。それはきっと、“悪魔”がいなかったらいなかったで俺にできたことがあるってことだと、俺は思ってる。俺にしかできないこと、“悪魔”憑きじゃない、俺だからこそできたことがあるんだって。俺に救えなかった人は、友達が救ってくれた。あいつだからこそ救えた。……この力は俺から多くを奪って、多くを与えた。その過去はこの力を手放したからって消えない。俺が“悪魔”憑きじゃなくても、俺はあいつと出会ったんだから。“悪魔”憑きじゃなくても、“悪魔”憑きじゃなくなっても、俺が俺であることはなくならない。それを確認するためにも、俺はただの人間に戻りたいんだ」

「興味なし。貴公の願望など我輩は知らぬ。加えて、貴公の所望する情報も知らぬ。もとより貴公も、その話をするために我輩の目の前に姿を晒したわけではあるまい」

「はっ」

 “悪魔”が渦を巻く。その中心に丁度、松見の眼がある。

「貴公の目的は……これであろう?」

 ローブのなかからぬっと腕を差し出す。その上には何かで満たされた瓶があった。うっすら桃色がかった、粘性のある何かのように窺えた。

「人の想念の力。貴公はこれを追ってきたのであろう。だが我輩に集められたのはこれだけ。残りは貴公の友とやらに妨害されて回収できなんだ。故に渡すわけにはいかぬ」

「別に欲しいとは思わねーよ。けど、てめーがそれを使って碌なことをしないってんなら、奪い取る」

「貴公にできるものか」

「試してみるか?」

 松見は不敵に笑った。渦のやや下方に三日月形の切れ込みが入り、開いて内の禍々しい色を露わにした。

「俺と融け合えば融け合うほど、こいつは進化してる。あまり気持ちのいいもんじゃねーから気が進まねーが、もう少しだけ深く結びつけば、てめーに届くくらいはできそうだぜ」

「ほう」

 エネルギー泥棒のフードの奥が、僅かに煌いたように見えた。

「それはそれは。確かに我輩には危機かもしれぬ」

 盗人の足元から、紫色の靄が噴き出した。

「では、我輩以外に相手をしてもらうとしよう」

 靄はあっという間に膨らんで盗人の姿を覆い尽くし、松見に迫りくる。“悪魔”は靄をむしろ吸い込もうとしたが、松見は耐えきれず顔を覆った。

 靄の奥で盗人の声がする。松見の知らない言語だ。呪文だろうか、禍々しい響きを感じる。突然の突風により靄が晴れて千切れた紫色が一瞬空に舞う。靄は散り散りになって藍色に紛れ込んでいく。そして、その下に現れたのは。

「――っ」

 思わず息を飲む。

 盗人の足元にはいつの間にか魔法陣が敷かれていた。その中心が割れて、何か大きなものが……翅と触角と複眼を備えた、この世のものとは思えないほどの大きさを持った何かが食み出していた。その何かは穴の縁に細い、その巨体を支えられるはずがないほど細い肢を掛け、自らを引きずり出そうとしている。

「召喚魔法? ゲームみたいなことする奴だな」

 松見は何かの背後で呵々大笑するローブに向けて吠えた。しかし、その顔には汗が伝っていた。相手は思っていたよりも手練れだったらしい。

 何かが渦巻き状になった口を魔法陣から覗かせた。一瞬だけ複眼に空を映し、それをそのまま松見に向ける。

 “悪魔”は御馳走の大きさに興奮しているようだった。眼を爛々と光らせ、末端を、螺旋を描くように尖らせていく。及び腰だった松見も構えた。だが、恐れも不安も拭いきれないでいた。

 魔法陣の縁にもう一本の肢が掛かり、その巨大な姿が一気に露わになる。


「そこまでだよ」


 この場に似つかわしくない、のんびりした声が響いた。

 巨体に斜めに線が入り、次いで背後にいたローブにも同じ線が入った。巨大な蛾の上体がずれて傾ぎ、魔法陣から紫色の泡のようなものが出てぱっと弾ける。すると蛾も光の粒子になって霧散した。

