ニアリーイコールは抉って
舞台へと足を踏み入れる。
スタッフの一部が『彼女にしては小さいステージだ』と言っていた。確かに十乃天がいつもライブをしている場所と比べれば、このステージはかなり小さい。海外のサッカースタジアムと小学校の体育館ぐらいのスケールの差がある。
しかし、だからどうした。だったらどうした。確かに大きさに差はあれど、ファンが来ていることは変わらない。小さなところだからと手を抜くのは、アイドルとして失格と言えよう。
「皆さん、こんにちはーーーー!!」
だからステージの上に立った十乃は、片手を高く掲げて、自分の声をマイクで拡声した。
瞬間、観客はわあっと歓声をあげた。テンションは上々だ。
「今日は来てくれて、ありがとーーーーう!」
観客全員に手を振りながら、十乃はちらりと最前列を見た。
親友、笹竹猫がなにやら興奮した様子で両手をこっちに向けて振り続けている。
友人――しかも女子に向けてする表現ではないかもしれないけれど、なんだか『盛った猫』のようなテンションで、なんだか親友という表現を撤回したい気分になってしまった。
振っていた手の動きを少しだけ鈍らせて、口元を引くつかせた。
そんな笹竹の隣の席は空席になっていた。
このコンサートは満員御礼でソールドアウトであるのだから、その席には本来誰かが座っていなければならないはずである。
しかしその席には誰も座っていない。
そこに本来座っているはずの人が一体誰なのか知っている十乃は、少しだけ、観客に見えないように息を吐いた。
――なんだよ、間に合っていないじゃあないか。
――やっぱりあの、全員を見てやってくれ。って言うのは遅刻した時の言い訳だったわけだ。
まるで自分以外の誰かのために言っているようにも聞こえた分だけ、そのアホらしさに十乃の顔には呆れを通り越して笑みが浮かんでいた。
――まあ、これで彼がここにやってくることはなくなった訳だ。ステージの最中は入ることはできないから。
――さてさて。
――せっかくあげたチケットを無碍にされてしまった私は、彼の意志を尊重して彼の言っていたことを実践することにしますか。
まるで道化のようだ。
彼女自身、自分が心中で繰り返していることのバカらしさを自覚していた。
彼は今この場にはいない。
その理由を、まるで分かっていないように、気づいていないように振舞っているつもりだけれども、それでも、やはりつくっている感は否めない。
理解はしているのだ。
彼が言っていたことが嘘だということぐらい。
それを嘘だと分かっていながらも、彼を犠牲にしながらもこの場に立っているのは結局、彼の意志を尊重しているのだ。としか言いようがない。
自ら犠牲になりにいった彼を――庇うように去っていた彼を追うということは、美談としては美しくとも、現実問題としては失格この上ないだろう。
だから十乃天はステージに立っている。
それが、自ら犠牲となった彼の願いだとするならば。
――まあ、それも、聞こえのいい言葉に過ぎないのかもしれないけれど。
私は、犠牲となりにいった彼を呼び止めることもできない、助けに行くことすらできない弱虫なんだ。と言っているようなものなのだけど。
「皆の顔、一番奥まで見えてるからねー! 盛り上がってなかったりしてなかったら、寂しくて私、帰っちゃうかもよー!」
段々と消え入っていく心中とは裏腹に、マイク越しにステージ上から響く声はどんどんと明るくなっていく。私は、弱みを見せてはいけないのだから。当然だ。
十乃は釘貫が言っていたように、ステージ上から観客を一望した。
「え?」
そして、見つけてしまった。
二人の姿を見つけてしまった。
それは、心の前にある彼女の堅牢な守りを瓦解するには充分すぎるものだった。
ポロリ、と涙がこぼれた。
***
さながらキスでもするかのようだった。
けれども、釘貫睦には同性愛の趣味はないし、更に言えば被虐趣味もない。
だから迫りくる大きな口を開けた岳骨の頭を両手で掴むと、鼻っ面を潰すように額をぶつけた。
両手で自らの方へと引き込むようにしながらぶつけた額は、岳骨の鼻を潰して顔にめりこむ。
ぐぽっ、と音がして額は岳骨の顔から抜ける。額には血が付着していて、そこから岳骨の顔までアーチがつながっている。
「ふっ」
もう一度、額をめり込ませる。
