第八話
この男――名を真間 真男という。
俺の友達だ。
伸ばし放題な髪は目を隠す。くせ毛っぽい髪があっちこっちにぴょんぴょん跳ねる。あごには無精ひげがぞろぞろと生えていてみっともない。彼はフリーターだ。定職に就いたことがない。俺と同じ三十になる。
それでも彼は定職にはつかない、定職にはつきたくないという理由がある。彼はあちこちブラブラと、それこそ日本中を気ままに旅をするのが好きだ。たまの休みに縛られたくないと言う。大企業に入れるような勉学なんて積んでもいないと言う。だから自由に――。
俺の憧れる自由人だった。
俺が晴くんのことを紹介すると、マサオはタジタジと自己紹介をした。
「……よろしく……。俺はこいつの友達で……マサオといいます」
マサオも子供との接し方には自信がないらしい。
そう言った彼はニヒルな笑みをうかべた。
この笑いはマサオの癖だ。こういった時ならなにも問題はないのだが、どんな時でもこの笑いが無意識に出るので本人も困っている。
意識してもなかなか直せないそうだ。
俺がマサオと初めて会ったのはいつだったろう。あれは二年前の夏の終わり、電車の中だった。
◇◆◇
「このひと、痴漢です!」
ここは横須賀線をひた走る電車の中。台風の影響でダイヤは大幅に遅れ、もはや車内はすし詰め状態になっていた。つり革をつかむ人の手は力がこもって真っ白になる。過剰な湿り気が肺を巡り、車窓も真っ白で、打ち付ける雨の音だけが外の景色を訴えた。
俺はひとりの男と目があった。女性に腕を掴まれてイヤイヤと顔をふる男。その目が俺に助けを求めた気がした。
俺とマサオの出会いは、彼がそんな不名誉な称号を叩きつけられたときだった。
駅を出て幾ばくもしない車内。ひとりの女性が振り向いた。グレーのトップに白のショートパンツ。二十代くらいだ。
その女性は不快そうに顔を歪め、男性の手を掴み、これみよがしに大きく上に突き上げた。
乗客の視線が集まる。
すし詰め状態の車内。多少触れることも仕方がない。彼女の自意識過剰が招いたことではないか? 最初はそんな視線や気配が多かったように思う。
だが――腕を掴まれた男は笑みを浮かべていた。
痴漢と呼ばれているにも関わらず笑った男。よれよれのだらしない風貌。
(こいつなら、やるんじゃねえ?)そんな雰囲気に、周りの視線が変わった。
――違う。
俺は見ていた。ちょっと長いこと見ていた俺ならわかる。自信をもって言える!
彼はやってない!
触ったのは彼女の真後ろ、男の隣のおばさんだ。おばさんの持っていた鞄が彼女の足の間に入りそうになっていた。その位置を直そうとして、おばさんの手が彼女のお尻を何度か触っていた。
その時だった。折を悪くもスマホをポケットに仕舞おうとした男の手が、彼女に後ろ手に掴まれたのだ。
男はあの笑いをなくし、今は本気で焦っていた。
「違う、やってない!」と言う男の声に彼女はビクリとする。だが間違いないと言いはった。触ったところをすぐに掴んだと訴える彼女の言葉に、周りの人間も男を攻撃的に見はじめる。男の足はガクガクと震えだし、見ていて不憫だ。
「彼はやってない!」
声を出すのにえらく苦労した。会社で泊まりの体力低下。ここで声を出すことにいる勇気。声が微かに震えたかもしれない。
俺に視線が集中した。心臓がキュッと縮んで、脳が酸欠をきたす。
「触れたのは貴方だ。鞄の位置を変えようとしただろ。その時に何度か当たっていた!」
……言い切った。
俺はおばさんに突きつけた指を後悔する。こんな狭い車内では様にならないし、指をさす必要もなかった。
でも、これで事態は収まるはずだ。
(なーーんだぁ)そんな結末を思い描いていた。
「触ってないわよ!」
……なにお…………おっしゃる?