「この術式、脳畑の跡地に変な繭を持ち込んでくれたのは貴方だね? しかもあと一歩で東京を大惨事に巻き込むつもりでしたか。おまけにうちの若いのを虐めてくれて。やれやれ、やってくれたねえ」

 声が四方八方に谺する。と、突風が吹いて路地に転がるごみや砂粒が撒き散った。松見は思わず目を瞑る。

 そっと目を開けると、松見と盗人のちょうど間辺りに、背の高い、黒ずくめの影が立っていた。黒いコートを靡かせ、黒い傘を広げた人影は、松見を庇うように背を向けている。

「現れたか、化け物。ああ、あそこは良い物件であった。程よく魔力が満ち、育むのに良い場所であった」

 ローブ姿は真っ二つになったことなどなかったかのように、悠々と語る。

「幸い今回は大事に至らなかったとはいえ……このお礼参りはきっとさせてもらうよ?」

 その長身から響いているにしては幼い声音と語調で、人影は告げる。

「ふん。我輩の行ったことなど、貴様らの所業に比べれば何てことはない。脳を撒いて感覚を共有し合い、人を辞め、それどころかあらゆる規範の埒外にいる貴様らこそ、諸悪の根源であろう」

「ほら、それだ。姿や生活様式が異なるからという理由で疎外しようとする。肉食だからという理由で、ライオンを野蛮な生き物だと決めつけるようなものじゃあないか」

 人影は腰に手を当て、傘を回した。

「我らが戦うのは、そういった世界そのものだ。疎外される者のいる世界から、疎外される者のいない世界へ、世界を一段階進める。我ら“事務所”上層部がこのような在り方をしているのも敢えてのことだ」

「理解できんな。幾ら言い訳を重ねようと、化け物の言い分は屁理屈に過ぎん」

「欲を言えばそんな貴方とも渾然一体となりたかったのだけれどね……さすがに貴方は、我らの敵になりすぎた。故に、“事務所”上層部は貴方に、実行部ナンバーツーを狩人として差し向けることを決定した」

