四
近付いてみると、それは赤い前掛けを下げたお地蔵さんの列でした。
お地蔵さん達は、鉄条網からぼうぼうと伸びた雑草を背負わされ、横一列に並んでいます。
ひどく古ぼけ、左の三つは台座の底から草の根に持ちあげられて傾いてしまい、赤い前掛けが無ければ、ただの崩れかけの石くれのように見えます。
その隣からは、丸い頭と撫で肩の輪郭が、苔に蝕まれながらも残っていて、どうやら左から古い順に並んでいるようで、右に行くに従い柔和な表情も読みとれます。
そして右端の一番新しいお地蔵さんまで数えると、全部で十五体ありました。
特にお供えなどはありませんでしたが、それぞれ一体に一本ずつ、プラスティックで出来た、真っ赤なかざぐるまが立ててあります。
なぜこんな所に唐突に、たくさんのお地蔵さんがあるのか不思議に思い、私は周囲を見渡しました。
けれど特に何という事はありません。
気付いた事といえば、ここが下り坂の底辺のようで、その先は少しずつ上り坂になっている事ぐらいです。
そして地面自体は、鉄条網で仕切られている森の方へさらに下がっていて、そのせいで道も歪み、アスファルトは亀の甲羅のようにひび割れ、左の路肩には大きな水溜まりができていました。
右端のお地蔵さんは、まだ新しいのに、なめくじの這った痕が銀色の筋となって光っていて、薄らと水染みが浮いています。
台座の下も、その後ろに生い茂る雑草の根元も、まるっきり水浸しです。
雨はもう何日も降っていませんが、水溜りの中にはボウフラまでわいています。
恐らくこの辺りは、森の中の水の通り道となっていて、川になる程では無いにせよ、日陰の中、乾くことも無く、この辺りに水気を留めているのでしょう。
私がその銀色の筋を辿ってなめくじを探していると、背中の方から涼しい風が吹いてきました。
その風で、目の前の雑草が、何か大きな生き物が駆け抜けるかのように一方に向かって流れ、それから赤いかざぐるまが一斉に音を立てて回り始めました。
しゃらしゃらという軽やかな羽の音が、蝉の鳴声と重なり合い、まるで小川のせせらぎのように聞えます。
それを聞いて、私はふと、昨日お婆ちゃんが歌ってくれたお手玉唄を思い出しました。
みずるめ どこおっちゃ ぬまんなか
しゃらしゃら かぜのね きこえたら……
風がさらに吹いて来て、くるくると気持ち良く回るかざぐるまに合わせ、私はお手玉唄を口ずさみました。
そして歌い終わると風も止み、かざぐるまは次第にゆっくりと、それからピタリと止まってしまいました。
辺りが急に静まり返り、私はつまらなくなって前屈みになり、動かない赤い羽にフーッと息を吹きかけました。
すると羽は少しは回ってくれましたが、私の細い息では、先ほどのように勢い良くは回りません。
それで私は、いつもなら決してそんなことはしないのに、つい魔が差して目の前のお地蔵さんのかざぐるまに、手を伸ばしてしまったのです。
もちろんすぐに元に戻すつもりでした。ただちょっとだけ借りようと思ったのです。
けれど私が出来心で、台座からひょいとそれを抜いた時、運悪く左の方から車の音が聞えてきて、ハッとそちらを向くと、見覚えのある車がやって来るのが見えました。俊之の車です。
その瞬間、私の心臓は縮み上がり、そして咄嗟にお地蔵さんの後ろに周り、道にお尻を向け、頭を草叢に突っ込んでしゃがみ込みました。
かざぐるまを抜いたのを見られてしまったかもしれません。
俊之は盗んだと思うに違いありません。
そう考えると私は恐ろしくなりました。
こんな所にいたら、すぐに捕まってしまいます。
動転した私は、もう叱られることしか頭に浮かびませんでした。
他にどこか身を隠せる場所はないかと急いで辺りを見回しました。
車の音が近づいてきます。
早くここから逃げなくては。
さもないと、こっぴどい目に遭わされる。
