人間以下な化物
内心ほくそ笑んでいることはよく視えていた。
だからきっと、なにかを仕掛けているのだろう。そう釘貫は考え、辺りをちらりと見渡した。
すると、初鹿の前に集まろうとしている髪を、視認した。
それは集まりながら編み合わさっていて、網をつくろうとしているのは歴然だった。
網。
それで捉えるつもりなのだろう。
だとすればこの避けた髪の槍は陽動ということか。
本命は網。
――あれに絡まるということは、相手の手のひらの上にのるということ。
それは嫌だ。絶対に嫌だ。
ゆえに。
釘貫は跳んだ。
髪の網の上まで、ロイター板もなしに。跳んだ。
足元に見える初鹿の顔は明らかに驚いているようだった。
見事、手のひらの上から跳び退いてみせた釘貫は、初鹿の上に着地した。
蹴った。
潰した。
「おおー、なかなかやるのう」
釘貫がのびた初鹿の上から退くと、それに変わるように、彼女は車イスから転げ落ちるように降りて、初鹿の上に乗りかかった。
「わしの髪、返してもらうぞ」
初鹿の背中に張り付いた彼女はなにかをした。
なにをしたかは分からない。
ただなにかをしたのは確かだ。
釘貫が瞬いて――まぶたを閉じて開いた時には、彼女の姿には少しの変化があった。
あいも変わらずあやふやであいまいな彼女ではあったけれど、しかし髪があることはなんとなく分かった。
真っ黒で艷やかな髪。
それが腰(?)辺りまで伸びていることがなんとなく理解できた。
彼女は、体を取り戻すことができた。
髪の生えた彼女とは逆に、頭部が寂しくなってしまった初鹿にはなんだか可哀想な気もしなくはないが、生え変わりのない釘貫と違って、大したダメージではないだろう。
数ヶ月の我慢だ。
「ふ、ふふ、ふふふ、ふふふふ、ふふふふふ――ふふふふふふ!!」
そして、彼女は急に笑いだした。
ごきげんな高笑いだった。
「どうじゃ、どうじゃ、どうじゃ、どうじゃ! わしの髪じゃわしの髪!」
「あ、ああ。似合う似合う。よく似合ってる」
「ふひひひひひひっ!」
正直言うと『髪があるのがなんとなく分かる』程度で、他があやふやであいまいな時点で、似合うもなにもないのだが、彼女は嬉しそうに何かを含んだ笑い声を漏らした。
含んでいるのは言わずもがな、喜びだろう。
「ふひひ、よくそわしの髪を取り戻す手伝いをしてくれたの。褒めてやる……」
そこで一旦つんのめてから彼女は。
「そう言えばぬしの名前はなんというのじゃ?」
と、尋ねてきた。
特に隠す理由のないと考えた釘貫は正直に答える。
「釘貫睦。釘に貫くで釘貫。睦はえっと、陸の左半分が目になっているあれだ」
「ふむ、釘貫か。覚えた覚えた。さて、釘貫」
ピタリ、と(恐らく)幸せそうな笑みは消え、彼女は口をにいっ……と、歪めた。のだろう。
そして釘貫を指さした。のだろう。
「ぬしの持っている目玉も返してもらうとするかのう」
「絶対に嫌だって言ってるだろ。理解しろよ」
釘貫は呆れた風に顔を手で覆う。
しかし彼女は笑みを崩さない(そもそもその笑みが分からないのだけれど)。
まあ、声が笑っているのだから笑っているのだろう。
きっと。
「イヤじゃと言えるのは今のうちじゃぞ。なにせ今のわしには、髪があるのじゃから」
「髪……?」
と。
ここで、釘貫は自身が危機に置かれていることに気づいた。
髪。黒髪。
ただそれだけならば危機感もなにも覚える必要はない。
しかし彼女の言う『髪』は他のものと一線を画す化物の髪である。
半径百メートル隅々に渡るまで張り巡らせたり、自身の前で網を編むことができる程度には器用な髪だ。
それは今まで存在があやふやであいまいな彼女には選択肢にあっても、行動として選ぶことのできなかった『暴力的に奪う』を実行させるには、充分すぎるツールだった。
「ふふふ、覚悟するがよい。腹をくくるがよい。ぬしに選択肢などないわー!」
彼女は見得を切るように目を見開いて――眼窩を見開いて、釘貫に向けて髪を伸ばそうとした。のだろう。
思わず釘貫は顔を防御するように腕を目の前に置いた。
その程度で崩御できるとは、さきまでの攻防から見て、つゆとも思えないけれど果たして――髪が襲いかかってくることはなかった。
「……ん?」
不思議に思った釘貫は恐る恐る腕をおろす。
「ふっ……ふん! ふん!」
彼女は。
なにやら力んだ声をあげながら、ぷるぷると震えていた。
きっとあやふやであいまいな姿でなければ、頬をふくらませ、顔を真っ赤にしながら力む幼女の姿が拝めたのかもしれない。
――赤ん坊って幼女なのだろうか。
釘貫は適当に考える。
「ど、どうしてじゃ!」
彼女は焦っていることを隠すことなく声を張る。
「わしは化物! 人間に使えたものが使えぬはずがない!」
「あー、多分だけどさ」
どうしてか使えない。
それでもまだ力んでいる彼女に、釘貫はポリポリと頬をかきながら言う。
「力が足りないんじゃないか? ほら、お前バラバラにされて僕の眼じゃあないと視認できないぐらいには弱まっているわけだし、多分、今のお前は人間以下?」
「そ、そんなああぁぁーーーーーー!!」
化物の悲しみの咆哮はしかし、釘貫以外に聞こえることはなかった。