「ほう、それは楽しみだ」

「首を洗って待っているがいい。彼は強いよ」

 盗人の姿が揺らぎ、後に瓶と、白いものを残して消え失せた。はらはらと飛んで地に落ちたものは、真っ二つになった紙だった。

 人影がつかつかと歩いていき、紙を踏みしめながら瓶を拾い上げた。持ち上げた瓶のなかで、桃色がかったものがとろりと光りながらゆっくり揺蕩う。

「それをどうするつもりだ」

 真っ黒い影はそれには答えず、松見のほうを振り向いた。傘に隠れて顔は窺えない。いや、故意に顔を隠しているのかもしれない。

 人影は腕を持ち上げ、睨みつける青年に向けて瓶を放った。松見の目が広げられる。その傍らを黒く薄っぺらいものが駆け抜け、瓶を咥えて噛き、中身ごと咀嚼した。

「それでしばらく腹は満ちるだろう。今夜は君の食べたいものを食べられるぞ。ちょうど給料明細も届く頃だ」

「何が目的だ」

 満足そうに縮んでいく“悪魔”を横目で見つつ、松見は問いかける。“事務所”の幹部らしき何者かのコートの端が、風もないのにふわりと揺れる。

「君の願いは叶うだろう。しかし我らの願いも叶うだろう。それまでは、頼むよ、松見瀧弥くん」

 訊きたいことも、言いたいことも山ほどあった。しかし一際強い風が吹いて堪らず目を閉じ、また開いたときには人影は消え去っていた。

 立ち尽くした松見の、ズボンのポケットが振動した。ガラケーを取り出して開き、耳に当てる。

《松見! いまどこにいる!》

 千織のやかましい、しかし心配げな声が飛び出した。

「……疲れたよ」

《だからいまどこだよ》

「わからねー」

《ったく……お疲れさま》

 松見は人間の形に戻った自分の身体を確認し、路地を抜けて光のあるほうへと歩きだした。どこをどういったかは憶えていないが、先ほどまでいた建物は彼方に見えている。

「いまから戻るよ」

《……》

「スエキチ?」

《……》

 電話口は無言だった。

 いや、声は発しているのに、聞こえてこないのだと、気づいた。

「……トモヒロ」

 松見は呼びかける。何か話していても、電話だと、朋尋の声は硝子越しのように聞こえなくなる。しかし話せなくても、電話の向こうで友が聞いているのが判った。

「悪い、奪われたエネルギーは処理できたが、逃げられちまった。けど、そっちはうまくいったみたいだな。お疲れさま」


【タキヤもね】


 そんな言葉が、聞こえないのに聞こえた気がした。


*      *      *

「……さて」

 人影は……松見の前に姿を現したのとは別の個体らしき人影は、傍らの露草に向き直った。大きな仕事をやり遂げた後だというのに特に達成感や虚脱感を得たわけでもないらしく、淡々と道具をトロンボーンケースに仕舞い直している。

「きみに訊きたいことと、言っておかなければならないことがある」

「なんすか?」

 奏碧と同じような話し方だが、彼女よりもさらに堅苦しく形式ばった語調のように露草には思われた。さらにいうなら、奏碧の声や話し方は耳に心地好く、彼女の美しく優し気な見た目とも調和のとれたものであるのに対し、目の前にいる存在は姿も話し方も、口ではなく他の場所から声を発している点も含めて何もかもが奇妙で捻じくれている印象を受けた。まるで何人かの人間が肩車して大きな服を着て一人を装っているように、何かを取り繕っているが統合性を欠いている、というべきか。

 しかし露草も若々しく見えるが十八歳。一応社会人である。いくら地が天然(露草にその自覚はないがそう言われる)だからといって、上司に何を言えば自分の立場がどうなるかくらいは判る。故に黙って相手の言を待った。

「まず……」

 風が強い。

「“事務所”は架空の存在ではない。実体を持とうとしている怪異ではない。確かに、確固たる物件やサイトは存在しない。窓口担当、実行部、裏方、司令部、“事務所”とはすなわちそれらの総称である。きみや春秋冬くんら、所属するもの全てが“事務所”に組み込まれている」

「はあ」

「なぜそのような体制を敷くかは後で説明しよう。さて、きみに訊きたいこと、というのはだが……ああ、構えないでくれたまえ。自然に、思ったように答えてくれればいい。答えによって給料や昇進に影響はない」

「安心したっす」

 露草の乱れた髪が、ぺこっと跳ねた。

「此の世界にとってベストの秩序とは何かね?」

「異界と繋がることなく、妖怪と人間の住み分けができていて、異能者の精神状態や共同幻想がケアされた状態でしょうか」

 風で傘の、服の、黒い布地がはためく。白い何かが、吹き散る。

「期待通りの答えである。……では、全てにとってベストの選択とは何だと思うかね?」

「はい?」

 それは、人間だけでなく、“悪魔”や怪異、その他のあらゆる、いわゆる“化け物”といわれる者達も含めて一番いい世界は何か、ということだろうか。

 そんなものはない、と露草は思った。大多数にとってよりよい世界を創っていくことはできても、生活や思想が異なる、どころか対立する者同士が両方折り合える世界を創っていくことは限りなく困難だ。