そう思った時でした。
さっきよりずっと強い風が突然、後ろから吹きつけて来たのです。
その辺の小石と共に、屈んだ私のスカートがめくれるほどの強さです。
その風が、鉄条網の中の密生した草叢を二手に押し分け、するとそこに茶色い地面が抜け道のように現れたのです。
風はそこを、大蛇のようにうねりながら進んで行き、私はかざぐるまを握りしめ、鉄条網を急いでくぐり、風の後を追いました。
茂みに入ってしばらくすると、風は嘘のように止み、草が覆い被さり私の姿を隠してくれました。
そして、その小さな緑のトンネルの中を、私は這いつくばって進みました。行く先に何があるのか分かりませんが、地面は間違いなく下っています。
ぬかるみに着いた手も足も、すっかり泥で汚れてしまいましたが、そんなことは気にしていられず、少しでも俊之から遠ざかろうと必死でした。
そしてもう充分進んだと思った所で、一度止まって耳を澄ませました。
草の中、自分の息使いとコオロギの声が交差して、上からは蝉の声が絶え間なく降り注いできます。
けれど車のエンジンの音や、俊之が追ってくる足音や声は聞えません。
私はホッとして、しばらくそこで呼吸を整えると、恐る恐る膝立ちになって後を振り返りました。
やはり誰もいません。
私は胸を撫でおろし、それからようやく立ち上がりました。
片手にしっかり握っていたかざぐるまは、羽がぐしゃぐしゃに折れてしまい、もう回りそうにありません。
がっかりです。でも仕方ありません。
私はうな垂れていた顔を上げ、前を見ました。
するとその先に、沼があるのが見えたのです。
私は泳ぐように草を掻き分け、その淵まで駆けて行きました。
それは小さな沼でした。緑色の沼です。
田んぼ一反より少し大きい位で、私の足で歩いても、十分とかからないで一周できてしまいそうです。
そして淵から古い木の桟橋が張り出していました。
畳を二枚つなげたくらいの短いもので、沼の中に打ちつけられた木杭は、緑色の苔に覆われ、踏み板も一か所が割れていて、ほとんど朽ちかけているようです。
沼の周囲には、私が今掻き分けて来たのと同じ草がびっしりと生えていて、水の中に長い髪の毛のように垂れ下がっています。桟橋の対岸の方は、小さな浮草に隙間なく覆われていて、まるで緑の絨毯が敷かれているようで、その上を歩いて行かれるのではと思ってしまう程です。
どこからが沼でどこからが岸なのか、そんなあやふやな輪郭をかろうじてはっきりさせる高く茂った雑木は、午後の西日を遮り、水面に黒い人の群れのような陰を落としています。
私は目の前に現れた怪しげな沼に心を奪われ、しばらく茫然とその場に立ち尽くしていました。
それからもっと近くで見たくなり、一歩、また一歩と吸い寄せられて行きました。
そして、朽ちかけた桟橋に足を降ろそうとしたその時、いきなり後ろから両腕を掴まれ、私はあっと声を上げる間もなく、次の瞬間には体が浮いて、手から離れたかざぐるまが桟橋の踏み板に一度当たって、それから沼に転げ落ちるのが見えたあと、気が付けば私の体は、俊之の右肩に米袋のように担がれていたのです。
私が驚き、俊之の手を振りほどこうと暴れると、肩に乗ったお尻を強く叩かれ
「ここは子どもが何人も溺れ死んでるんだ。おまえも死にたいか!」
と怒鳴られました。
そのまま草を踏みしめ、俊之は大股で道路の方へ戻って行きます。
いつの間に後ろに居たのでしょうか。あんなに一生懸命逃げたつもりだったのに、俊之には私の行動などお見通しだったのです。
私は悔しくて、何かわめきながら俊之の背中を拳で叩き続けました。
叩きながら遠ざかる沼の方に目をやると、かざぐるまはいつの間にか、緑の沼の真ん中に、赤い蓮の花のように浮いていました。
そしてそれがくるくる回り、それからトプン、と水の中へ消えました。