第七譚 指揮者は歌手に絶望を命じる
「え……?」
オバケ屋敷も呼ばれる第三校舎の一角に美術室ある。
楓は、その美術室の前で愕然とした。
「……なんで、ここにいるの?」
居る筈なんてないのに、恰も当たり前ですと言わんばかりに、そこにいた。
「何でって―――」
美術室の入り口で固まっている楓に対して、
「顧問だもの」
聞き覚えのある綺麗な女の声だった。
「顧問は部活に来ちゃイケナイの?」
女は美術部顧問兼社会科教師・尾藤蘭。
彼女は右手に握る白チョークで黒板にでかでかと『歴史は繰り返される!』と描きながら、特に楓の方をみるわけでもなくふて腐れたように言った。ちなみに『歴史は繰り返される!』は明朝体のようなデザインである。
「明日は大嵐ですね」
「こら」
尾藤は校内随一の放任主義者だった。
授業も適当。性格は良く言うと度量が広く、悪く言えばいい加減で、教師のクセにびっくりするほど生徒に肩入れしない。生徒がやりたいと言えば何でもかんでも自由にやらせる。究極の放任主義といっても良いかも知れない。ちなみに彼女が担任である二年四組は、今年の文化祭で茶店(とは言うのは立前で実質キャバクラ)を計画し、それが校長に露見してクラス共々怒鳴られたりしている。何ともまあ、前代未聞、前人未踏な感じである。
そんな尾藤蘭が美術部に顔を出す、ということはほとんど無い。だから美術部は莫大な幽霊部員を抱えているのだ。まあ、楓にとっては集中できる絶好の環境というわけで結果オーライというヤツであるのだが。
「心境の変化でもあったんですか?」
楓はイーゼルを立てると、例の絵を載せる。
「いや〜。元気にしてるかな〜って思って」
尾藤は『歴史は繰り返される!』をちょこちょこ修正しながら、
「北沢。それで今度のコンクールに出してみない?」
「は?」
ふと、数ヶ月前の光景が甦ってきた。
「センセ。嫌だって言ったでしょ?」
「そうねぇ」
尾藤が進めたコンクールはそれなりに名の通ったコンクールだった。
けれども、コンクールに絵を出そうとは思わなかった。
そもそもコンテストなんかで獲られる名誉には何の価値を見出せないのだ。
楓はただ自己満足のために絵を描いているのだ。
デッサンが上手くいった。
建物の着色が綺麗に出来た。
納得のいく構図を実際にキャンパスに映し出せた。
全て、自分のため。
酷く利己的なのだ。
だから、
「出しませんよ。審査員に見せる絵は私には無理です」
審査員を動かす絵なんて描けない、書く気が起きない。
せっかく今まで自分のためだけに描いてきた絵なのに、そんな急に人受けする人に絵なんて描けるわけがない。
「私には、そこまでの技術も感性もありませんから」
数ヶ月前も、楓は同じ台詞で断った。
個人的には尾藤が断ったのにもう一度同じ誘いをしてくれたのは嬉しかった。
滅多なことで特定の生徒に肩入れしない尾藤が誘ってくれる、ということはちょっとした優越感に浸れたし、何より他人に自分の絵が『人に見せるに値する』と評価されたことが嬉しかった。
「センセーはそうは思わないかな」
「え?」
「人の不安とか悲しみとか、あんたはそーゆーのよく分かるでしょ? 大体人が何を思ってるか、とかさ。その観察眼と表現できる感受性は天性の物だとセンセーは思うけれどね」
「センセ、買い被り過ぎ」
「そう? だって北沢、センセーにちゃんと『心境の変化でもあったんですか?』って声かけてくれたじゃない。それが良い証拠だと思うんだけど。他の先生とか友達に『察しが良いね』とか『気が利くね』って良く言われるでしょ?」
「ないね。どうせ誰も私のことなんて見てないって」
「そう?」
「すいません」
豪快な笑みを見せて、
「何で謝るのよ? 元々はセンセーが仕掛けたんだしね。―――さてと」
満足な出来になったのか、チョークを投げ捨てて、
「じゃ、戸締まりヨロシクね。日直から怒られるのセンセーなんだから」
そのまま呑気な声と、黒板に美しく、力強く纏められた『歴史は繰り返される!』をそのままに、結局何がしたかったのか分からないまま美術室から出て行った。
(多分、暇だったからかな)
まあ、いい。
とにかく、今からは完成間近の絵に集中しよう。
そう思いながら、楓は描きかけの絵の前に立った。
◇◆
夜が迫る。
「こんばんは」
家まで、あと数メートルの地点。
家に至たる最後の曲がり角。
曲がったところに、昨日のこの時間と同じ光景。
「改めて。オレは『追捕使』大野繁信。楓ちゃんみたいなアカシックレコードに記されていない『異常因子』を処分してアカシックレコードを守る者」
黒髪、黒のロングコートにフィットした革製の黒いジャケットにズボン。
闇に熔けてしまいそうな漆黒の少年はそこに佇んでいた。
「丁度一日経った。オレのように『追捕使』になるか、それとも処分されるか」
眼前の少年は構えを崩さずに、
「選んで?」
感情のない、言い回し。
強烈なプレッシャーが楓を包み込んで、逃れようとしても逃がさない。
彼の要求通りに、楓が今ここで『「追捕使」になる』そう言えば殺されることないだろう。
なのに、楓は死の恐怖で震えた。
自分の一言が生死を分けると言うことくらいは分かっている。
逆に、自分の一言で絶対的な安全を得ることだって可能、その方法も完璧とは言えないけれど、理解している。
だが、怖い。
怖い。
怖いのだ。
手段も、言うべきことも分かっている。
けれど、何処か絶対的な恐怖が付きまとう。
「―――わかった」
楓は自分の身体を抱き締め、出来る限りの虚勢を張って必死に言葉を紡ぎ出す。
「やる」
一陣の風が吹き抜け、カサカサという葉音の後、静寂。
「ホント? 後悔しない?」
「……断れば、斬るでしょ? 死にたくないし。やればいいんでしょ?」
少年は楓の問いを愚問だと言わんばかりに流し、
「ホントに?」
「―――死ぬよりは、マシ。死んじゃったらそこで何もかもオシマイでしょ?」
「誓って」
と、楓は気付いた。
少年の様子がおかしい。明らかに出逢ったときと違う。
「これから、何が起こっても絶対に後悔しないって」
声が少し震えている。声の裏に歓喜が見え隠れしていた。
少し、楓はその反応に疑問を抱いた。
これは、ただの『歓喜』ではない。何か、どこか歓喜以上の何かが混入している。
「いいよね?」
「うん」
警戒は依然解かない。自分の声が少し低くなる。
少年の一挙一動が、凄く怖い。何だか開けてはならない箱を開けてしまったような、感覚。
「選んだコト、後悔しないでね」
スポットライトのように、古ぼけた街灯が楓と少年を照らす。
「これからはね、全部が『当たり前』だからね。常識を捨て、全てを受け入れて。これから起こる、全てをさ。有り得ないこと全てを受け入れて、強くなって。いい?」
楓は臆しながらも、頷く。
少年は『頷いた』楓を見据えて、
「これから、ヨロシクね」
にこやかに告げ、少年は消えた。
この後、楓は数十秒の思考時間を要してようやく『少年が脚力のみで飛び去った』という事象を認識した。
意志は揺らぐ。揺らいで、揺らいで、そして砕ける。砕け散った意志を握り締め、少女は叫んだ。