 そんな露草の考えを汲み取ったのか、黒影は言う。

「形の無いものは、理解されない。

 別の世界から来たものは、理解されない。

 他人が持たない能力を持つものは、理解されない。

 たとえ形があって世界の内より生じ、一般的かつ平均的な性能しか持たないものでも、自分と違うものとは理解し(わかり)合えない」

 白い何かは黒い何かの頭頂部より噴き出していた。ドレスハットのレースに覆われた白いものから、粉のようにぼろぼろ落ちては風に弄ばれていく。


「我々の目的は『皆の幸せ』だ」


 頭から覗く白いものは、人の脳みそだった。頭蓋に空いた穴から剥き出しになった脳が飛び出し、飛び散り、それに蠅が集っている。

「 “事務所”の目的は、異界と異形と人間の幸せだ。全てが同時・同地に在って尚、調和した世界の実現。誰しも独り法師に成らないようにしたいのだ」

 よくできた飾りだな、と露草はまじまじと脳みそを見た。

「しかし、形を持たないものがこの世界にどれだけいるか、これからどれだけ増えるか判るかね? それら全てに形を与えるだけでももう途方のない時間が掛かる。さらに、それを実際に実行できる者が、人禰鳴青(めいせい)のような“有形師”がこの世界にあと何人いる? それだけではない。形の異なるもの、性能の異なるもの、それら全てを統一する手段とは何か。そのために何を犠牲にするべきか。長年考え、しかし結論は遂に出なかった」

 見ているうちにも、脳がぼろぼろ崩壊していく。強い風に晒されて風化しているのではないかと露草は思った。

「化け物の気持ちを理解するには化け物になるしかないと思ったが、どうやらそうでもないらしい」

 化け物にならなくても理解できたらすてきだな、と露草は思った。考えたくないことから目を逸らしている自覚があった。……まあ、単に露草をからかっているだけかもしれないが。

「だから、人間の全てを化け物にするのは諦めた」

「えげつないっすね」

 蠅が飛ぶ。黒影が鬱陶しそうに頭を振ると、脳が砕けて一際白いものが飛び散った。そのうちの一つが露草の頬に付着した。ひどいっす、と内心呟く。

「理想というのは汚いくらいが丁度いい。崇高な志などは振り翳すだけで、そのために泥だらけになって這いずり回ってまで叶えようと思わなくなるからな」

 脳が大きく傾いで、中身がびちゃびちゃと垂れ流れる。大丈夫かしら、と思ったが、熱弁を振るう“事務所”幹部に気にした様子はない。

「思想や嗜好の統一は不可能だ。互いに尊重する事も既に諦めた。君の生まれる遥か昔より試行してきた上での結論だ。尊重を必要としない状態に移行する」

 そこで黒影は、眼下を覗いた。

 街は若者の時間と勤め人の時間が綯い交ぜになり、賑わっていた。結局怪異は起こらず、人々は期待が外れたわけだが、やはりはなから信じていなかったのか、特に残念がる様子もなく笑い合い、すぐ別の話題に関心を移している。

 そんな彼ら、彼女らを、あらゆる光が照らしている。店の照明が肌を焼き、看板のネオンが髪を飾り、交通のランプが服を濡らす。赤が横切り、黄色が弾け、緑が点滅し、桃色が漂う。そんななかに白が舞うが、光が強すぎて地味なそれは迷彩のように道往く人々に気づかれない。

「光は強く美しいけれど、他者を区別する。排他と孤立の象徴だ。それこそ明確に、世界を塗り分けてしまう」

 白のなかに、薄ら銀が混じり出す。釣られて、露草の黒目がちな瞳が上に向けられる。

「全ての異形、異能、人間が理解し合う必要はなく、さりとて争うことも奪うこともなく共存できるようにしたい。我々はそれに達するつもりだ。だから、“事務所”上層部の考えを末端が理解する必要もない。逆もまた然り」

 くるりと傘を回し、人影は振り向いた。まるで初雪にはしゃぐ子どものように白く降るものに見とれていた露草は一瞬、慈しむような眼差しを向けられた気がした。

「先ほどの話だが、どうして“事務所”が物理的なオフィスや固定された連絡先を持たないのか。それは、全ての異形と全ての異能、それら以外の人間(すべて)の間、境界線上にある集約点というべきか、プラットホーム、ターミナルでありたいから、だな。自ら縛っていては全てに寄り添うことはできない。だから、“事務所”は、何にも属さず、何にも反発しない」

