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 ある日のことでした。

 朝から怪しい雲行きで、昼前から酷い土砂降りとなり、遠くで雷の音が聞こえてきます。

 お昼ごはんを簡単に済ませ、鶴婆ちゃんが奥の間で居眠りを始めてしまうと、私はこの雨の中、沼に遊びに行くわけにもいかず、仕方なく玄関を上がってすぐ横の次の間で、お婆ちゃんの古い裁縫道具を引っ張り出して、人形をこしらえることにしました。

 色とりどりの、着物の端切れが入った木箱の中から、白いすべすべした絹の布を選んで、細い大根のような形をばさみで二枚切り抜き、糸で縫い合わせて胴体を作り、それから卵型の頭とひょろ長い手を同じように作り、それぞれに綿を詰めて胴体に付けました。

 頭には緑色の刺しゅう糸をほぐし、髪に見立てて縫い留めました。そして赤いビーズで目を付けて、万年筆で青い舌を長く描き、滲んでしまったインクを見て失敗した、と思った時、何の前触れも無く、俊之が現れました。

 俊之は、土砂降りの音に紛れてやって来て、勝手に玄関を上がり、次の間に入って来ると、

「ほら、約束だ」

 と言って、あっけにとられる私の前に、クマのぬいぐるみを差し出しました。

 クマは私の想像していたものとは違い、全然小さかったです。

 私は多分、嫌な顔をしたのだと思います。

 そしてそれを受け取らずに、今、作り上げたばかりの白い人形を握りしめていると、俊之はいきなりクマを畳に叩きつけ、私の手から人形を取りあげて、

「何だ、この薄気味悪い化け物は」

 と言って、緑の髪を引っぱって、頭ごともいでしまいました。

 私が怒り、それを取り返そうと掴みかかると、鋭い音と共に頬に痛みが走り、私は畳に転がっていました。目の前に、クマの小さな背中の縫い目が見え、私が一瞬、もうろうとした頭でそれに向かって手を伸ばすと、俊之はクマを蹴飛ばし、私の腕を掴んで引き起こし、片手で口を塞ぐと、そのままお婆ちゃんのいる奥の間とは正反対の、台所の横の六畳間へと連れて行きました。

 そこで顔を何度も叩かれ、痛みとしびれで声も出せなくなると、俊之は私の服を脱がせ始めました。

 手脚をバタつかせて暴れると、また平手が飛び、それから私を獲物のように見降ろし、

「大人しくしてれば、痛くないようにしてやる」

 と言って、ゾッとするほど冷やかに笑いました。

 私は恐怖に震え、抵抗するのをやめました。

 涙はとめどなく流れていましたが、怖くて声は一切出ませんでした。

 雨戸も襖も閉じた部屋の中は薄暗く、そして異様に蒸し暑く、時折、家全体を揺るがすような雷鳴が聞えます。

 それでも鶴婆ちゃんは、ぐっすりと眠っているのでしょう。

 私は大きく目を見開いたまま、時が過ぎるのを待ちました。

 鋭い稲光が雨戸の隙間から入り込み、その光で俊之の肩越しに、天井を大きな手のひらのような蜘蛛くもが、のっそり歩いて行くのが見えました。



 俊之が帰ってしばらくしてから、雨が上がりました。

 私は沼に駆けて行きました。

 駆けながら、途中何度も、ぬかるんだ泥に足を取られて転びました。

 それでも私は痛みも感じず、さっきから全く鈍感になってしまった皮膚のあちこちから血を流しながら、どうしようもなく悲しくて、その悲しみに追い立てられるように走りました。

 涙はもう一滴もこぼれません。

 沼は、雨で水かさが増し、桟橋の先端は水に浸っていました。

 それでも構わず、私はぶかぶかとする踏み板を渡り、そのまま沼に飛びこみました。

 ざん、という音がして、目の前が緑一色に染まります。

 それ以外は何も見えません。

 私は泳ぐこともせずに、ただ体が沈んで行くのに任せました。

 死のうという意思があったのかどうかも分かりません。

 ただとにかく、何も考えたくなかったのです、何も見たくなくなったのです。

 なので、この緑の不透明な沼の中に入れば、余計な事を見たり聞いたり感じたりすることも無くなるだろうと思ったのです。

 でも、だんだん苦しくなってきました。

 空気が足りません。

 口を開くと空気の代わりに、水がひと塊となって喉の中に押し入ってきました。

 苦しいです。

 苦しい。

 あちら側も、こちら側も、どちらに行っても苦しい。

 息のできないこちら側が、身に迫る死の実感へと変る頃、不意に私の手は誰かに強く握られて、ぐいぐい上へ上へと引っ張られて行きました。

 彼女です。

 直感的に、私はそう思いました。

 そしてそのまま、水に浸かった桟橋の先から踏み板の上へと、体が押し上げられていたのです。

 私が大きくむせながら、飲んだ水を吐いているのを、寄り添う彼女の赤い目が、心配そうに見つめていました。

 それから彼女は、沼の反対側に泳いでゆき、手に丸い大きな浮草を、いくつも抱えて戻ってきました。

 そして不器用に白い片手をつき、桟橋に這い上がると、その浮草の、風船のように丸い茎を二つに割って、中からフワフワと透き通る、美しい綿を取り出しました。

 それから、その綿を胸に抱えて岸の方を向くと、また片手で水の痕を残しながら踏み板の上を這って行き、板の割れ目を超えてから、ようやくゆっくりと、白い背中を丸く屈め、細い脚で立ち上がり、おぼつかない足取りで歩きはじめました。

 そして長い手で、辺りに生えた、雨露のまだ残る木を揺らし、落ちてくる雫で綿をたっぷり湿らせました。

 沼で泳ぐ姿と違い、彼女の脚は細く長過ぎ、歩く姿は頼りなげでした。

 それでも私の所によろよろと戻ってくると、私の泥だらけの体を、水を含んだ柔らかい綿で優しく拭ってくれました。

 それから顔、腕、脚のあちこちの擦り傷から滲む血を、青い舌で綺麗に舐めとり、最後に、俊之に破瓜はかされたところも、丁寧に、ゆっくりと清めてくれました。


 カナカナ蝉の鳴く声が、木霊こだまのように遠く、近く、響く中、私達はしばらく雨の乾き切らない桟橋の上で、じっと並んで座っていました。

 彼女はいつものように、薄い笑みを浮かべることも無く、まだ心配そうに私のことを、赤いビー玉色の瞳で見つめていました。

 顔立ちは、やはり母に似ています。

いえ、それよりも、鴨居に飾られた写真の人、鶴婆ちゃんの娘。つまり私の祖母に瓜二つです。

 けれどそれは違うのです。

 夕暮れの風が、緑の沼の水面を揺らし始めます。

 彼女はそっと立ち上がり、森の方を指差しました。

 私も立ち、彼女に向かって、いつもより少しばかり力無く手を振りました。

 そして桟橋を降りてから、初めて後ろを振り返ると、白く艶やかな長いものが、桟橋からするりと水の中へ消え、ただ、か弱い水紋が、円く、ゆっくりと広がって行くのが見えました。














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