二
私は九月に転入する小学校の、新学期が始まるまで、友達も無いまま一人でこの家で過ごさなくてはならないようでした。
ここには東京に居た頃はたくさん持っていた人形も、ぬいぐるみも漫画もありません。母は私のお気に入りだった玩具や靴、着替えなどを後から送ってくれると言いましたが、それはなかなか届きません。退屈でした。
鶴婆ちゃんは足が悪いので、私と外で遊ぶというわけにはいかず、大概は一番奥の八畳の正方形の畳部屋で、寝たり起きたりしています。
私の部屋はその隣の同じような畳の部屋で、松の透かし彫りの入った欄間と、4枚の襖で仕切られているだけなので、お婆ちゃんが咳をしたり、トイレに行きたがったりしたらすぐに分かります。
部屋には鶴婆ちゃんのお嫁入りの時の三面鏡と、黒くて円い鋳物の錠前の付いた和箪笥と、その横に白い小振りの真新しい洋服箪笥が置いてあります。
この洋服箪笥は私の為に、鶴婆ちゃんがあらかじめ取り寄せてくれた物です。白い化粧合板の扉をぱちんと開くと、接着剤のような匂いがして、その中に私は、旅行カバンに入れて持ってきたスカートとブラウスをそれぞれ二枚、丁寧にハンガーに掛けて吊るし、それからお気に入りのリスの絵柄のポシェットをその中に仕舞いました。
このポシェットは自分で持ってきておいて本当に良かったと思いました。
今はこれしか入っていませんが、そのうち荷物が届けば、こんな小さな箪笥はすぐに一杯になるでしょう。
お婆ちゃんの部屋の方には、古めかしい、どっしりしたチャンネル式のテレビがあり、大きな黒い仏壇のある床の間があり、鴨居には亡くなったご先祖様の白黒写真がずらりと並んでいました。
それが部屋の中で過ごす私とお婆ちゃんの事を、いつもじっと見おろしているような気がしました。けれど別に悪い感じではありません。
私は思いつきで、襖を全部開いて三面鏡の角度を調節し、少し濁ったような三つの鏡面に、全てのご先祖様が映り込むようにしてからその間の座卓に座り、そうすると学校の教室のようにぐるりと大勢の人に取り囲まれているような気がしますので、
「おっほん、これから学級会議を始めます」
と、重々しく言いながら、写真の中のご先祖様一人ひとりに勝手な名前を付けて呼び、独り遊びを楽しんだりもしました。
写真はほとんど鶴婆ちゃん位の年齢のお年寄りばかりでしたが、その中に一人だけ、まだ若い、二十代と思われる洋装の女の人がいました。
その人は母にとても良く似ていて綺麗でした。
幸子おばさんは母の妹なのですが、おばさんよりその女の人の方が母に似ています。
なので私はよくその写真を見上げていました。
そしてその写真は、私の気分によって、笑っているようにも怒っているようにも見えました。
そんな風に、この村に来て最初の数日は、私もその部屋でお婆ちゃんと一緒にテレビを見たり、座卓で新聞の折り込み広告の裏に絵を描いたりして過ごしていましたが、そんな事は三日もすれば飽きてしまい、そのうち一人で広い庭を散策し、花を摘んだり虫を探したりしました。
それにもすぐに飽きると、今度は家の敷地から一人で出歩くようになりました。
敷地の目の前は一面広い田んぼです。
そこには私の知らない村の人達が、ぽつん、ぽつん、とまばらに居て、稲の手入れをしています。
みな一様に麦藁の帽子を被り、男の人は白い長袖のシャツに黒っぽい長ズボンで、女の人は紫のような茶のような地味な色柄の、やはり長袖の上着とズボンを身に着けています。
誰を見ても見分けがつかず、人かと思うと虚ろな案山子だったりもしますので、私は間違えると恥ずかしいので、なるべく田んぼの方は見ないで歩くようにしました。
ただ幸子おばさんだけは、私を見かけるとこちらに向かって声を掛けてくれるので、その時は私もおじぎをして挨拶します。
けれど他の人は私には知らんぷりです。私が鶴婆ちゃんの家でやっかいになっている事は、みんな知っているはずなのですが、絶対に話しかけてはきません。
そういう事を感じると、子どもなりに胸が痛く、私はどんどん人目を避けるようになり、明るい田んぼの方では無く、家の裏手のひと気の無い、森の方へ遊びに行くようになりました。そして秘かにその行動範囲を広げて行き、気まぐれに歌など歌いながら、一人ぼっちの散歩を続けました。
途中、田んぼ道から森へと通じる道で、俊之の車とすれ違う事がありました。
私がハッとして道端に寄り、立ち尽くしていると、俊之は例の不気味な目つきで私を見るので、私はそのまま下を俯き、黙ってすれ違うのが常でした。
そのくせ、あとからそっと振り返ると、俊之も運転席の窓から顔を出し、私の事を振り返って見ていたりして、そんな時はやはり胸がヒヤッとします。
私はここに来てから、鶴婆ちゃんのお世話と、大ざっぱな家事をするようになりました。
朝起きると家じゅうの障子と、それから雨戸を開けて周ります。
平屋ですが広いので、全部で二十枚の重たい木の雨戸があります。滑りの悪いそれらの戸を、きちんと一枚一枚戸袋に押し込めながら仕舞うのは思ったより大変で、それを終えるだけで朝から汗が噴き出します。
