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第八譚 やがて、少女は

 

 

 とりあえず、あの『追捕使』の少年に殺されることはなくなった、らしい。

(は、)

 思ったよりもずっと気を張り詰めていたらしい。

 楓はスカートが汚れることに構わず、アスファルトの上に座り込んだ。腰が抜けた。

(こわかった)

 ボンヤリと思う。

 怖かった。

 本当に、怖かった。

 和美に無理矢理載せられた絶叫マシーンの恐怖とも、母親や教師に叱られたときの恐怖とも根本的に違う。緊迫感に押し潰されそうだった。全く生きた心地がしない。

「はーーーー」

 とにかく、少年に『追捕使』になると告げてしまった。

 けれど、拷問のようなあの恐怖の中で自身の死を選べる人はいないだろう。絶対に生きる道を選択する。それこそ自殺志願者でもない限り、よほどぶっ飛んだ人でもない限り、生存本能というヤツが働いて生きる道を選択するだろう。例えそれが利己的な感情だとしても。他でもない自分の命がかかっているのだから。

「―――よし」

 一度、家に帰ろう。

 何はともあれ死の危険は回避できた。

 それにあの少年から『追捕使』について詳しく聞いていないし、何より『紫衣』の正体を知りたい。やらなければならないことだらけだ。こんなところに座り込んでいる場合ではない。

「……帰ろう。とりあえず、帰ろう」

 繰り返し、頭に刷り込むように呟く。

 やることは決まった。

 やることがある。

 スカートの埃を一通り叩き終えると早足で歩き出した。

 目指す自宅はもう目と鼻の先。

 あの少年が居た地点から三〇秒も歩けば自宅が見えてきた。

 簡単な門を潜り、見慣れた敷石の上を歩いて、それから学生鞄の中から鍵を取り出し、鍵穴に突っ込む。北沢家の鍵は少し独特だ。鍵穴に鍵が上手く入らないのだ。これは年季物で錆びているせいで、そろそろ両親に新しい鍵の設置を提案した方が良いかも知れない。何より最近世の中物騒だ。殺人事件は毎日のように起こっているし、近所で空き巣もあった。このボロ鍵では心許ない。

「ただいま〜」

 昨日よりは、断然声が出た。不安が払拭されたからだろうか。

 ちょっとした自己満足に浸りながら、楓は玄関先で靴を脱ぎ、

(ん?)

 妙な臭いがする。

 嗅いだこともない奇妙な臭いであるそれはリビングから漂ってくる。

「お母さん〜?」

 多分、母が魚でも焦がしたのだろう。リビングからその妙な臭いがするのはリビングとキッチンが隣接しているからだろうから、特に不審な点はない。

 楓はそのままリビングに繋がる廊下を躊躇いもなく直進して、リビングを覗





「あ、お帰りなさい」





 息が詰まった。

 学生鞄の感触が手から消え、そして何かが落ちた音が聞こえた。

 リビングの中央には、出張していた父のおみやげであるトルコ絨毯が敷かれている。

「え?」

 そのトルコ絨毯が、血に染まっていた。

 血溜まりの上には、―――何かが、俯せになって横たわっている。

 楓は何故だか声を抑えていた。場を支配している何とも言えない絶対的な『何か』が、声を出させるのを押さえつけているのかも知れない。

 俯せになっている『何か』―――否、俯せになっている『誰か』はもう死んでいるだろう。これだけの出血をしていて助かるはずもない。医学的な知識はなくとも、本能で分かる。

 それにしても、血の量が凄い。

 人間の体内にはこんなに沢山の血液が流れていたのか。

 楓は呆然とそんなことを思っていた。

 視線を上げてみる。

 リビング全体に、血が飛び散っていた。

 家族団欒の舞台であるテーブル。

 その上にある新聞、テレビやエアコンのリモコンと籠に入った蜜柑。

 つい最近までチャンネル権は父が握っていた今時古いブラウン管テレビ。

 設定温度は高めだったエアコン。

 クラシックが趣味である父が設置した高級コンポにモーツァルトとバッハの全集が置かれている棚。

 幼い頃に楓が欲しいと強請って強引に買って貰った黒いソファー。

 全てに、血。

 血、血、血。

 真っ赤っか。

 その赤、中心部に、その『誰か』が横たわっている。

 楓は、考えた。

 そこに転がっている『誰か』は一体全体誰なのか、と。

「お、か、あさん……?」

 何故、どうしてこの場面で母親を呼ぶのだろうか楓には理解できない。

 けれど、楓は母を呼んでいた。

 見慣れた背格好に髪型。

 半分は真っ赤に染まっているけれども、母が好きだった服とそのコーディネート。

 それは。

 

 

 

 

 ―――母親の、佳子、に、よく似て、いる。

 

 

 

 