 露草はそれを真正面から見た。そのとき初めてそれをちゃんと見たと思う。

 依然として顔は窺えなかったし、思想が過激でないとは決していえない。しかし露草が思っているよりは、優しいものなのかもしれない。

 二種類の白が絡み合って、溶けて、消えていく。

 空に、宙に、街に。


*      *      *

 既に東京にあるすべての学校が夏休みに突入している真夏の日だった。

 時刻は午後九時を回っていたが、夜も明るいこの街はまだまだ眠らない。若者が肩を組み、恋人が手を繋ぎ、勤め人が同僚と会話する。店先では弾むような声で客引きが行われ、誘われた客を明るい光がもてなした。老若男女が大勢で、或いは独りで行き交い、街を賑わす。

 そんな人々の間を縫って、関千織は駆けていく。ある一人の姿を認めて。

「松見!」

 手持無沙汰気味に歩いていた青年は声に振り向き、少女の姿を認めて軽く手を挙げた。千織は勢いのまま青年に飛びつこうとして、はっと気がついて急停止した。

「……心配、したぞ」

 上目づかいで青年を見て、珍しく素直に伝える。

「ああ、悪い」

「まったく、無茶しやがって」

「仕方ねーだろ、バックアップが仕事だったんだから……スエキチ」

「なんだよ?」

「ありがとな」

「はえ、うぁ、はひっ、ふぁ、ふぁにいってんだ、お、おまえ!」

「なんだ、どうした。もっかいトモヒロに魔法掛けてもらうか?」

「あ、ああ……おまえがな」

「せんぱーい!」

 ちょこちょこと、ふすらが駆け寄ってきた。千織よりも率直に感情を露わにする質なのか、松見の数歩前で立ち止まった彼女はそのまま万歳した。見るものをとろけさせるような、ふんわりした笑顔を浮かべている。それに応えて、松見は掲げられた手に軽く掌を重ねた。ハイタッチというより身長差のせいでロータッチになってしまったが、ふすらはご満悦だった。