もう一度、もう一度、もう一度。
ガッゴッガッ、と人体と人体をぶつけているというよりは――金槌と金槌をぶつけあっているような痛々しい音が嫌なほど体内に響く。臓物を音で殺せそうだ。
ぬるり、と手のひらが血で滑り、岳骨は頭を引っこ抜いてバックステップで距離をとる。
釘貫はそれを追おうとしたのだが、失血気味の左足がそれを許してくれなかった。
まるで足枷と鉄球をつけられた囚人のように、前のめりによろめく。
岳骨は自分の顔を手のひらで覆って、べっとりとついた血を拭う。溢れていた血がまるで原住民の入れ墨のように岳骨の顔に残る。
「さて、あとどれぐらいで動かなくなる?」
「お前が倒れるまで」
「活きがいいな」
「お互いな」
よろめく体を右足で支えながら釘貫は岳骨を見据える。
左足の調子はすこぶる悪い。最悪だとさえ言ってもいいかもしれない。
感覚はすでになくなり、まるで一本足のカカシになってしまったような気分だ。
――さすがにこの状態で動き回るのはキツいな……。
釘貫自身、運動神経はいい方ではある。けれども、右足片方だけで動き回りながら岳骨の動きに合わせることは少しつらいものがある。
釘貫は腰を落として、体を屈める。
行動できる時間は少ない。これで決める。これで終わらせる。
岳骨は釘貫の行動を見て、ニヤァと笑って、一回歯を噛みしめる。
ガチン、ガチン。と金属がぶつかり合っているような音がした。
歯を金属製にしているのだと言われても信じてしまうかもしれない。
「頑張れよ軽いの。重いやつを助けるんだろう」
「ああ、そうだな。お前をさっさと倒して、ライブを見にいかないと。せっかくの最前列なんだからさ」
言い返してみて、岳骨の行動を待ってみるも、岳骨は動く動作すらみせない。
釘貫の左足がすでに使い物にならないことを、先のぶつかり合いで気づいたようだった。
相手から攻めてくる必要はない。ムダにリスクを負う必要はない。弱りに弱ったところを狙って、奪いにいけばいいだけだ。
釘貫は両目を強くつむって、大きく息を吐いた。
目をつむっていようが、釘貫の持つ両目はまぶたの向こうを視せてくれる。明らかな隙ではあるけれど、岳骨が襲いかかってくる様子はなかった。
さっきまで不意を狙っていたくせに。釘貫は顔を歪めて、小さく舌打ちをする。
どうしたら相手はこっちに来てくれるだろうか。どうすれば……。
…………。
「……なあ、苗切」
「なんじゃ?」
釘貫と岳骨の勝負の結末を今か今かと待ち構えている苗切は――彼女にとっては、どちらが勝っても負けても問題はない。勝負がつく必要すらない。どちらかが倒れればいいのだ――突然話しかけられて、目だけを動かして釘貫の方を見た。否、彼女の眼窩には眼球なんて入っていないのだけれども。
彼女の眼球が入っているのは、釘貫の眼窩である。
「お前の眼球は、人の体に寄生してるんだよな」
「そうじゃな。ぬしの体を型にして、わしの体をつくろうとしている」
「……よし」
釘貫は両目を開いた。その目は落ち着いているようにみえる。
胸が膨らむように大きく息を吸って、吐く。
「岳骨」
「なんだ?」
「俺の化物の断片は──パーツは、眼球だ」
「だろうな」
「それを、やるよ」
***
「僕の眼球をやるよ。だから、ここから去ってくれないか」
その目は落ち着いているように見える。
しかしそれはある種の自暴自棄なのではないかと、苗切は思った。
どうでもよくなったから、どうでもいいから、落ち着いている。
暴れるだけの理由がないから、冷静でいられる。
対して岳骨の方はと言えば、釘貫の突然の提案――しかも、眼球を渡すという提案に対して訝しむように眉をひそめていた。
それもそうだろう。
確かに岳骨は釘貫からパーツを奪おうとしていた──眼球を食らって食い千切って自分の眼球を交換する予定だった。
更に言えば元はあのアイドル、十乃天が持っているとみられるパーツを手に入れようとしていた。それを邪魔するように横入りしてきたのが釘貫なのだ。
パーツを奪われないように──あるいは、あのアイドルを守るために動いていたこの男がどうしてそんな自暴自棄なことを口にした。
「だから、あいつを襲うのをやめろ」
「……ふうん」
なるほど。と苗切は口の中だけで呟いた。自分を生贄にして、彼女を守ろう。という算段らしい。