「ぅ、そ……」

 楓は、一歩下がっていた。

「ぁ、あ…………ぅあ」

 違う。

 似ているのではなくて、

「ぃ……ぅあ」

 本人だ。

 そう確信した刹那。

 グッと、腹の底から押し寄せてくる。

 気持ち悪い、吐きそうだ。

「ぐ、ふ」

 口元を押さえる。

 気持ち悪い。

 この死体は母親なのに。母親をも気持ち悪いと思ってしまうのか。

 学校に登校するあの時、笑っていたあの母親が今―――

「う、ゲッ!」

 瞬間、楓は身体を折り曲げた。

 瞬間的に口の中に酸味が広がり、胃袋の中身を全て吐き出した。

 楓は嘔吐した。

 汚い音が連続し、床に自分が吐き出した物でありにも拘わらず『気色悪い』吐瀉物が広がっていく。

「大丈夫?」

 少年は血に染まった刀をそのままに、

「水でも持ってこようか?」

 淡々と告げる。

 握り締められている血塗られた刀が、誰が楓の母親を殺めたのか、という疑問を適切且つ合理的に解決させていく。

 なのに。

 なのに、少年は言った。

「オレが斬ったんだよ。それなりに腕に覚えがあるからきっと苦痛は感じなかったと思うけどね」

 何が、起こったのだろうか。

 状況の、把握が、出来ない。

 死んでいるのは、母親。

 殺したのは、あの『追捕使』の少年。

 それだけ、把握しているのに、まだ何も解らない。

「大丈夫。オレは『あの世』なんて信じてないけど多分寂しい思いはしないと思うよ」

 刀の切っ先から血が床に滴り落ちていく。

大峰勝夫オオミネカツオ

 母方の祖父の名前。

大峰吉乃オオミネヨシノ

 母方の祖母の名前。

大峰恵子オオミネケイコ

 母の妹、叔母の名前。

北沢翔太郎キタザワショウタロウ

 父方の祖父の名前。

北沢花子キタザワハナコ

 父方の祖母の名前。

北沢悠キタザワユウ

 父の弟、叔父の名前。

「北沢香苗」

 叔父の伯母。

北沢誠哉キタザワセイヤ

 叔父の長男、従兄弟。

「ざっと今『記憶しているのは』このくらいかな。とりあえず役所から戸籍の類を拝借してね、血の繋がった人間は邪魔だから楓ちゃんに声かけたあとに皆殺しにしてきたんだ。―――あ、何で殺さなきゃならなかったか、と言うとね、いろいろこれから『追捕使』になるためにレッスンしなきゃいけないからでさ、家族がいるといろいろやりにくいんだよね。だってさ、楓ちゃんがいきなり鎌とか出したらお母さんたちびっくりしちゃうでしょ? だから殺しちゃった方が合理的だってことくらい分かるでしょ?」

 世界が、止まる。

「ちなみにね、お父さんはまだ生きてるよ。この家に『入った』ときにお母さんがお父さんと電話していたから、今日は会議だからちょっと遅くなるみたいだし。本当は一緒に斬って、楓ちゃんに殺しの現場を見て貰いたくなかったんだけどこればかりは仕方ないよね」

 愕然を通り越し、何も考えられない。

 これが無の境地だと、冷静な猛一人の自分が言って、

 刹那。





 ―――ハジケル。

 




 


     ◇◆



 口元を拭う。

 手に吐瀉物の一部だろうか、気色悪いモノが少し付着したけれど、気にしない。

 手は、後で洗えばいい。

 楓は、冷静だった。

 母親が殺されたというのに、初めて大鎌を手にしたときよりも、心が落ち着いているし、不思議と妙な緊張もなかった。

「ふ〜ん。恐怖じゃなくて哀しみね……」

 楓の眼前で、少年は血に染まった刀を正面に構える。

 対し、楓も大鎌を構えた。

 ―――軽い。

 大きさの割には軽い。軽すぎる。自分の身長より少し高いのに、まるで発泡スチロールの棒を握っているよう。そんな在り来りな感想を楓は抱く。

 両者は、楓の母の亡骸を挟み、対峙する。

「今日はゆっくりして欲しかったんだけど、予習も悪くないよね」

 平然と、言う。

 冷酷に、淡々と。

「オレは楓ちゃんのお父さんが帰って来たらお父さんを斬る。楓ちゃんはお父さんを守りたいんでしょ? 楓ちゃんの勝利条件は二つだよ。お父さんが帰ってくる前にオレを殺すか、帰ってきたお父さんをオレから守るか、そのどちらか」

 カチャッ、と刀身が鳴った。

 少年は刀を返す。

「さ。早いとこ白黒つけちゃおうか?」

 刹那、楓は大鎌を振るい―――

「楓ちゃん。フライング」

 刀を使わず、少年は片腕で受け止めた。

 湾曲した刃が直接少年の手の甲に触れているのに、一ミリも肌に食い込んでいない。

 呆気に取られる楓に、少年は意にせず平然と言った。

「レッスンスタート」

そう。全てが私を追い詰めて壊すのよ。

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