「やあ、お疲れ」

 追いついた奏碧が、軽い労いの言葉を掛ける。

「人禰も」

 松見も彼女を労うと、年少組に聞こえないようこっそりとささやいた。

「どうだった、二人」

「大丈夫だったよ」

 奏碧は八重咲の牡丹のように華やかな笑みを浮かべた。

「うねりが起きたときは不安だったけれど、ふすらくんも千織くんも、トラウマを克服しつつある。今回はお互いがそばにいたことで安心できたみたいだし」

「そうか」

 横目で二人を見遣る。少女達は子犬のようにじゃれ合っている。

 ふと、千織がこっちを見て、手を振った。釣られて背後を振り返る。細い人影が駆けてくるところだった。

 ローブは着替えて街を歩くのにおかしくない服装をしている。眼鏡とマスクも装着済みだ。ただ、そんな恰好で、体力もないのにこの季節に疾走している。

 果たして、合流した朋尋は汗だくで、蒸れたマスクを毟り取った。

「よっ、お疲れさん」

 息を切らし、前屈みになった朋尋は、少しだけ顔を上げて微笑んでみせた。よろよろと、それでもたしかに拳を突き上げた。

 松見も拳を握り、打ち合わせた。

「あれ、皆さんおそろいっすね」

 一同が振り返く。

 その体格と比べて不釣り合いな大きさのトロンボーンケースを背負い、ほっぺに白いものをくっつけて、東京担当の最後の一人が歩み寄ってくるところだった。

【ツユクサ……】

「はいはい、露草っすよ。あ、人禰女史、ふすら嬢に千織嬢、それに松見さん、お久しぶりっす」

 ぺこりと品よくお辞儀をする。しかしその拍子にトロンボーンケースがずり落ち、頭を下げたまま露草はおろおろと手を振り回した。松見と奏碧が両側から支えてやる。

「このケース、まさか」

「あっ、はい! 千葉に行って借りてきたっす」

「じゃあ、さっきのは露草くんが」

「ええ、実は」

 身を起こし、にへら、と笑って頭を掻く露草。

「……おまえ、どうして」

「あう、ほんとは上層部の指示なんすよ。で、なんと、さっきまで幹部の人と一緒にいたんすよ! びっくりしたっす、いままでメールか電話でのやり取りだったんで。いつか昇進して総帥とも会いたいっすね」

「あれ、ほっぺどうしたの」

 そこでやっと、一同が少年の頬に付着する異物に気がついた。

 と、そのとき、松見の肩口から黒いものが伸びて露草の頬を撫でた。白いものを一旦口に含んだが、すぐにぺっと吐き出し、しゅるしゅると松見の内に戻っていく。

「なんだこれ」

「つけられたっす」

「ストーカー?」

「松見のアレが吐き出すなんて珍しい」

「マーキング?」

「人気者はつらいっす」

 ようやく息を整えた朋尋は、一歩退いてその様子を見ていた。上層部は化け物の巣窟なのだろう。そう考えて、しかし三人も常人から見たら人間離れしているのだろうな、と自嘲する。

「さて、悪くない知らせといい知らせがあるっす。どっちから聞きたいっすか」

 パートナーの心境など知らずに、露草は明るい声で宣言する。道行く人々がちらりと見て、またすぐ目を逸らした。

「アオ、もう少し声落とせ」

「はっ、すみません。ああ、あと松見さん」

「なんだよ」

 ぎくりとしたように、松見が僅かに肩を揺らした。

「前から気になってたんすけど、その『アオ』ってなんすか?」

「ああ、なんだそんなことか……」

 松見はほっとしたように息を吐いた。

「……自分で調べろ」

「えー」

「いいじゃん、松見のつけるあだ名にしちゃ随分おしゃれだし」

「たしかに、ふらんすは意味不明です」

 ぶうぶうと文句を言う千織とふすら。

「で、で、どっちから聞くんすか」

 忘れられて精一杯主張する露草。

「じゃあ……あれ、どちらもいい知らせではないかね?」

「んー、いいかと言われると間違いなくいい知らせっすけど……まあ、悪い知らせはないっすよ」

 曖昧なことを言いつつ、露草は頬を掻いた。

「どうする?」

 なぜか話を向けられて、朋尋は溜息を吐く。

【じゃあ、悪くない知らせから】

「了解っす。まず、今回の件、故意に地脈、霊脈を乱して“飽和”を起こし、そのエネルギーを丸ごと持っていこうとした、ついでに“閉鎖ビル”に厄介な繭を持ち込んだ不届き者のしっぽを掴み、エネルギーが持ち去られることと共同幻想による現実の侵食を阻止した、その功績によって東京担当に全員特別ボーナスが出るっす」

「なん、だと……」

「ボーナス、ですって」

「……まじか」

【でも、どうして】

「いま言ったっすけど」

 顔文字のような顔で困惑する露草。

「ええっと、今回、“飽和”が起きたことは上層部にも予想外だったと。まして人為的な細工がされていたので、何とかするつもりで、僕にも指令が下ってたんす。で、指令を出す前に動いて最悪の事態を未然に防いだのはすばらしいって、褒められたっす」

「それだけか?」

「いいえ」

 露草の顔に、一瞬虚無が過った。

「確かに“事務所”はエネルギーを集めてはいるけれど、それは想念のエネルギーではない。故にたとえ今回のことでエネルギーが集められてもそれは不本意である。“事務所”は共同幻想に基づかない、営業形態の特異性はともかく実在の組織ということが今回幹部直々に発表されたっす。そして集めたエネルギーは『この世から孤独な存在をなくすこと』のために使われ、そのためには共同幻想から生まれたわけではない、純然な怪異の発生により生まれたエネルギーが望ましいとのことっす」