崖からつき落とされた。
「いや、触ったよね。俺見てたんだよ?」
全然予想していなかった返しに声が裏返りそうになる。
「あなたは、この人と知り合いなんですか?」
彼女が俺を訝しげな目で見た。
俺は務めて冷静に先ほどのことを説明した。幸いにも駅員に突き出されることにはならなかったが、おばさんは触っていないの一点張り。
男の俺たち二人は痴漢容疑を掛けられたものと、庇った男として疑われたまま電車を降りた。
それからすぐのことだった。会社の近くの安いチェーン店で痴漢容疑をかけられた彼と再会した。
彼もこの近くで働いていた。
彼はあの時のお礼がしたいと言って飯を奢ってくれた。飯を食いながら話しているうちに彼の価値観が気に入った。憧れたといった方が正しいのかもしれない。
たまの休みには彼と旅行をする仲にもなり、俺たちは友達になった。
ただし、横須賀線の電車の中では他人のふりをすることが暗黙の掟である。
◇◆◇
病室にてマサオは薄手のパーカーを脱いだ。
「おまえ……なにそれ?」
俺は思わず聞いた。
マサオはよく見えるように一回転をする。マサオのドヤ顔がむかつく。
マサオは文字入りTシャツを着ていた。その文字がひどい……。
「…だめお……くずお…」
――晴くん! 読んじゃいけません!
晴くんは呆気にとられた顔でそのTシャツの文字を読み上げた。
そのTシャツは正面に『だめお』背面に『くずお』と達筆なひらがなで書かれていた。
「いいだろこれ? 彼女がくれたんだよ」
「え……!? てめぇ! 彼女がいるの!?」
俺は瞬間的に激怒した。
「ああ、千鶴さんっつって、今年で五十九歳になるんだ」
「………………それお前のお袋さんだろ?」
血行を上げて損した……。
「そうとも言うな」
「マサオにお似合いなTシャツだよ……」
「なんだと!」
「なんで着てきたんだよ……」
たわいのない、本当にたわいのない会話をしていると、いつの間にか晴くんが会話に参入した。
俺はこっそりとマサオに『鑑定』をつかう。同い年の彼と自分のステータスを比較してみたかった。
マサオのTシャツいっぱいに文字が染み出した。
種族:人間
状態:普通
HP:226/230
MP:5/5
攻撃:58
防御:21
魔法攻撃:5
魔法防御:12
素早さ:42
称号:
【自由人】【旅人】【フリーター】【変態】【ヒーロー】
――え……強い?
自分のステータスを出して比べる。
HPだけが変化している。
種族:人間
状態:骨折
HP:106+69/220
MP:3/3
攻撃:57
防御:21
魔法攻撃:4
魔法防御:12
素早さ:35
スキル:
【鑑定Lv.1】
称号:
【社畜】【女神の微妙な祝福】
なに一つマサオに勝てるものがない。悔しい!
僅かな差ではあるが、せめて一つくらい! そしてやはり、素早さが俺は低い。
……いや、マサオと俺の生活は違う。これは当然の結果だ。
――怪我が完治したらジョギングでもしようかな……。
マサオの称号、いっぱいあるなぁ。
【ヒーロー】
格好良い称号がついている。なにをしたんだろう? そして隣にある称号が台無しにしている。お前、本当になにしたの?
この【ヒーロー】は俺の【女神の微妙な祝福】と同様にグレーの表示になっている。この称号にもなにか隠されていそうだ。
「――田中? ……聞いてんのか田中?」
マサオが俺に声をかけていた。
「あっ! わるい、なんだっけ?」
「ほら、お前に頼まれてたボードゲーム。持ってきたから三人でやろうと思って」
俺が晴くんと遊ぼうと思って頼んでいたものだ。
マサオはゲームを取り出した。