自分を犠牲にしてステージを守ろうとしているこいつらしい、自己犠牲精神だと言える。自分の命を軽い。と言えるこいつらしい判断だと言える。
ついで、馬鹿らしい。とも苗切は思っていた。そんな約束をこいつが守るわけがないだろう。と。
そしてその選択は、苗切にとっては一番最悪のパターンだと言ってもいい。なぜならこの約束が成立してしまえば、最悪三つのパーツが岳骨の手中に収まるからだ。更に自分の姿が視えるようになった岳骨が、一体どういう行動をとるかなんて、考えるまでもない。
自分を支点にしてパーツを集めるのと、集められているパーツの中に入れられるのと。
結果的にはパーツが集まっているのは変わりないが、その結果自分がどうなるかが分からない。苗切白里という存在がどうなるのか分からない。
自己がどうなるのか。
不安になる。
だから、できれば岳骨にパーツが集まるのは避けたい。
釘貫は苗切は『どっちが勝ってもうれしい』と考えていると思っているようだったが──実際間違ってはないのだけれども――パーツを取られてしまうこの可能性だけは避けておきたかった。
しかし、人や物に干渉することができない苗切にできることと言えば、そんな暴挙にでた釘貫に対して文句を言うことだけなのだが、言ったところでその提案を撤回するようにも見えないし、それよりもはやく。
「あいつの命のほうが重い。だったけか?」
と岳骨が興味をしめしてしまった。口元がニマァ、と吊り上がる。
「僕はいるもいないも関係ない。ニアリ―イコールだ」
「はあ?」
「そこにいる苗切みたいにな」
「たわけたことを言うでないぞ」
苗切は思わず言い返した。
釘貫は苗切から視線を外して、岳骨の方を見る。
「けど、お前は違う。いるといないでは物語に大きな影響を与える」
だから、退場してもらう。
あいつの物語から、退場してもらう。
そのために僕の眼球を差しだす。
釘貫は自分の眼球に手を添えた。瞼越しに柔らかくそして硬い丸いものを指でなぞる。
むにゅり、むにゅり。
そして、握る。
釘貫の目から、つつつー、と赤い血が流れた。手のひらが目の位置から離れる。
まぶたは閉じられ、その隙間から血があふれている。握られた手の指の間からも同じように溢れている。
岳骨の目は、明らかに化物を見る目に変わっていた。
化物になることを望むものがそんな目をするのは、少しばかり皮肉にも感じなくはなかった。
「ほらよ。眼球だ」
「……イカれてんな」
「これで済むなら、安いほうだろ」
釘貫は目を掴んでいる手を前に突きだす。そして少し待ってから、顔をしかめた。
歩いてくる音がしないことに、違和感を覚えているのかもしれない。
「どうした。こいよ」
「不意打ちをされたくないんでね」
岳骨は突き放すように言った。
「その手に持ってるものを、投げろ」
釘貫は渋い顔をする。
どうやら自分の眼球を餌に不意をうつつもりだったらしい。
眼球を餌にする。なんて、考えれば考えるほどイカれているし、狂っている考えではあるのだろうけれども。
釘貫は握り拳に視線をおろす。見えてはいないからか、やや方向はずれている。
「……分かったよ。しっかり、とれよ」
「おうよ」
釘貫は握り拳を大きく、アンダースロー気味に振るって手の中にあるものを投げた。
てんで的外れな方向に飛んでいくことはなかったが、手からすっぽ抜けるタイミングがずれたのか、宙高く眼球は飛んでいく。飛距離もそれほどあるわけでもなく、岳骨のもとまでは届きそうになかった。岳骨は口元をひんまげる。
宙を舞う眼球をみて――見るための眼球はないのだけれど――苗切は逡巡する。
あの眼球は自分のものだ。
どちらかが倒され、気絶ないしは死んでいるうちに奪ってしまえばいいから、断片持ちが殺しあうことは苗切にとっては喜ばしいことではあるけれども、しかし、自分が奪う前に誰かに奪われるというのは本末転倒だ。
ただでさえ、今の自分は周りに干渉できないというのに。
奪うか。
奪うか。
否。
あれはわしの物だ。
奪うのではない。
取り返すのだ。
取り戻すのだ。
苗切は静かに車イスの車輪に手をかけた。けれども、それが回転することはなかった。
なぜならば、それを防ぐように釘貫がつむった瞼で彼女を睨みつけていたからだ。
邪魔をすんな。とでも言いたげに。血の流れる瞼で睨みつけていたからだ。
