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 それから次の日も、またその次の日も、私は沼に行きました。

 そこでお手玉をするのです。

 丘から森の中を下って沼に着くと、私は桟橋の先に腰掛け、両足を降ろしてぶらぶらさせながら、水筒に入れてきた砂糖を溶かした甘い麦茶を飲みます。

 一息つくと、両手三つのお手玉を始め、お手玉唄を歌います。

 そして私の歌が、小気味良い小豆の弾む音と共に、沼いっぱいに響き渡る頃、彼女がやってくるのです。

 ほら。後ろで小さな水音がします。

 そして、割れた踏み板が軋みます。

 それから桟橋の上を這う音が、だんだんと近づいてきます。

 そして頭より高く放ったお手玉が、一つ、二つ、三つ、と戻ってこなくなり、伸び掛けの髪に滴る水滴の感触に上を見ると、濡れた細い指の中に、浅黄と青磁と紅のお手玉が握られていて、美しい女の人が、薄い笑みを浮かべています。


 彼女は白く滑らかな脚を、長々と水の中に浸して私の横に腰掛け、唄に合わせて、色々なお手玉の遊び方を披露してくれます。

 とても素早い手さばきで、三色のお手玉を片手で高く、間合い良く、空に放っていきます。

 それはまるで、良く訓練された小ネズミのように、ひょいひょいと飛んではまた手の中に戻ってくるのです。

 最後に彼女は、唄の終わりにちょうど合わせて、しゃん、しゃん、しゃん、と、指を反らせた手の甲に、三つのお手玉を器用に受け止め、それらをポン、といっぺんに返して手のひらの中に収めてみせました。

 鶴婆ちゃんのやり方と同じですが、その指の動きがとにかく優雅で美しかったので、私は思わず手を叩いて喜びました。

 彼女は薄く笑って、お手玉を全て私に返してくれました。

 今度は私の番です。

 二つ片手の方法は彼女に教わって、もうすでに出来るようになっていました。

 けれど三つ片手は初めてです。緊張します。

 私は今、見ていた通りに、右手の中の三つの中から紅を一つだけ、ポンと放り、それが落ちてきたのを、しっかり手に掴んでから、今度は浅黄を放ります。それから青磁。

 けれどぎこちない手の動きで、うっかり手の中の紅を沼に落としてしまいました。

 私が「あっ」と声を上げると、横にいた彼女は全く慌てる様子も無く、水に浸った脚の方から、するりと飛沫一つ上げること無く沼の中に滑り込み、そのまま見えなくなりました。

 私がきょろきょろと辺りを見渡していると、しばらくして、彼女が沼の中程から顔を出しました。

 そして見つけてきた紅のお手玉を、長い手でひょいと私の方に投げてきました。

 私がびしょびしょの紅い玉を、咄嗟に胸で受け止めると、彼女はそれを投げ返すようにと、水面に両手のひらを百合のように広げます。

 私は思いきりそちらに向かってお手玉を投げてみましたが、それは彼女の居る所より大分手前に落ちたので、彼女はまた水に潜ってそれを拾い、私に投げてよこします。

 沼の中と桟橋で、お手玉の投げっこです。

 私は楽しくなって、一人で声を上げて笑い、わざと彼女の居る所と逆の方にお手玉を投げたりしましたが、それでも彼女は、必ずそれを見つけて拾って来てくれるのです。

 そんな事を何回か繰り返していると、彼女は私に向かって手招きしてきました。

 すいすいと泳ぎながら、しきりと私を水の中から呼ぶのです。

 けれど私は泳ぎに自信がありませんでしたし、何だか緑色の沼の水に、裸で浸かる気にはなれませんでした。

 なので彼女の誘いに首を振り、ただ西に傾いた陽が射し掛かる桟橋の上で、彼女が長い髪を水面に広げ、白く滑らかな体をくねらせながら、気持ち良さそうに泳ぐ姿を眺めていました。

 ひとしきり泳ぐと、彼女は再び踏み板の割れ目から桟橋に上がって来て、水の滴る体のまま、私をそっと抱きしめます。

 そして、板の上に二人で横たわり、私は陽に当たって火照った体を、彼女のひんやりとした細い腕に預けます。

 目の前に、ほっそりとした体とは対照的な、白いたわわな乳房があり、目を閉じてそこに顔を埋めると、自然に母の姿がまぶたに浮かびます。

 服が濡れることも気にせず、ただ静かに抱かれていると、額を冷たいものがチロチロと撫でるのを感じます。その間、私は目を閉じて、薄い雲母うんもはがれるような微かな音が鳴り止むまで、じっとしています。

 そうして、陽を浴びた私の体がすっかり熱を吸い取られた頃、彼女がすっと身を離します。

 ぼんやりと、夢心地のような気分が覚めて行き、ゆっくりと目を開くと、夕暮れ時を前に、さらに深みを増した緑色の沼を背にして、彼女が立っていました。

 そしてゆらりと片手を上げ、森の方を指差します。

 それがその日のサヨナラの合図です。

 顔に掛る長い髪の隙間から、赤い瞳を光らせる彼女に手を振り、私は桟橋の割れ目を飛び越えて、森の中を帰って行きます。

 その間、私は決して振り返ることはしませんでした。

 何故か、そうしないといけないような気がしたのです。

 そうしないと、もう二度と、彼女には会えなくなる。そんな気がしたのです。





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