第六話
病院の窓から見える川。よく整備をされた川は、情緒というものが感じられない。だが、流れがあるということが、見ていて安心感を与えてくれる。境川という名前だった。女神のいた境界を思い出す。……ただの偶然だろうか。
朝の柔らかな日差しがベッドに差し込む。
隣のカーテンが少しだけ開いた。こちらを窺っている気配がする。
「おはようございます」
俺から声を掛けてみた。
「……おはようございます」
まだ幼い少年の声だ。
少年はカーテンを開け放した。この病室の窓と少年のベッドは、俺を挟んでいる。日差しを浴びるにはカーテンを開ける他ない。このような子供なら窓際にしてやればいいのにと思う。
カーテンを開け放した少年の顔ははっきり言ってかわいい。男の俺がそんなことを思うのだ。きっと女性が見たら、百人が百人、誰もがかわいいと思うだろう。
小学生低学年ぐらい、真っ白な肌、髪が少しだけ茶色っぽいが、染めたわけではないことがわかる。クリッとした目が伏し目がちに俺を見ている。天使みたいな男の子とはこの子のことを言うのだろう。
「名前はなんて言うの?」
子供とまともに話したことがない俺は、内心ビクビクとしながら対話を試みる。傍目にはビクビクとする少年に、大人が気を遣って話しかけている風に見えるだろう。しかし、心の内を見通す者がいれば、両者、おっかなびっくり、ビクビクし合いながら話し合っているおかしな様子がうつったことだろう。
「野渡 晴です……」
「晴くんか。いい名前だね」
広い野原を、陽の光が移りゆく光景を幻視した。
俺達は軽く自己紹介をし合う。
晴くんは、小学三年生だそうだ。このぐらいの子ならてっきり、同じくらいの子供達と同室になるものだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
「いつからいるの?」
「ずっと。えっとね……九月の……九月からここにいる」
十月になってから一週間はたった。九月の終盤に入院したとしても、軽い様子見でこれほど入院することはないだろう。見たところ外傷は見受けられないが、きっと厄介な病気なのだろう。外に出て遊びたいだろうに……。いや、最近の子は外ではあまり遊ばないか。それでも、友達と遊ぶ機会がないのは不憫である。
「なら、俺よりはここの病院生活が長いな。よろしく先輩」
「……うん……」
照れくさそうに笑う姿がかわいらしい。
俺は自分が小学生だった頃を振り返って――即座に記憶をシャットアウトした。最後に蘇った映像は、親戚の結婚式、鼻をほじってお袋に叩かれ、親父もほじっていたから、親父も叩かれた映像だった。その瞬間が録画されていたため、あとで親戚中から笑われたんだ。この子は欠片も、そんなことはしない気がする。
「――気になるのか?」
晴くんは俺のギブスをチラチラと見ていた。
俺が子供の時だったらギブスを見てなにを思っただろう? そう考えて――
「かっこいいだろ?」
(ワイルドだろぅ?)そんな某芸人を思い出しながら、右手をゆっくりと掲げた。そう言えば、あの芸人を最近見ていない。なんとなく好感を持っていた芸人だ。俺が心配したところで何も変わらないが、うまくやっているといいな。
「……うん……かっこいい……僕、包帯も何もないから、退院してもすぐに心配されなくなるんだ。蔵並くんって言う友達がいるんだけど、蔵並くんが骨折したときはすごかったんだよ。みんな蔵並くんに大丈夫? って声かけて……僕ずっと薬飲んでたんだけど、全然心配されなかったもん。いいなぁ、おにいさん」
唐突に饒舌になって驚いた。
今の話しで、晴くんの病気が一過性ではないことを知る。入退院を繰り返しているのかもしれない。また、蔵並くんがどんな子なのかは知らないが、晴くんほどの見た目なら、たとえ外傷の名残がなくたって、女子に心配されると思うのだが、俺の貧しい想像なのだろう。
「さわってもいい?」
「いいよ」
動くことが大変な俺に代わって、晴くんの方から俺のギブスを触りにくる。
「うわーカチカチだ」
