夕空の白鯨
仕事帰り、夕焼けの流れ雲が巨大な白鯨になって見えた。
男はびっくりして、慌てて後を追った。上空を鯨が飛行しているとは夢にも思って見なかった。
いや、飛行船ではないのだから、飛んでいるという表現はあまり適切ではなさそうだった。白鯨は胴体の鰭を上手に使って、文字通り空を泳いでいた。他の小さな雲を餌にして大量に体内へ取り込み、体を膨らませているようだった。
白鯨を追って走っていると、男はやがて見知らぬ工場地帯へやってきた。白鯨が空を真っ直ぐ進んでいくのを見るなり、男は防犯用のフェンスを乗り越え、さらに白鯨の動向を追うことにした。
白鯨は工場地帯の周囲をぐるぐると泳いで回っているようだった。工場の無数の煙突から、ひょろひょろとした蒸気が空へ何本も昇っていた。男は、これが白鯨の本命の餌なのだな、と勘繰った。上空を見上げていると、まるで何かの合図みたいになって、工場の駆動音が地鳴りのように辺りを震動した。
蒸気を目一杯吸い込んだ白鯨はさらに膨張を続けた。体がパンパンに膨れ上がり、もういつ破裂してもおかしくなさそうだった。白鯨はなおも上空を惰性で泳いでいた。食事はとっくに終わっているはずなのに、まだ何かを待っているようだった。
じっと眺めていると、いつの間にか日が暮れていることに気づいた。
瞬間、白鯨が思い切り爆ぜて飛び散った。蓄えすぎた蒸気に、お腹がとうとう耐えきれなくなったみたいだった。炭酸のような音を立てて周囲へ霧散していく蒸気を唖然として目で追い、男はしばらく身動きすることができなかった。
蒸気でキラキラと輝く白煙が夜空を覆い尽くしていた。工場の明かりがポツポツと灯りだし、入り組んだパイプ管が静かに脈動を始めて浮かび上がった。ああ、なるほど、と男はようやく納得した。
―― 白鯨はずっとこれを待っていたのだ。
男の眼前に、蒸気でぼんやりと霞んだ工場の夜景が静かに広がっていた。