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第十五話

 鼻から盛大にため息を吹き出す先生。――俺は医者のことを先生と呼んでいる。

 手元には俺のカルテが握られていた。

 俺の入院期間はもう、1ヶ月を迎えようとしている。

「田中さん。あと三日……あと三日、様子を見てみましょうか?」

「三日? 三日たったら退院できるってことですか?」

「そうです」

 先生は口の端を少しだけ吊り上げるようにして笑った。

 ――おお!? ついに退院できるのか!

 あと三日。その言葉を聞いたとたん、いろいろな感情がごちゃまぜになる。

単純な喜びだけではない。いろいろとあった部屋なのだ。寂しさもある。

 俺の頭の中では、三日後の別れの光景がいっぱいに広がった。

 鉄格子を門番が開ける。

『世話になりました』『もう悪いことすんなよ』

 あれ? なんか違う……。


「ギブスはもう外しても大丈夫ってことですか?」

 俺の右腕、胸の肋骨のため、この1ヶ月ずっとギブスをつけたままになっている。

 『鑑定』によって、まだまだ赤表示のHPが表示されているから、取っていいのかどうか疑問であった。

「それはまだつけておいてください。腕の骨も肋骨も完治までには時間がかかります。退院はできますが、定期的に通院をしてもらう必要があります。日常には戻れても右腕の使用はできるだけ控え、肋骨にも負担のかからないよう慎重になってください」

 先生は笑みを消し、淡々とした声で念を押す。

 赤表示……けっこうあるもんな……。ボッキリと折れていたらしいし、そう簡単には戻らないか……。

 それでも、退院ができるのはありがたい。

俺の金で入院をしているわけじゃないからな。

先生のお墨付きをもらえたのなら、さっさと退院したいものだ。


 昼食の差し迫るころ、天気の良く晴れた青空が広がっている。

 エロ爺さんが、会社の部下に手伝ってもらいながら荷物をまとめていた。

 エロ爺さんは今日退院する。

 ベッドの下からは次々と出てくるエロ本……。

「俺の買ってきた5倍はあるじゃないですか……帰っていいっすか? て言うか、帰ります」

「待て。待て。待て! 本当に帰るな!」

 引き止めるエロ爺さん。

 結局、二人は大量のエロ本を紙袋やバッグにパンパンに詰めて帰っていった。


 雷爺さんも退院している。

 つい先日、着物姿の奥さんがみえ、雷爺さんと帰っていった。

 亭主関白のイメージがある雷爺さんだったが、塗り絵のことを聞かれた雷爺さんは奥さんに子供のように自慢をしていた。意外なことだが根は良い意味で子供っぽいのかもしれない。