 露草は十三歳ほどの顔に似つかわしくない大人びた表情を貼りつけた。少年から大人になろうとしている、強い意志を持った若者の顔だ。

「だから、これからは噂や都市伝説に依らない、純粋な、この世界に初めから存在する魔物や異能者や現象、さらには異界からやってくるものへの対応が主流になるっす。まあ最近が異常だったのであって、数年前の状況に戻るのかもしれませんけど。それともう一つ、今回独自に動いたことによって、結果的にプラスと扱ってくれましたけど、今後別件で独自に動くことが困難になるかもしれないっす」

 朋尋は軽く目を見張った。露草の口からそんな言葉が出てくるのは意外だった。

「だから、悪くない知らせではあるけれど、いい知らせとは言えないんす」

 飽くまで立場をはぐらかせながら、露草が締めくくる。

「……では」

 奏碧が呟く。指が不自然に動いているのは、煙草を我慢しているからだけではないだろう。

「いい知らせとは、本当にいい知らせなのだね」

「はいっ」

 先ほどまでと一変、見た目と同じく幼い動作と口調で喜びを露わにする。

「今回“飽和”を起こしてエネルギーを手に入れようとした犯人、結局何のためにエネルギーを集めていたのかは不明っすけど、そいつを追う役目に実行部の実力ナンバーツーのペアが就くことになったっす」

 一同に沈黙が下りた。

「……つまり」

「はい、相馬イズミ、及び円堂(えんどう)(まどか)、この二人、というか三人っす」

 五人がそれぞれ視線を交差させる。

「危険な任務かもしれないっす。……けれども、終わったら、左遷が解かれて、東京に戻ってくるっす」

「……え」

 意外な知らせに、皆顔を上げる。

 朋尋と松見、そしてふすらの恩人であり、千織と奏碧にとっては良き先輩であり、かつて東京担当のリーダーであった相馬は数年前、表向き不祥事の責任を追及されて千葉に左遷された。朋尋達は、実際には相馬は知ってはならない秘密を知ったが故に島流しに遭ったのだと疑っている。

 その相馬が帰ってくる。“事務所”上層部の意向は判らないが、たしかに喜ばしいことだった。

「……本当に?」

「ほんとのほんとっす。これ、人事の報告書っす。ついでに、いつもよりちょっと早いっすけど、給料明細も預かってきたっす」

 露草が紙の束を掲げ上げる。喜びを隠しきれない様子で、興奮して手がぶるぶる震えている。実は、このなかでは彼が一番相馬との付き合いが長いのだ。

「よし、一仕事終わったし、ボーナスも入ったし、肉食おうぜ、肉!」

 千織がはしゃいだ声を上げて、強引に松見と腕を組む。松見は特に嫌がるでもなく、少し笑って歩きだす。

「先生、わたし達も!」

 ふすらが奏碧の背中を押し、千織達の後を追う。奏碧はたたらを踏んだが、すぐに駆けて合流する。ふわりと棚引いた黒髪に、白い蝶が飛んだ気がした。

【あっ】

 朋尋は少しだけ声を上げ、振り仰ぐ。

 白い光が空から降ってきた。光はその他の光に隠れてよく見えない。温度さえ感じない。それは想い。かつて人の心から生まれて、そらに昇っていった無色の、様々な想いの欠片たち。一度集まって、固まった想いが解かれて、地上に還元されていく。

 手を翳すと、少し大きめの欠片が載った。

 まるで白薔薇の中央を指で突いて花弁を掻き散らして解体したように、白ははらはらと、ばらばらに砕けて遥か飛び散って消えていく。

 それはまるで、雪か、ひと夏の夢のよう。


 一つの怪異が今夜終わった。街はもうかつての噂を信じず、新しい話題がまた生まれては、日々のなかに消化されていく。

 それを自分が終わらせたことが不思議だった。そしてそれを、自分が行ったという証拠も、もうどこにも残ってはいなかった。後片付けは行われ、事前に念入りに仕掛けられた魔法陣も効力を失い、触媒の杖も砕け散った。もうどこにも、何も残ってはいない。

