第三話
――オーガのひと振りが俺の鼻スレスレを掠める。ビリビリと鳥肌がたった。
奴の持つ武器はほとんど丸太と言って差し支えない棍棒。当たれば即アウト。頭蓋が砕かれるんじゃなかろうか。
俺はたまらずたたらを踏んで尻餅をついた。オーガはそんな俺を見て、その口を醜悪に歪め笑う。だがしかし、笑っているのは奴だけではない。俺だって笑っている。
「そうさ! こんなスリルが欲しかったんだ!」
奴が棍棒を振り上げたのを見て、俺は回避をするために足に力を込める。だが、――。
「ファイヤーボールッ!」
仲間の援護射撃。オーガのガラ空きの胴体に炸裂した。奴は悲鳴を上げ仲間の魔術師を睨む。さあ、ここは俺の正念場だ! 俺は駆け出そうとする奴の足首目掛けて剣をフルスイングした。
手に伝わる感触は半端なく硬い。だが、骨を砕いたような感触に勝利を確信する。
オーガはうつ伏せに倒れ苦悶の声をもらした。
「畳み掛けるぞ!」
仲間が温存無しの魔法の集中砲火。俺は止めを刺すタイミングを狙う。
――オーガは魔法の吹き荒れる中、俺を見た。その目は血走り憎しみを持って俺に圧をかける。忘れていた恐怖が背筋を這い上がった。奴は棍棒を横に構え、横薙ぎに振るう。届く距離ではない。そう思っていた棍棒は奴の手を離れた。投げたのだ。チィッ!
咄嗟に避けようとするが先ほどの威圧で足が固い! クッ! まずい!
――パシンッ
「へ……?」
軽い音が響いた。俺の前には純白の布を纏った女性がひらりと舞い降りた。
彼女は素手で丸太のような棍棒をあっさりと受け止めると、地面に落とす。足に僅かな振動が伝った。
彼女は俺に振り向くと、微笑んで言った。
「いつまで現実逃避をしているのですか? タナカさん」
彼女は何もない宙をデコピンした。
先程までの死闘が、俺を睨み据えるオーガが、魔術師の仲間が、全部ひっくるめて一枚の絵となり、地面にパタンと倒れた。周りの景色はベールが落ちるように目まぐるしく変わっていく。
「貴方はこっちですよー。ほらほら座って?」
彼女に促されるまま一脚の椅子に座った。
俺がほぼ毎日、朝から晩まで座り続けた椅子だ。
周囲は見慣れた、見飽きた、いつものKUROIの職場だった。
彼女の服装は真っ白のビジネススーツに変わっている。
俺の服装は冒険者のくたびれた服装のまんまだ。あまりの場違いに責められているような心持ちである。
彼女は俺の前に湯気の立ちのぼるお茶を置く。
「田中さん、お仕事頑張ってくださいね」
彼女はニッコリと笑ってお盆を抱いた。
「オーガは……?」
「オーガはいません」
「異世界は……?」
「異世界なんてありません」
「田中さん。――これからずーっと、ずーっと、死ぬまでお仕事をするのですよ」
彼女はそっと俺の耳元で囁いた。
……悪夢である。
……そして彼女は悪魔である。
「やだっ……」
◇◆◇
――薬品の臭いが鼻につく。目が腫れぼったい。今日は休日だったか……?
俺はぼんやりと目を開けた。白い天井。なにかの器具が垂れている。
おやっ? 隣には朝の通勤で見かけた女の子が座っている。
――あっ目があった。
彼女は驚いた顔をして叫んだ。
「おばあちゃん! おじちゃんが起きた!」
……おじちゃん。
知らない婆さんが俺に近づいてきた。
「……ここは……どこですか?」
「大鋸総合病院です」
「――えっ! オーガがいるんですか!」
あの死闘が蘇ってきた。
「いっいいえ、ここは大鋸総合病院です」
彼女が引いている。どうやら早とちりをしたようだ。
そうか……俺は悟った。
異世界には逝けなかった! 悪夢に見た悪魔の言葉が耳にこだまする!
「はっ、ははは……」
俺は疲れた笑い声を漏らして二人を見た。
二人は頭を下げていた。
えっなんで?
「うちの孫のために、大怪我を負わせてしまって、大変、申し訳ありませんでした!」
えっ!
「ごめんなさい!」
女の子も必死な声を上げる。
……!
そうだ! 俺は自分がどうして病院にいるのかを理解した。轢かれたんだ……。
自分の体を見ようとすると胸のあたりに痛みが走る。婆さんが枕を高くしてくれた。
右腕は包帯でぐるぐる巻きになっている。胸は何かで固定されているようだ。いたるところに処置をしたあとがある。いかにも重症である。
婆さんは「医者を呼んできます」と言って病室を出て行った。
「ごめんなさい……」
あとに残された子供が俺に謝る。なんて声をかければいいんだ?
「だっ大丈夫ですよ」
自分の言葉がよくわからない。なぜ敬語? なにが大丈夫なんだ?
廊下の方からパタパタと足音が聞こえてきた。
部屋に入ってきたのは女の子の母親だった。彼女は息を切らして俺を見た。呼吸に合わせて目に涙が溜まっていくのがわかる。俺は居た堪れなくなって声を掛けようとしたが、彼女のほうが早かった。
「私が手を離したばっかりに、申し訳ありません! 本当に申し訳ありませんでした!」
彼女の背中が教えてくれた。彼女は土下座をしていた。
――猛烈に自分を恥じた。
俺は……さっきまでなにを考えていた? 全部自分のことばっかり。それすら、自分の生還を喜ばずに、いじけていた。彼女たち親子のことなど何ひとつ考えていなかった。
本当に死んでいたのなら仕方のないことだ。だが、そうじゃない……。
俺が死んでいたら、彼女たち親子はどうなった?
彼女たちの将来、自分が死んでも、笑顔で暮らしていけるものとばかり決めつけていた。そんなわけがないだろう! 当たり前のことを考えろ。ひとの命を犠牲にして生きていくとか、どれだけの負担になると思っている。なんてバカ野郎なのか! 謝罪をしたいのはこちらだ。さっきまでの自分勝手な思いを謝りたい。
「頭をあげてください! つッ! 俺なら大丈夫ですから!」
とっさに体を動かしたせいだろう。何とも言えない激痛が駆け巡った。全然大丈夫じゃない。
がっ我慢だ……! ここは我慢だ! 痛い……。
あれからすぐに、医者と看護婦が部屋に入ってきた。看護婦の説得もあり、母親も落ち着きを見せる。俺は自分の不甲斐なさを呪った。何か気の利いたセリフをと逡巡した。
「笑ってください。それで、ありがとうと言ってもらえれば嬉しいです」
ポッカリとできた空白の中に俺の声が響いた。
赤面した。誰がって? 言った俺自身だ。くっさ! 周りには医者や看護婦もいる。ぐっは! 皆の生暖かい視線が痛い。なにを口走っているのか? いや、別に変なことではないだろ? 変なことなんて言ってないだろ?
「……ありがとうございます」
彼女は笑顔と言うにはぎこちないが、笑ってお礼を言ってくれた。
……よかった。答えてもらえて……。
俺も笑みを浮かべて頷いた。