それから、ここに来た日におばさんに言われたように、神棚と仏壇を整えます。
お榊や、その日咲いている花を庭からハサミで切って花瓶にさし、朝、炊いたご飯とお水をお供えします。
神棚にはその他にお酒と野菜、それからメザシや昆布なんかをお供えする時もあります。
「これは『御日供祭』のようなものよ」と幸子おばさんが教えてくれましたが、私は『おにっくさい』自体を知りませんでしたし、だいたいその言い方が可笑しくて、口に出すことができませんでした。
とにかくその準備が整うと、鶴婆ちゃんと二人で、神棚と仏壇でそれぞれ手を合わせ、お味噌汁と卵焼きを私が作り、幸子おばさんの作った漬物で朝ご飯を食べます。
今までも一人で簡単な料理はできたので、朝と昼のご飯の支度はなんとかできました。
そして晩のおかずは、毎日夕方になると幸子おばさんが作って持って来てくれるので、食事については何も心配ありませんでした。
あとは部屋の掃除と洗濯なんかをしていると、あっというまに時間が過ぎて、軽いお昼を食べて洗いものを済ませると、ようやく私の自由な時間がやってきます。
そして私は、お供えの終わったお菓子を少し頂戴し、ポシェットに詰めてから森へ散策に出かけるのでした。
新しい家で、そんな退屈な習慣ができ始めた頃でした。
いつものように幸子おばさんが、白い軽トラックに乗って、お盆に載せたおかずを三品持ってきてくれてました。
私がお礼を言って玄関でそれを受け取ると、おばさんは、
「いつも遊んであげられなくて悪いわねえ」
と、日に焼けた顔で申し訳なさそうに言いました。
私がはにかみながら首を横に振り、そのまま黙ってお盆と前の日に頂いたおかずの器を返すと、
「凛ちゃんは本当に大人しいねぇ。うちにもこんな可愛い女の子がいれば良いんだけど」
と笑って言いました。
可愛いと言ってもらえて、私はちょっと恥ずかしくて返事もできずに俯きました。それを見ておばさんは気の毒そうに、
「この村はただでさえ子どもが少ないのに、女の子は特にいなくてね。小学校でも4年生の女の子はあんたしかいないのよ。でも毎日学校に行くようになったら、学年が違ってもすぐに仲良しができるから、それまでの辛抱ね」
と、言いながら私の腕を励ますようにポン、と叩きました。
私が上目づかいでおばさんの目を見ながらそっと頷くと、おばさんは急に泣きそうな顔になって、
「今度、田んぼが暇になったら、おばちゃんがデパート連れて行ってあげるから、学校の物とか服とか色々買いに行こうね」
と早口で言って、最後にエプロンのポケットから何かを取り出し、それを私の手に握らせると足早に帰って行きました。手のひらを開いてみると、それは古布で作られた、すすぼけた赤、黄、緑の三つのお手玉でした。
晩御飯を食べた後、鶴婆ちゃんがお手玉を教えてくれました。
お婆ちゃんは三つのお手玉を一つ一つ手に取ってじっくり見ながら「紅、浅黄、青磁」と懐かしそうに呟きました。
私はそれを人の名前か何かと思いましたが、どうやら色を表す昔の言い方のようでした。
それからお婆ちゃんは、あまり目も良くないのに、三つのお手玉を、小枝のような筋張った左右の手で、器用に投げては拾いを繰り返し、歌を歌い始めました。それはお手玉唄という古い遊び唄なのだそうです。
いつもの分かりにくいしゃべり方とは全く違う、おばあちゃんの朗々とした歌声と、独特の拍子に合わせて、シャン、シャン、シャン、と軽やかな小豆の音が、お手玉を手で受ける度に響きます。
一度に二つの玉を左右の手のひらから放り、それを手の甲で同時に受け止め、それをまたひょいとひっくり返して手のひらに乗せたと思うと、いつの間にか畳に置いてあったもう一つのお手玉を右手でサッと掬い、それがひらりと宙を舞うと、今度は別の一つが畳の上にあり、他の二つはそれぞれ左右の手の中に。と言った具合で次から次へと色の違うお手玉が飛び交い、まるで手品を見ているようです。
私も一生懸命真似してみるのですが、二つでも上手に出来ずに玉を落としてばかりで、お婆ちゃんはそれを見て歯の無い口から息継ぎのような笑いを洩らし、それでも何度も何度も、お手玉唄を唄ってくれました。
みずるめ どこおっちゃ ぬまんなか
しゃらしゃら かぜのね きこえたら
ながいおともの まんなかの かわいいこだけ よんどいで
みずるめ どこおっちゃ ぬまんなか
しゃらしゃら うろこが はがれたら
とどまるみずの まんなかで あそんでやるから でておいで
いつもの時間よりだいぶ遅い時間になってからお婆ちゃんは眠り、私は一人でお手玉を続けながら、夕方、幸子おばさんの言った事を考えていました。
学校が始まるまで、私はやはり一人のようです。
そして学校が始まったからと言って、小さな田舎の小学校で、引っ込み思案の私が、みんなと仲良くやっていくことなんてできるのかどうか、私には全く自信がありませんでした。
そんな事を考えていると、東京の家を思い出しました。
そして母の事を思い出し、自然に涙が溢れました。