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 次の日、私は鶴婆ちゃんの傍を、片時も離れませんでした。

 洗濯を怠け、庭にも出ず、神棚に捧げる花も切らずに、ただ水だけ替えると手を合わせ、俊之が再び、この家に来ないようお祈りしました。

 お婆ちゃんには、体のあちこちにできた擦り傷のことを、丘で遊んでいて転んだと説明しましたが、あまり良く分かっていないようで「あれまあ」と大げさな声で言われたわりには、特に心配したり、小言を言われるようなことはありませんでした。

 お婆ちゃんはもう視力もあまり良くないので、私の頬が腫れていることにも気がつかなかったようです。

 でも、それで良かったと思います。お婆ちゃんには、心配をかけたくありません。

 

 

 夕方にはいつも通り、幸子おばさんがおかずを運んで来てくれましたが、その日は特別に、新品の24色の色鉛筆と一冊の落書き帳もくれました。

 前の日は、私が沼から帰って来たのが日が暮れた後だったので、家に帰った時には、お盆に乗せたおかずが、玄関の板間に置かれていただけで、おばさんとは顔を合わせませんでした。

 なので私は怪我の事や、昨日、夕方遅くまで留守にしていたことを、色々訊かれるのではないかと不安で、俯きながらそれらを受け取りました。

 けれどおばさんは、その事には何も触れず、にっこり笑うと、

「もうすぐ新学期が始まるから、明日は洋服とか靴とか買い物に行っといで。10時に俊之を車で迎えに寄こすから」

 と言いました。

 私は俊之の名前を聞いて、弾かれたように顔を上げました。

 すると今度はおばさんが目を逸らし、私の擦りむけた膝の辺りにさらっと視線を走らせてから、

「私は田んぼの用があるから行かれないと思うけど……でも俊之にちゃんとお金を持たせておくから心配ないよ。何でも好きな物、買ってもらいなさい」

 とだけ言って、そそくさと帰って行きました。

 それを見て、私は勘で分かりました。おばさんは、昨日俊之が私に何をしたのか知っていると。

 そして知っていながら知らぬふりをするだけではなく、明日私と俊之を二人きりにしようとしているのです。

 だから、叩かれて腫れた私の顔を見ようともせず、罪滅ぼしのつもりかどうか分かりませんが、好きな物を買って良いなどと、子供だましな事を言ったに違いありません。

 何とかしなくては。このままここに居ては、私は俊之のおもちゃにされてしまいます。 

 どうしたら良いのでしょう。この村から逃げ出したい。けれど鶴婆ちゃんがいます。お婆ちゃんを、見捨てるわけにはいきません。


 その夜、私は鶴婆ちゃんの布団の横に、自分の布団をぴったりと寄せて敷き、暗い部屋の中で、鴨居に掛けられた写真の女の人をじっと見つめていました。

 その人が祖母、おばあちゃん、という感覚は全く湧きません。

 何と言っても、母よりもずっと若いのですから。

 母もこの祖母みたいに、いつも笑っていてくれたら良かったのに。

 私は母の面影に、美しい写真の祖母の顔を重ね、それからその上に、さらに沼に現れる彼女の顔を重ねながら、どうやって、この緩い檻のような中から逃げたら良いのか、心の中で問いかけました。




 朝、いつもより早めに起きると、私はすぐにその日やらなくてはいけない事を済まし、鶴婆ちゃんのお昼の為に、小さなおにぎりを4つ作りました。

 そして座卓の上に置いて蠅帳はいちょうを被せ『幸子おばさんと町に買い物に行ってきます』と半分嘘を言い残し、自分もおにぎりとお手玉をポシェットに詰め、九時過ぎには家を抜け出しました。