眼球が地面に落ちた。
岳骨がそれを見て、釘貫を一度見て、足を動かした。
地面に落ちている眼球を披露。それを見て、岳骨は眉をしかめた。
なぜならば落ちていた眼球は――一つだったからだ。
「あ?」
「お前は、人の物語に影響を与えられる人間だ」
岳骨は顔を持ち上げた。
釘貫が眼前にまで迫っていた。
その右の眼窩には穴が空いていた。
その左の眼窩では眼球が見ていた。
眼球の下から血の涙がこぼれていた。いや、違う。あれは指についていた血をつけただけ──。
「だから」
がつん、と顔面に衝撃。
体を置いて頭が後方へと反れる。
手の内にあった眼球がこぼれ落ちた。ぶちりぶちり、とまるで肉をそぎながら落ちていく。寄生しようとしていたのだろうか。
それならば、どうして落ちた。
分からない。
考えることもできない。
痺れて震えている視界の中で、釘貫が腕を振りかぶっていた。
顔面を狙っている。それは分かった。岳骨は口を開く。なんでもかみ砕ける化物の咢で喰らいかからんとする。
だが、釘貫は拳を振り下ろすことをやめない。まるで、口を開けるのを待っていたと言わんばかりに。
「お前はここで、退場しろ」
拳を振り下ろす。
拳は、岳骨の口の中へと、狙っていたように入っていった。
握り拳の大きさは大口の大きさとも、喉の大きさとも合わない。明らかに、あからさまに大きい。
そんなものが口の中に入ってしまえばどうなるか。
喉の奥に入ればどうなってしまうのか。
それは誰にだって想像はつく。
喉の奥をぶん殴られた。
けれども、岳骨が気を失ったのはもちろん、それが原因なんかではなかった。
***
ころころと眼球が地面を転がる。
それを苗切はなにも入っていない眼窩で追う。見えているのか見えていないかは分からない。
手を伸ばそうとした。のだろう。頭と髪しかない彼女がどうやってそれを取ろうとしているのかは誰にもわからない。多分本人にも分からない。
しかし、その手が眼球を掴むよりも先に釘貫が地面の砂ごと眼球を拾い上げた。
「砂が一粒もついてねえ。凄いと言うべきか、気持ち悪いと言うべきか」
じろり、と苗切を左目で睨んでから右の眼窩に眼球を押しこんだ。釘貫の表情がぐにゃりと歪んだ。体を縮こませて、うずくまる。
「いってぇ……」
両目を瞑って釘貫は起き上がる。両目から流れていた血――正確に言えば片目から流れていた血と、それをまぶたの下につけて血を流しているように見せかけていたそれをぬぐう。あーー、と声をもらして、瞼を開く。
どちらの眼窩にも、眼球は入っていた。
「ふざけておるのう」
安堵している様子の釘貫に、苗切は呆れたように話しかける。
「寄生をしているってことは、抉りとったとしてももう一度寄生させることもきっと可能なはずだ。そういう考えでやったのじゃろうが、それでも、ふざけておる。としか言いようがないのう」
「お前の生命力の強さには感謝して尽きないな」
釘貫はアゴで、倒れている岳骨を指した。
「気絶している今なら、お前でも取れるんじゃあないか?」
「おお」
思いだしたように苗切は言った。
彼女の目的はそもそもそれなのだから、忘れるもなにもないだろうに。
苗切は車イスから転げ落ちるようにして、岳骨の上に乗りかかった。
やはり、なにをしたのかはさっぱり分からなかった。けれども、なにかをした。
岳骨の顎が、まるで骨を抜き取られたように潰れた。
苗切の顔には、目はなかった。
腰の辺りまで伸びている黒くて艶やかな髪がある。
そして、小さくてリンゴに噛みつくことさえできなさそうな顎がある。
それだけは、はっきりと分かった。
「ぬしはいてもいなくても変わらなくはないぞ」
ふと。
思いついたように苗切は言った。
釘貫は彼女の顔を視た。
「わしの話し相手としては、居てもらわねばならんな。わしを視ることができるのは、ぬしだけなのじゃから」
「……別に、僕以外でも眼球さえあればお前を視ることはできるだろ」
「そうじゃな。だが、今眼球を持っているのはぬしじゃ。それとも誰かに奪われる予定でもあるのか? そんなことになるよりかは先に、わしに――」
「やなこった」
釘貫は口元を少しだけ緩めながら返した。
彼女の、気を使っているようで結局のところ、エゴだけで話しているそれが妙に心地よかった。




