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第一話

「――田中さーん」

 ……。


 顔を上げると事務の鈴木さんがのぞき込んでいた。

 あさげの香りもなければ、鈴木さんは奥さんではない。

 ……そもそも奥さんがいない。


「おはようございます」

「……おはよう」


「お茶、れます?」

「……お願いします」


 俺は口元によだれが垂れているのに気づいてぬぐった。

 時刻は八時。あと二、三十分もすれば、ほかの社員も来るだろう。


 俺が勤めている会社は株式会社 KUROIクロイと言って、データ入力代行、Webデザイン等を手掛ける会社である。


 俺は再びデスクに突っした。彼女のお茶を淹れる物音に耳をすませた。


 事務の鈴木 美祢子みねこさん。

 歳は四十くらいだろう。

青ブチのメガネを掛けていて、髪は後ろでっている。

目尻のしわやほうれい線が深い。

きっといろいろと苦労をしているのだろう。

 あの皺を見ていると、『おつかれさまです!』と声をかけたくなるのだが、理由を話したら怒るだろうな。


「田中さん、泊まりだったんですか?」

 鈴木さんはそう言って、湯気の出るお茶を置いてくれる。あざっす。

 お茶は俺の停止寸前の五臓六腑に染み渡った。


「今日の午前中が納期でして、徹夜でもしないと間に合わなかったんです」

「ああ、……無理はしないでくださいね。体が一番の資本なんですから」

 理由を察したのだろう。なぐさめの言葉をかけてくれる。


 本来ならこの仕事は、俺を含めた三人で行うはずだったものだ。

 なんでひとりでやってるんだ? 新人の二人が辞めたからだ。ハハハ。

 この仕事は新人教育も兼ねて三人でやることになったのだが、二人共、仕事なかばにして社長に辞表を突きつけた。

 もともと離職率の高い会社だったさ。

 でも、二人同時に辞めるのは想定外。きっと裏で相談し合っていたのだろう。

 夜遅くまで続く残業。ケチな給料。綱渡りな納期。……わかるよ。

 前社長が存命中の頃は、ここまでハードではなかった。

あのバカ息子が社長になってからだ。――クロイがブラックになったのは。


 それに、……自業自得でもある。

 あの新人の採用に同意をしたのは俺だ。俺はこの会社の人事を任されている。

 誰に話したところで、『お前が採用したんだろ』と言われるのが目に見えている。

 でも、無理だろ? この会社に耐えられる人材を探せだなんて。

 面接の時のあの輝きに満ちた顔、わずか一週間で死人となった。

 転職後は、良い職場に巡り会えることを祈っているよ。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 鈴木さんが驚いた顔で俺を見ていた。


 ◇ ◆ ◇


「……ただいま」

 ……。


 自宅であるボロアパートの一室。

 返事はない。当たり前だ、独り身なのだから。

 残業続きでペットも飼えやしない。

 だから、俺は、事故物件を買った。――相当にんでいる自覚はある。

 今のところ、同居人の気配もなければラップ音もしない。

 いいんだよ。出てきてくれても。


 コンビニで買った弁当を温めてもそもそと食う。

 お茶が切れているのを見て、事務の鈴木さんを思い出した。

 疲れていたり落ち込んでいる時に優しくすれば、簡単に落とせると聞いたことがある。

 まさか鈴木さんに落とされるとは。相当に疲れているとみた。

 ――茶運び人形って、いくらで買えるんだろうな……。


 ◇ ◆ ◇


 ポウポーウ、ポウポーウ、ポッポ、ポウポーウ、ポウポーウ、ポッポ、ポウポーウ、ポウポーウ、ポッポ


 随分、近距離で鳴いている。窓のさくにでもまっているのだろう。

 鳥のさえずりとは言いがたい、むさっ苦しい鳴き声に目が覚める。


 秋らしい、朝の冷たい空気を胸に吸い込み、家を出た。


 駅までの並木道を歩く。

 並木は青々とした葉を茂らせているが、いずれは枯葉となって地に落ちる。

 この並木道が枯葉になると、俺は意味もなく寂しくなる。

 独り身の辛いところよ。

陶芸家にでもなれば、なにか侘び寂びのある、いい茶器でもつくれたのかもしれない。マジで目指してみようかしら……。


 ――車道の反対側、小さな女の子と、その手をひく母親が歩いていた。

二人は仲良さそうに、なにかを話しているようだ。


 俺の向かう駅とこの地区の保育園は近い。

きっと子どもを保育園へ送っているのだろう。

 俺はふたりの微笑ましい光景を時折横目に見て歩く。

 朝の通勤時、この親子を見ることが俺のひそかな楽しみだった。


――俺の歩く歩道の先に、なにかが出てきた。



 にゃ……にゃあ……



「あ」

 俺は足を止める。


 子猫が出てきた。

 俺の顔を見上げて鳴く。すげえ可愛らしい。

 だが……のみをもってる可能性が高いッ。できれば関わりたくはない。



「――ねこさんだ!!」



 親子のことを思い出した。


 母親の手を振り切って、走り出す女の子が見えた。

 母親の驚いた顔も見えた。口と目を大きく開けた、初めて見る表情をしている。

 女の子は喜色満面の顔で、目線は猫に釘付けだ。

 トラックが走っていた。中型だろうか。時速何キロ出しているのかまではわからない。

 だが、あんなのにかれたら無事ではすまんだろう。

 母親の口が、声を発するように形づくられる。


 一瞬の出来事が、なにもかもゆっくりと見えた。


 俺はただ黙って駆け出した。



 この幸せな光景を、明日も見たかった。



 意識した考えなんてものはない。

 女の子を抱え、トラックの衝突を回避する気でいたんだと思う。

 だが、パソコンばっかりで、ろくに運動をしてこなかった俺の足はもつれた。


 うッ! 嘘だろッ!?


 それでも、全力で手を突き出した。

 女の子は俺に弾き飛ばされてトラックの進路から外れた。


 俺の口元に笑みが浮かぶ。――なんで笑っているんだ?


 俺は自分の右肩にトラックのフロントが触っているのを見た。

 まるで静止画だ。

 耳に鈍い音が聞こえたかと思うと、世界は真っ白に染まった。


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