 グズグズしていると俊之が迎えに来てしまいます。その前に、ここから逃げるのです。

 お婆ちゃんが起きている間に、俊之に家に来られてしまったら、居留守を使うわけにはいきません。何も知らないお婆ちゃんは、喜んで俊之と出掛けるように言うでしょう。

 車に乗せられてしまったら、どこに連れて行かれて、何をされるか分かりません。

 なのでその前に沼に行って、一日隠れていようと思ったのです。

 その場しのぎの、浅はかな考えでしたが、結局、逃げる場所と言ったら、私には沼しか無いのです。

 それに、彼女にも会いたかったのです。

 昨日一日会わないだけでも、とても淋しかったですし、心細かったです。

 もう、村の誰も頼りにはできませんが、彼女だけは違います。

 何も言わなくても彼女とは心が通じますし、優しくしてくれます。

 私にとって彼女は、たった一人の大切な友達でした。




 初めて見る午前の沼は、いつもと全く様子が違いました。

 東からの陽を浴びて、いつもは深緑色の水面が、今日は繊細な白銀の鱗のようにキラキラと輝き、ぐるりと沼を縁取る草は、洗いたての髪のように、まだ朝露を残して光っています。

 私はお決まりの桟橋の先に座り、しばらくその意外なほど明るい景色を眺めていました。

 それからお手玉を始めて、彼女が踏み板の割れ目から現れるのをじっと待っていました。

 なぜ彼女が、いつもそこから出てくるのかは分かりません。例えば神様に捧げる御供物の並べ方に決まりがあるように、彼女があちら側からこちら側にやって来るための、大切な手順なのかもしれません。

 なので私はその手順を変えないように、お手玉唄を歌いながら、そちらに背を向け待っていました。

 けれどその日は、いつまで経っても彼女が現れません。

 お昼前には会えないのでしょうか。それともこの前、帰り際に振り返ったのがいけなかったのでしょうか。もしかしたらすぐそこを泳いでいるのに、煌めく水の反射で良く見えないだけかもしれません。

 私は不安になり、お手玉を止めると手を顔の前にかざして光を遮り、水面に目を凝らしました。

 後ろから少し強めの風が吹き、水面はさらにチラチラと眩く波立ち、森の木々が一斉にざわめき始めます。

 そして聞き覚えのある音が、風に乗って運ばれてきました。


 シャラシャラシャラシャラ……


 水の流れに聞えるそれが、そうではないと知ったのは、もうだいぶ前のような気がします。

 嫌な予感が走り、そっと後ろを振り返ると、桟橋のたもとに赤いかざぐるまを手にした俊之が立っていました。

「やっぱり此処に居たのか」

 その顔には、お面のような笑みが浮かんでいます。

 それを見て初めて、俊之と幸子おばさんは似ていると思いました。

「ガキってのは、行っちゃいけないって言われた場所に限って、来たがるもんだ」

 俊之は、わざとらしい笑みを浮かべて桟橋の上をゆっくりと、こちらに向かって歩き始めました。

 私は黙って立ち上がり、じりっと後ずさりしました。

 かざぐるまの細い柄は、俊之に握られ風を受け、激しく回っています。くるくるくるくるくるくる回って、その赤が、あの時私の体から流れ出た血の色と重なり、頭の中に真っ赤な血しぶきが飛び散るようです。