ははは。俺はすぐに飛んでやってきた邪な俺の感情を殴り飛ばす。俺にそんな危ない趣味はない。言葉に反応しただけだ。
晴くんの触る感触は俺には全くわからない。ギブスはそれだけ固い。叩けばコンコンと音がするほどだ。俺も子供のときにはギブスを見て羨ましいと思ったものだ。今では俺の生活を脅かす障害でしかない。俺は子供を羨ましいと思うが、俺も過去に通った道である。
――ふと、ステータスがどこにも表示されていないことを思い出した。
晴くんを見ると――
「いっ!」
「あっ……ごめんなさい。痛かったですか?」
「いやっ違うんだ。ギブスがこんなに固いんだ。痛いわけがない。ほら、寝違いだよ。知ってるかい? 寝違い。どうやら右を向くと痛いらしいんだ」
「ああー。僕もなったことあるよ。一日中痛かった。一日気をつければ、明日には治ってるよ」
「そうなのかー。気をつけるよ」
困った。とっさに口からでまかせだったのだが、当分の間は窓の外を見ないように気を付けなくちゃならなくなった。そんなことはまあいい、問題は――
――晴くんの白い肌、その肌の露出が多い顔の半分がステータスで覆われている。
昨日の看護婦さんに引き続き、ステータスの表示に悪意を感じる。あまりに驚いて声が出てしまったではないか。晴くんの顔を無粋なステータスが覆っているというのは見ていて気分のいいものじゃない。
種族:人間
状態:病気
HP:126+19/155
MP:5/5
攻撃:16
防御:14
魔法攻撃:5
魔法防御:4
素早さ:35
称号:
【病弱】【天使 ※1】
俺と同じくHPには赤表示が含まれている。状態が病気とは、このステータス、病院に行く指針には使えるようだが、それ以上のことはわからないか。
俺のステータスとは子供と大人だけあって、随分と離れているな。んっ? 素早さが俺と並んでないか? まさかな。ははは、まさかぁ。……まさか……。
称号には病弱とある。まあそうなのだろう。
天使……! 天使ときたかぁ! 納得である。だがしかし、米印1とはなんだ? 注釈でもあるのか? いちいち引っかかることを書くステータスである。
晴くんの顔からどうにかステータスを動かせないかと考え、自分のステータスを見ようと意識した。
そうすると、晴くんの顔のステータスが空気中に溶けるように霧散した。変わりに、晴くんが触っている俺のギブスに印字がされた。
――やった!
スキルを使いこなせたようで嬉しい。心の中でガッツポーズを決める。
そして、己の素早さを確認し、心が折れた。
「なんで、骨折したの?」
顔の綺麗になった――根本的に綺麗な顔立ちだが――晴くんが俺に聞く。
俺は晴くんに事故にあった経緯をある程度ぼかして話す。
また、死の際で、女神にあったことなども話した。善行を積めば積むだけ、来世が楽になるという件は良い教育になるのではなかろうか? 興味津々な顔をして聞く姿に、俺も饒舌になる。
「鑑定」のことも話して聞かせた。天使の称号がついていると言ったら微妙な顔をされた。
「じゃあ、あのおじいちゃんも見えるの?」
晴くんが小声で聞く。晴くんは、俺の向かいのエロ爺さんをゆび指していた。
エロ爺さんは雑誌に鉛筆を走らせている。クロスワードか数独でもやっているのだろう。晴くんの声には気づいていない。俺はエロ爺さんのステータスを見ようと意識した。ステータスは出ることには出た。しかし――
――ちっせーー!
ステータスが表示されたのは爺さんの足の裏。そんなところにまとめて出たものだから、文字が小さくて読めない。称号の欄が多いように見える。だが、足がもぞもぞと布団に潜って見えなくなる。
「残念。表示をされたのが足の裏で、ほら、隠れて見えない」
「えーー」
不服そうな顔をされたが、すぐに笑いながら、境界の光景や女神の服装などを細かく聞いてきた。子供の聞くことは本当に細かい。女神の言葉の発音まで聞くぐらいだから、思い出すのに苦労した。
最初は子供が隣にいるとわかって身構えたが、晴くんは話しやすい子のようだ。
俺は友だちに鍵を渡して、着替えなどを持ってくるように頼んでいた。訳を話し、ボードゲームを追加で頼んだ。