 後にはそう、降っても積もらない名残だけ。


 そう思うと、頼りなく儚い自分を自覚する。

 有形と無形。

 日常と非常。

 人間と人外。

 その狭間の、どっちつかずの交差点に朋尋達は立っている。

 自分もまた、夢のように頼りないものなのかもしれないと、(から)になった手を眺める。

「何やってるんすか、行くっすよ」

 と、その手が握られる。

 露草が透明な、虚無とは違う無垢な笑みを浮かべていた。

「どうしたんすか。ぼーっとするのは僕の役目っすよ?」

 普段朋尋が指摘することを茶化して言う。

【考えてたんだ】

 声は出ない。音も、響きも、何もない、ただ意味だけが伝わる言葉で伝える。

【おれ自身のことについて】

 どうして自分にこのようなことができるのか。この数奇な人生を歩むのが、どうして他の誰かではなかったのか。どうして自分はいま、このときここにいるのだろうか。

 あらゆる人が行き交い、ひとりぼっちだらけのこの東京に。

 朋尋よりもかなり背の低い人物は、首を少しだけ傾げた。そして微笑み、手をぐいと引っ張る。

「早くしないと置いていかれるっす。急ぐっすよ」

 くるりと背を向け、少年は駆けだす。釣られて朋尋も走る。

「“事務所”は、僕が考えていたよりも、あなたが思っているよりも、ましかもしれないっす」

 走りながら、露草は呟いた。

「みんなの真ん中に生まれたものじゃなくて、みんなの真ん中に立って、繋ぐものかもしれない。そりゃあ額面通りに受け取っていいのかまだ迷いますし、たとえ崇高な目的があっても手段がいけ好かなかったら嫌かもしれません。けど」

 ぱたぱたと、足音が歩道の石畳に反響する。

「僕らも“事務所”だから、真ん中にいるっす。ここになら、いてもいいんす。それに、交差点だったら、ここからどこへだって行けるっす」

 そして、振り返る。街灯や、その他の灯に照らされて降る白が、幼さを残す顔に反射する。

「どこに行きたいのか迷って、あなたが立ち止まったときは、僕がこうやって手を握って連れて行ってあげますから」

 その顔は、笑っているのに、どこか怒っているようでもあった。

「だから、今後僕だけ仲間外れはなしっすよ」

 朋尋は目を瞬いた。そして、ふ、と息を吐きだした。


 自分が持って生まれた運命の意味も、自分が何に属しているのかも、将来どこで何をしているのかもまだ、判らない。

 けれども、いまここにいる、それは確かだった。


 東京で、友と、仲間と、相棒と出会った。

 多くの人が行き交うこの街で、かけがえのない一人一人を見つけ合った。

 それは一つの奇跡であり。この街は、小さな奇跡で満ちている。

 この街の光は強いけれど、拒絶するばかりではない。それは裏を返せば、この街でなら、誰だって光の当たる場所にいられる、ということではないか。


「遅いぞ、二人とも」

 光の向こう側で、友が手を振った。

 朋尋は答える。手を引かれ、走りながら。

【すぐ行く!】


 はぐれ“有形師”は呪われた令嬢と。

 “悪魔”憑きは薄幸の少女と。

 そして魔法使いは、縁あって知り合った少年と。


 それぞれの相棒を伴って、寄り添って生きていく。


 ひとりぼっち同士が出会う、東京の街で。


                                    〈了〉



 これで一応、“どこにもない事務所”シリーズは完結です。

 気まぐれにまた続きを書くかもしれませんし、同じ世界観で別の話を書くかもしれません。まったく違う話も書いてみたいと思っています。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。それではまた、どこかで。


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