第九話
マサオはよく俺の家に来ていた。その時にはトランプやオセロ、将棋をやったこともある。当然、場所だって知っていた。俺は大船に乗った気持ちで待っていたのだ。なのに――。
「ほらっ。これ楽しかっただろ? 三人だったら出来るしな。――ボケっとしてないで机を出してくれよ。ああ……右折れてるんだったな。大変だなあ。やってやるよ。……ん? これってどうなってんの?」
「…………」
「――田中。どうした?」
マサオは俺が声を発していないことに気づき、首をかしげた。
「……他のゲームは持ってきたよな?」
俺はやっと声を絞り出す。このゲームを晴くん交えてやろうと言うことに常識を疑った。このゲームは却下だ。
「ふっ、ないよ」
マサオに常識はなかった。
マサオが持ってきたゲームは人生ゲームだ。特に常識を疑うゲームではない。だが、この人生ゲームは他のものとは違い、マスに書かれた内容が生々しかった。年齢制限まで書かれていることから晴くんにおすすめできるゲームではない。ちなみに、このゲームをわざわざ一万円はたいて買った俺もどうかしている。
俺は気が進まなかったのだが、晴くんが「やってみたい!」と言ったため、ゲームが始まった。
台座に取り付けられたルーレットを回す。最初に十種類の階級から自分の階級をルーレットで決める。最下位の階級はゴールすらできず、他のプレイヤーを攻撃できるアイテムを豊富にもらえる。幸いにも、誰もそのマスには止まらなかった。
序盤はほどほどに、【結婚】のマスにマサオが止まった。
【マサオ:結婚 $10,000以上をもっていたなら相手を車にのせる。ルーレットを一回まわし、出た数によってみんなから御祝儀をもらう。――】
マサオは車を二つ用意した。その車は半分に割れた車で、各々に夫と妻を乗せ、夫ルートと妻ルートをそれぞれが歩む。それがこのゲームの売りでもある。
そんな説明をマサオが晴くんにしていて、晴くんが「へー」と聞いているときだった。看護婦の桐生さんがやってきた。
桐生さんは晴くんに「晴くん、良かったわねえ」と優しげな声をかけた。晴くんは「うん」と頷いている。
「田中さんのお見舞いの方ですか?」
桐生さんはマサオに声を掛ける。
「はい! マサオです!」
マサオの声は裏返ってしまい、奴は顔を赤らめ、あの笑いをしたものだから、ちょっと引く。これは桐生さんも引きゃしませんか? そう思い見ると、彼女も怪しげな笑みを浮かべていた。なんで?
「――人生ゲームですか? 楽しそうでいいですね。でも、他の患者さんの迷惑にならないよう、小さな声でお願いしますね」
「はい、わか――「了解であります!」」
……マサオ。
俺の言葉にマサオの言葉が被る。奴はテンションMAXだ。心配でならない。俺は軽くマサオを小突いた。
「大丈夫かな……?」
ほら見ろ。桐生さんに心配されている。俺が気をつけなければならないようだ。
ワゴンを引いて職務に戻ろうとした桐生さんが、ゲームの空き箱を見て固まった。
このゲームのこと、知っているのだろうか。
「やってみます?」
ヘラヘラ顔のマサオが声を掛けるが、仕事中の看護婦さんに掛ける言葉ではない。
「えっ、いいんですか?」
――仕事中だろ!? 桐生さんの予想外の言葉に俺は驚いた。
「是非是非! 今なら俺の嫁さんプレイヤー枠が空いていますよ」
マサオは犬のようにハッハとした息遣いで桐生さんを見ている。やめなさい、この変態。
「……すいません。私は看護師ですから。職務中は……」
なっ。やっぱりダメなんだよ。
「――この部屋で今日の職務は終わりなんです。私服に着替えてきますから十分ほど待っていてもらえますか?」
――とっとと! 心の中でこける。俺は顔が引きつった。桐生さんは俺と目が合うと不思議そうにした。
マサオの喜びようといったらない。「ヒャッホー!」と大きな声を上げたので、強めに小突いた。
それからしばらくして桐生さんが私服で登場。黒のジャケットに青のチェックのシャツ、オレンジのズボン。三人で彼女の私服に賛辞を送った。桐生さんは「ありがとう」と言葉少なに答えて、ゲームが再開される。桐生さんはマサオの嫁役のプレイヤーを扱う。
マサオはあるマスに止まった。
【マサオ:妻の名前と元カノの名前を間違えて謝り倒す。・1回休み ・妻にアイテムを買う】
「あーあ、一マスずれてりゃ$10,000儲けたのに……」
マサオは悔しそうにそう言いながらアイテムカードに手を伸ばした。
「――マサオさん。まだ謝ってないわ」
「えっ」
桐生さんの静かな声に俺も顔を上げた。マサオはキョトンとした顔をしている。
「だって、これはゲームだから……」
マサオは苦笑いなのかニヒルっぽい笑いなのか、曖昧な表情で言う。
「マサオさん。ゲームは真剣にやるからこそ面白いのよ? いい? このコマは生きていると考えるの。そうすればゲームが面白くなるわ」
「そっそうですね! 俺が間違ってました」
マサオはとたんに明るい顔で承諾をした。
「――他の患者さんの迷惑にならない範囲でな」
俺の言葉にみんな返事を返してくれたが、心配である。
俺のコマも結婚のマスに止まった。桐生さんの「田中さんのお嫁さん役も引き受けてあげましょうか?」との言葉にヒヤリとする。だが、俺は$10,000以上の金を持っていなかったために独り身のままだ。
「残念だったな田中。まだ結婚できるマスはあるさ、そう気を落とすな」
マサオが俺の背中をさする。なにをトチ狂ったことを言っているのか。安堵しているんじゃないか。
晴くんは結婚のマスを飛び越して素通りする。
「なんだ、なんだ? 結婚してるの俺だけか?」
マサオは調子良さそうにしている。俺は嫌な予感がしてならない。地雷さえ踏まなければ結婚したほうが儲かる場合もあるが、地雷を踏むと時間がかかるのが結婚ルートだ。そして、嫁さんがあの桐生さん……。
【マサオ:妻の前で、他の女に鼻を伸ばす。一回休み】
「マサオさん?」
「あっ、ごめんなさい」
「誠意が感じられないわ。本当に悪いと思っているの?」
「ごめんなさい。桐生さんほど綺麗な方などこの世にいませんでした」
「まあ、ありがとう」
【マサオ:元カノと旅行した思い出を、妻との思い出と間違えて話す。・一回休み。 ・妻と旅行に行く。$3,000はらう】
「マサオさん?」
「ご……ごめんなさい」
「私との思い出よりも、あの女との思い出の方が大事なのね?」
――あの女って誰ですか?