 その血を避けるため、私は心の中の小さな扉を閉じました。

「実は俺も、昔は此処によく遊びに来たんだ。婆さんが死んだ場所だって聞いたから、面白半分でな」

 俊之は思いもよらず、穏やかな声で話し始めました。けれど『死んだ場所』と、『面白半分』という言葉が頭の中で繋がりません。一体何が面白かったというのでしょう。

 私が怪訝な顔をしていると俊之は、

「婆さんって、うちのクソババアの事じゃねぇよ。本当の婆さん。……十九で、ここで自殺した、俺とオマエの婆さんだ」と言いました。

 私だけの隠れ家のつもりだった大事な沼に、俊之が来たということへの落胆の方が大きくて、私は今、聞かされている事の意味まで、気がまわりませんでした。

 それにこの男の言う事は、もう聞いてもしょうがないように思えました。

 そしてそこから更に後ずさりしましたが、かかとの裏に、もう板の感触はありません。その先は無いのです。

 俊之は桟橋の途中で立ち止まり、自分の足元の踏み板の割れ目を眺め、それから突端に立つ私を見て言いました。

「ここはもう腐りきっている。危ないからこっちに来い。それともまた無理矢理引っ張って帰るか?」


 腐っているのはおまえだ。


 頭の中で、誰かが叫ぶのが聞えます。

 そして私に、精いっぱい俊之を睨むよう命令します。

「そんな顔するな。俺は将来、オマエの婿さんになるんだぞ」

 私は驚いて目を見開きました。

 それを見て、俊之は呆れたように言いました。

「なんだ。クソババアの奴、まだ何も話してないんだなあ。……凛、俺とオマエは結婚するんだ。あと七年経ったら、鶴の大婆さんの家で、俺も一緒に住むんだ」

 俊之はそう言うと、口の端だけ引きつらせて笑いました。

 なぜ私が、こんな薄気味悪い男と、将来結婚しなくてはならないのでしょう。

「うちのクソババアが言い出したんだ。鶴の大婆さんも納得してる。この村の親戚共も、渋々認めた事だ。大婆さんが死んじまったら、遺産相続で面倒くさいことがたくさん起きるから、とりあえず俺とオマエが結婚すれば、色んな心配がなくなるんだとよ。まあ、俺は頭も悪いから、遺産がどうのこうのなんてよく分からねえけど。……そんなことより、凛が俺のものになるならそれで良いんだ。……オマエの母ちゃんも、自殺した婆さんも、鶴の大婆さんも、村の中ではとんでもない美人だったらしいけど、クソババアだけは誰にも似てないって、俺のオヤジが良くこぼしてた」

 俊之は、私が黙っているのを良い事に、一人でべらべらしゃべり続け、またクックックと、笑いました。いちいち勘に触る笑い方です。そして本当に頭の悪い男だと思います。


 そろそろ黙らせろ。


 誰かがそう言いました。

「……あと七年経って、凛がどんな女に育つのか楽しみだ。今だってもう、こんなに可愛いくてたまんねえのに。学校に行くようになったって、他の男のガキどもと気安くするなよ。オマエは俺のことだけ見てればいいんだ」


 こいつは頭が狂ってる。


「これからは俺が毎日遊んでやる。こないだのことは……ちょっと早すぎたけど、俺と必ず一緒になるっていう証しだ。結婚すれば誰だってやることだ。すぐに痛くなくなるし、そのうち良くなってくる。そうしたら人形なんかで遊ぶより、オマエだって俺と遊ぶ方が愉しくなるさ」


 消えてしまえ。


 私もそう思いました。

 俊之が無意識に舌舐めずりするのを見て吐き気がしました。

 財産のことなど、何の事だかさっぱり分かりません。

 それに俊之のせいで、私だけでなく、母や、写真の中の祖母や、鶴ばあちゃんまでが汚されたように思えて、不快の極みでした。

 本当に、黙ってもらったほうが良さそうです。

 そしてお腹の底から、めらめらと憎しみが込み上げてくるのを感じました。


 消えろ


「どうした、そんな怖い顔して。今日はこれから凛の欲しい物、何だって買ってやるぞ。だからそんなに嫌がらないで、少しは俺に懐け。心配するな。さっき、大婆さんとこに寄って小遣いも巻き上げて来た」

 もう頭の中では、ドラム缶を叩くような音がガンガン響いて何も聞えません。

「ほら、これだって欲しかったんだろ?こんなもん、盗ったって誰も怒りやしねえ。そら、やるよ」

 俊之はそう言って、かざぐるまを私の方へ差し出しました。

 そして踏み板の割れ目を跨いで越えました。

 その拍子に、二人の体重を支えていた桟橋の木杭が大きく揺らぎました。

 揺れに一瞬、体勢を崩した俊之は、顔に動揺の色を浮かべて、

「お、おい!早くこっちに戻って来い!!ここは壊れるかもしれないぞ」

 と言いました。

 私は沼の方を振り返りました。

 波紋が、白銀色の水面に、幾重にも輪を描いて広がっていきます。

 けれど私は、もしこの桟橋が壊れたとしても怖くはありません。

 なぜならもう、すでに一度、自分から飛び込んだ沼なのです。

 私はあと一歩、俊之がこちらに近づいたら、沼に飛びこもうと覚悟を決め、傾いた桟橋の上で情けなく腰が引け、それでもなお私へとかざぐるまを差し出している俊之の足元を、じっと見つめました。