 爺さんズのいなくなった病室。新しい患者も入ってきた。

 新しい患者の入ってきた病室はどこか他人行儀な気配も漂う。


 晴くんはまだ入院していた。

 せっかく話せる仲になったというのに、そんなひとがみんないなくなっては寂しくなりやしないかと尋ねると、奇遇なことに、俺と退院の日が同じであった。

 なに思い煩うこともなくお別れができるのであれば嬉しい。

 良かった。良かった。


 ちなみに――晴くんのお見舞いにはあれから父親、奏風さんしか来ていない。

あれからと言うのは、俺がハッタリをかました日からである。

 奏風さんは、だいたい水曜日に一度だけ見舞いに来ていた。

 日向さんは家の事情でなかなか来られなくなったと奏風さんが晴くんに教えていた。

 その話題はあっさりと終わってしまい、それ以降、話さずじまいだ。

 なにか余計なことをしたのではないかと自問自答していたが、忘れてしまってもいいのだろうか。


 それから、松岡親子。

俺が助けた女の子の母親、詩織さん。

 彼女は幾度となく俺の病室に足を運んでくれた。

 来るたんびに茶葉を持ってきてくれる。

 茶葉の玉露と言えば、玉露は玉露と思っていたんだが、産地によって味が変わるんだな。

 俺は今まで、何の気なしに買っては飲んでいたんだが、いろいろと勉強になった。

 他にもほうじ茶、お茶のお菓子。お茶ずくしである。

 お茶はいつも淹れるついでにナースステーションのみんなにも飲んでもらっている。

 お菓子なんかは受け取れないと断られてはいたが、俺のお茶を淹れるついでなら頂いてもいいそうだ。

 新しい茶葉を渡すと「お茶の人が来たんですね?」と言って嬉しそうにしていた。いいお茶だからな。

 松岡さんは、看護婦さん達の間ではすっかりお茶の人になっていた。


  ◇  ◆  ◇


 退院の日が明日に迫った。

 荷物を届けてやるよとマサオが請け負ってくれたので、必要のなくなった荷物をまとめて1日早く、マサオに荷物をアパートまで届けてもらう。

 退院当日のマサオはアルバイトのシフトが入っていて来られなかったのだ。


 マサオはいいやつだ。定期的に替えの服や入院生活に必要な品を届けてくれた。

これだけしてくれているのに「飯を奢ってくれ」の一言も言わない。

 これはうな丼、一番いいやつ。それもいい店を探さねば。


「マサオ。鰻丼を奢るよ。俺の退院祝いだ。次の日曜は空いてるか?」

「え? 田中が奢ってくれんの? マジで! お前いいやつだな!」


 マサオは手を止めて、俺を見る。マサオの手には俺のダメオTシャツが握られていた。

 動けない俺をいいことに、マサオが替えに持ってきた衣服……全部ダメオTシャツになっていたことがある。

裏返しにして着ても、白地に黒の文字は隠せなかった。

会う人、会う人、目線が下にいくたびに恥ずかしかった。

 やっぱ、奢るのやめとこうかな……。でも義理は果たさないとなぁ……。


「お前には、いろいろと世話をかけたからな。そうだ、入院した時にはでっかい缶に入ったサブレをくれたじゃないか。けっこうしたんだろ? 病室のみんなにも配ったんだ。そのお礼もだよ」

 ダメオTシャツをくれやがった件はなしだ。

「え? サブレなんて俺、買ってないよ。…………ああっ、あのサブレな! あれ、お前のうちに置いてあったのを持ってきたんだよ。1ヶ月も入院するって聞いたからさ、うちに置きっパにするのももったいねぇと思ってさあ。俺が買ってきたった気もするけど、あれ冗談だよ。知ってたんだろ?」

 ――?

 マサオは、Tシャツをバッグに詰める。

 ――?

「俺、……サブレ買った記憶……ないぜ」


 ――…………。


 マサオが再び手を止めて俺を観察するように見た。

「田中……車とぶつかった時に、頭打ったか?」

「さあ……。いや、マジで俺んちにあったの?」

「あったよ……」

 俺、頭打ってたんだろうか?

 マサオの顔は冗談には見えない。

いぶかしむ目で俺を見ている。実は冗談とか言ったら、マジで殴るよ?

 本当に買った記憶がない。事故に遭う以前の記憶はあるのにサブレを買った記憶がない。

「マサオ……お前、お隣さんの部屋にあったのを持ってきたんじゃねえの?」

「ちっ違えよ!?」

 着替えも私物も俺のものだし、マサオもそこまでアホなことはしない……と思う。


 誰かが勝手に出入りをしている?

 気持ちわるいな……。誰か心当たりがありそうなやつは……。

 俺には弟がいる。弟は実家で夫婦睦まじく農作業をしていたはずだ。

 今回、入院したことは伝えたが、あいつが勝手に……でも、そんなことをするようなやつではない。

「マサオ……他になにか、俺の部屋に変わったことってなかったか?」

「いやぁ、着替えしか見てなかったから……う~ん」

 マサオは考え込んだが、覚えていないという。

「荷物を置いたあと、部屋の中で変わったことがないか見てくれないか?」

「やだ。玄関に荷物置いたら速攻、帰るわ」

 マサオも何か気持ちのわるいものを感じたのだろう。すぐに断られた。


 マサオは怖がりなのだ。

 俺とマサオが仲良くなって、俺の部屋にも上がり込むようになった頃、「実はこの部屋、事故物件なんだよ」って明かしたらそそくさと帰ってしまったことがある。

 次に来た時には俺の部屋の壁に御札を貼り付けていた。

 それ以来、俺の部屋に来ることはあっても寝泊りはしていない。

 きっと、替えの着替えだって、さっさとまとめ、さっさと部屋を出ていたことだろう。


 あああ、気持ち悪い。サブレ……本当に買ったこと事故のショックで忘れていたんだろうか?

誰かの贈り物に買ったんだろうか? でも、そんな記憶もない。

ええ……。

 俺はこの夜、頭のことを心配し、恥ずかしい人生を一から順番に振り返りつつ床についた。

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