「いいえ、滅相もございません!」
――通じてるの?
【マサオ:隠していた元カノとの写真が妻に見つかる。一回休み】
「わかってる?」
「はい、すぐに処分させていただきます!」
――あるの!?
「これ、ゲームだよね……」
晴くんのぽかんとした顔に俺は「そうだよ」と声を返した。二人の耳には届いていない。
マサオはことごとく地雷のマスを踏み抜く。いつの間にか平謝りしてばっかりのマサオ。自分の体を抱きしめて嬉しそうにする桐生さん。桐生さんが小さく足踏みをすると、マサオはビクッと体を震わせた。もどってこーい。
「他の患者さんに迷惑だからね? ね?」
俺が恐る恐る、二人に声を掛けると――。
「ほっほっほ、いいんじゃよ」と親指を立てるエロ爺さん。
「……ハアハア……是非、続けてください……」
一度も顔を見たことがない、晴くんの向かいの患者さん。……おおい! 危ないよ。晴くんの向かいのひと、こえーよ!
雷爺さんは、外に散歩中だ。俺も外の空気が吸いたくなった。
【田中:略奪婚 略奪対象よりも$10,000以上多くもっていたならその妻を車にのせる。――】
「えーーーー!」
つい、大声が出てしまった。桐生さんの手がぬるりと俺の肩に置かれる。
「ヒィッ!」
俺は自分の全財産とマサオの全財産を比べた。先ほどのマスで大損こいたのが助かった! 僅かに条件に合致していない。マサオはなんとも言えない顔をしていた。
【マサオ:妻に携帯を見られた。浮気がバレて二回休み】
「ヒィー!」
「ちょっと、ダメ夫さん。……今までの言葉は嘘だったの?」
「違うんだ! 違うんだよ、聞いてくれ! バイト先の後輩で、相談にのっていただけなんだ。浮気なんかじゃないよ!」
――お前のバイト先、男しかいねえって愚痴ってたじゃん。
「じゃあ、今度のデートって何のことよ!」
――デートって書いてあるんだ。
「ちっちちち違うんだ。言葉の綾だよ」
【桐生さん:パート先の店長と仲良く話しているところを夫に見られる。一回休み】
「お前だって浮気してるじゃないか! ……ないじゃないですか……」
「なに? 話していただけよ? それより、……お前だって?……だってってなに? あのときのことは浮気だったの?」
――そうか、このマスってこうゆう趣旨だったの。トラップじゃん!
「あっ! ごめんなちゃい!」
――あっ、噛んだ。マサオは頭を手で覆って謝る。見たくなかったよ……。
【田中:友人の妻から電話、夫と一緒に居酒屋で飲んでいるのかと聞かれたが、ひとり酒をしている。・口裏を合わせる。友人から$10,000をもらう。 ・知らないと言う。友人から絶交される】
「たっ田中。俺たち友達だよな……」
妻こと、桐生さんが俺に微笑みを浮かべて俺をみる。だから怖いんだって。俺は顔が引きつった。
「マサオ……許せ……」
「た……」
――。
【田中:一度も結婚していない場合はゲイの道に落ちる。ゲイのルートへ入る】
「田中……お前……」マサオが俺から距離をとった。
「田中さん……」桐生さんも距離をとる。
「ゲイってなに?」晴くんが首をかしげた。
「――これはゲームだよ!!」
マサオが自分のコマを動かす手を中途で止めた。残りも後半だ。
【マサオ:浮気の現場を妻に見られた。ボコボコに殴られて二回休み。治療費に$5,000をはらう】
「アワワワワワ!」
「ダメ夫さん、どうしたの? 手伝ってあげましょうか?」
桐生さんはマサオの手に自分の手を重ねた。
「ヒッヒィーー!」
【マサオ:浮気の現場を目撃される。家からたたき出された。二回休み。】
「ヒィ! ちっ違うんだ!」
「なにが違うのよ! 浮気って書いてあるじゃない!」
――書いてあるだけだよ!
桐生さんがマサオの首根っこを掴んだので、晴くんと俺は「ここ六階! ここ六階!」と連呼した。
俺と晴くんは二人共、独り身のままゴールイン。
【マサオ:心を入れ替え新婚からやり直す。結婚のマスに戻る】
最大の地雷マスを踏んだ。
「…………はぁーーーー」
マサオは魂の抜けた顔で結婚のマスを見ていた。
「マサオさん。楽しかったわね」
「えっ……えっ……」
マサオは目をぱちくりとさせる。
「もう他の二人ともゴールしちゃったし、これでおし――まい!」
桐生さんが手をぽんと合わせた。先程までの鬼嫁はもうどこにもいない。
「え…………」
マサオの残念そうな呟きの余韻が残った。お前……。