「早く来いと言ってるだろう!!」

 鋭い怒声が響いたあと、俊之の足首に、不意に白いものが絡みつくのが見えました。

 と同時に両膝がガクンと折れ、一瞬、目を丸くした俊之の手から、かざぐるまが落ちました。

 そして、踏み板の上に不様に突っ伏し、その体が桟橋の割れ目の間に、ズルッ、ズルッと少しずつ引きずり込まれていきます。

 突然の事に私があっけにとられていると、今度は桟橋の下で、おびただしい数の魚が跳ねまわっているような音がして、桟橋全体がユサユサと揺れ始めました。

 俊之も、自分の身に何が起きたのか分かっていないようで、ただ目を見開き、口をぱくぱくさせながら必死に腕をあちこち伸ばし、掴む場所を探しています。

 その間にも、体は徐々に割れ目の中に飲まれて行きます。

 そして胸が見えなくなり、ほとんど顔と腕しか見えなくなった時、かろうじて踏み板と踏み板の継ぎ目に、指先が引っ掛かりました。

 そして、そのわずかな隙間に力を込めて爪を立て、凄まじい形相をした俊之と目が合いました。

「凛!」

 水の中へと引きずり込もうとする、得体の知れない力にあらがいながら、俊之が叫びました。

 桟橋の下では、激しい水音が続いています。

「凛、沼の中に何かいる、引っ張ってくれ、凛!!」

 けれど、俊之の脚がもがいているだけとは思えない尋常ではない水音と、ギシギシと軋んで揺れる桟橋に恐れをなし、私はその場に座り込んでしまいました。

「凛、助けてくれ!!」

 俊之が、私の名前を呼んでいます。

 けれど私は動けません。

 その手を取る事が、どうしてもできないのです。

 すると突然、俊之が目玉をひんむき「ぐああ」と恐ろしい叫び声をあげました。

 それからギリギリと歯を食いしばり、その苦悶の表情から、単に溺れかけているのではないという事が、私にもはっきり分かりました。

 何かに体を、締めあげられているようで、俊之の顔が段々と赤紫に膨れて行きます。

 私は目を逸らすこともできずに、蛙のように飛び出始めた、俊之の真っ赤に充血した二つの目を見つめていました。

 そして板の継ぎ目に掛けた爪先から、何かが弾けるように飛んだあと、俊之の黒目がすっと上を向き、その動きにつられて私も思わず上を見ると、雲ひとつない空が見え、その空の青さに一瞬、気を取られている隙に、耳に、こぷっ、という奇妙な音が聞えて視線を戻すと、俊之はもう、そこには居なかったのです。


 地震のように揺れ続けていた桟橋が、ようやく静かになった頃、私はよろめきながら立ちあがり、踏み板の割れ目にそっと近づきました。

 辺りには、小さな桜の花びらのようなものが何枚か落ちていて、良く見ると、それは俊之の肉の付いた爪でした。

 私は胸の鼓動を抑えながら、板の割れ目を覗きました。

 桟橋の下の水は、やはり私の良く知る深緑色です。

 澱んで何も見えません。

 すでに波紋も消えた後で、のっぺりと鏡のような水面に、私の顔が映っています。

 その顔の下で、白いものがゆらめきました。

 それがゆっくり、くねるように、こちらに向かって伸びて来ます。

 彼女です。私の大好きな彼女が、ようやく来てくれたのです。

 水の中から、白百合のようにほっそりとした手が現れました。

 けれどその皮膚は、白く艶やかな鱗に覆われていたのです。

 そしていつにも増して宝石のように輝き、この世のものとは思えないほど美しく見えました。

 その手が、するすると踏み板の割れ目から伸びてきて、それから真っすぐ、森を指差しました。

 帰りなさい、の合図です。今、来てくれたばかりだと言うのに。

 悲しいですが、つまりそれは、ずっとお別れということのように思えました。

 私はきっと、もう此処へ来てはいけないのでしょう。

 最後にその手に触れようと、私は両手を差しのべました。

 けれど私の手が届く前に、その手はとぷん、と、沼の中に消えました。


 沼から森へと風が吹きます。


 私はそっと立ちました。

 そして赤いかざぐるまを拾うと、踏み板の割れ目を飛び越えて、森の中へと駆けて行きました。




















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